男の、死の恐怖への深い理解は一体どこからやってくるのか。

それを説明するために、まずは男の生い立ちと、彼の「同居人」の話をしよう。
同居人にはフリッピーという名前があった。しかし男には名がない。呼ぶ者がないからだ。名前というのは、他者に呼ばれてはじめて存在する。
日々の生活の中で同居人が男の名を呼ぶことはない。それどころか、今まで彼らは、会話を交わしたことすらなかった。
なぜといって、男と寝食を共にするフリッピーという青年は、彼の「体の」同居人であったから。ホームズとワトスン教授がアパルトメントの一室を共有したように、彼らは一つの肉体を、存在の基盤として共有しているのである。いやむしろ、名無しの男が、フリッピーという人間の体を間借りしているという表現こそ近いのかもしれなかった。
フリッピーは今、二人の共有する体の内で眠っている。琥珀色の優しい瞳を瞼で覆って、白く美しい貝殻を集める夢を見ているのだ。

男の世界の、原初の他者はフリッピーだった。どんな場所で出会ったのかは分からない。羊水の中だったかもしれない、白い砂の海岸だったかもしれない、戦場だったかもしれない。ただ、男の意識が始まった時には既に、彼の体内にはフリッピーがいた。
生来、男は、自分はフリッピーを守るためにこの世に生まれたのだと信じて疑わなかった。
なぜならば、男の意識が覚醒するときはきまってフリッピーは生命の危機に陥っていたのだし、彼にはその危機を脱するための力があったから。
フリッピーが眠っている時、またフリッピーが窮地に立たされたとき、男の意識は急激に覚醒する。その度に男はフリッピーのために「すべきこと」をしてきた。それはかつて敵兵を殲滅することであったし、また、あらゆる拷問や陵辱をその身にうけることであった。
退軍してからも、男の圧倒的な強さは幾度となく彼と、フリッピーの命を救った。
しかし、フリッピーにとって男が生存のために必要な存在だったように、男にとってもフリッピーは欠かすことの出来ない存在であったのだ。
男は過去一度たりとも、レゾンデートルや正義の所在など、人類の根源的で致命的な問題にぶち当たったことがない。フリッピーを守るという、確固たる自意識が彼にはあったからだ。ただ目的に殉ずればよかった。運命に甘んずればよかった。その意味で、男は誰よりも安穏と生きていたと言ってもいい。
軍からの膨大な報奨金を持て余して旅を続け、このおかしな村に住むようになってからもその共依存は変わらなかった。

では次は、彼らが住む街の話をしよう。
その街には死者が絶えなかった。日々目を覆いたくなるような事故が起き、些事の中で理不尽に人は死んだ。
けれど、決して人口が減ることはない。なぜか。
この悪趣味な謎掛けの答えを、男は知っている。
その街には『死なない呪い』がかけられているのだと、街のヤブ医者はそういった。最初のうちは鼻で笑っていた男だったが、殺したはずの強盗が、数日後同じように家に押し入ってきた時に、やっとおそろしい場所に来てしまったのだと理解した。
そんな気味の悪い街は、一刻も早く出ていきたいと男は思ったが、フリッピーはその街に小さな家を買うことを決めてしまっていた。その街の美しいみどりや、かわいらしい小鳥の声、彩度の高い海をいたく気に入ったらしかった。
そして男に言わせてみれば、なにより村外れに住む赤い髪の少女を、だ。

それからの日々は男にとって苦悩の日々となった。その呪われた街では些細なことが命取りになる。まるで理不尽に死ぬという運命に漂着するかのように、誰もが死に、そして生き返った。なぜそんなおぞましい街に人が(彼のフリッピーまでも!)住んでいるのか、男は理解に苦しんだ。その呪いは当然フリッピーの身にも暗い影を落とす。
その街に家を買って以来、フリッピーは赤髪の少女のもとに足繁く通っていた。
恋愛などというものからかけ離れた生活を送ってきたフリッピーは一回り近く年の離れた少女の一挙一動に顔を赤くしたり青くしたりしていた。
生真面目なフリッピーが日々つけている日記の、夢見がちな少女のような文章を、男は毎晩冷めた目で眺めていた。何がそんなに面白いのかとは思ったが、男にとってはその恐ろしい街でいかにフリッピーを守るかということが第一の関心事だった。赤髪の少女のせいでフリッピーが気味の悪い街に留まることになったのは忌々しかったが、自分が注意さえしていたらフリッピーが死ぬことはない、そのうちに飽きてこの街を出られるだろうと男は思っていた。
しかし事件は起こった。赤髪の少女とフリッピーは次第に親しくなり、休日には必ず顔を合わせるようにまでなっていた。
ある夏の日に、男はパッと目を覚ました。真夏の太陽が瞳を貫いて、視界が奪われる。なぜこんな昼間に自分が目を覚ましたのかなど考える暇もなく、喉に海水が入り込んできた。
男はそれでも冷静に思考を巡らせ、軍に属していたころに覚えた泳法で水面に浮上を試みる。しかし体の重さがそれを阻んだ。体になにかがまとわりついているのを感じて確かめると、それはあの赤髪の少女の体だった。気絶しているのか、もがきもしない少女の腰のベルトが、自分のベルトに結ばれていた。男は一瞬で察した。溺れた少女を助けようと海に入ったフリッピーが、自分の体と少女の体が離れないように結んだのであろうこと、そして少女の体に自由を奪われて、フリッピーまでもが溺れかけれいるということ。次の瞬間には男は行動していた。胸のポケットからバタフライナイフを取り出して即座に少女のベルトを切断すると、水面に向かって一直線に浮上した。男はむせ返りながらも落ち着いて仰向けに浮かんで着衣を脱ぎ、少女のほうを振り向きもせず岸に向かって泳ぎはじめた。
岸に上がって一息つくと、海面にはすでに少女の姿は見えなかった。海流で深みに飲み込まれたのだろうか。男は消耗しきった体を浜辺に投げ出すように横たえて、今日もまたフリッピーの命を救えたことに満足して瞳を閉じた。それからしばらく後に目を覚ましたフリッピーが、ただひとりで岸辺にいること、彼の腰に縛り付けたはずの少女のベルトが刃物で切り裂かれていることを認識してなにを思ったのかは、男の知るところではなかった。どうせあの少女も、翌日には生き返ってピンピンしているのだろうし、そうでないとしても、男はフリッピーの命を守るためにはほかの全ては犠牲になるべきだと思っていた。それは彼らが兵役に就いていたころから変わらない、男の信念であったのだから。

しかし、それから、まるでそうなることが運命であるかのように、フリッピーと少女は共に命の危機にさらされた。少女の家が火事になり助けに入ろうとしたフリッピーまでもが一酸化炭素中毒になりかけたり、高台から落ちそうになた少女の手を離すことができずにもろとも転落死しかけたり。その度に男は、容赦なく少女を切り捨てて、フリッピーの命を守った。
少女はたしかに次の日には生き返っていたが、フリッピーの日記は日増しに鬱屈した内容になっていった。



そして五年前の涼やかな秋の日、男がうつらうつらと目を開くと、彼は風呂場にいた。満たされた浴槽に水道水が叩きつけられていて、やかましい。判然としない意識と午後の暖かな日差しが揺蕩うなかで、男は気がついた。浴槽に溜まった液体から、嗅ぎなれた死の匂いがすることに。そして自分の手首に、著しい裂傷があることに。
よくもこんな女のような自死の方法を選んだものだと、フリッピーを情けなく思ったが、ため息は喉に閉じ込められた。失血によるチアノーゼのため呼吸ができない。薄れゆく意識の中で、男は考えた。フリッピーの自殺の原因を排除しなければならない、と。フリッピーの情緒不安定の原因には心当たりがある。何をするべきなのかは、明らかだった。

「あの女の存在を消すしかないようだ」

翌日、最初の殺人がなされる。


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