こどものころ、お父さんに連れられて見た星空がどうしても忘れられない。光の粒がネイビーの空を埋めつくしていたあの景色。世界が変わったわけではないのに、知らない場所にいるようで。めまぐるしく塗りかえられる空のキャンバスは、文字通り、瞬く間にわたしを夢中にさせた。


週末は、なけなしのアルバイト代で買った天体望遠鏡を河原まで運んだ。なんとか人数を合わせて設立した"天文学部"。活動していたのはほとんどわたしだけだったけれど、同じクラスの澤村くんが「なんか面白いことやってんね」と、ときおり顔を出してくれるようになっていた。どうやら部活の帰り道のようで、澤村くんはいつもへとへとになりながら、それでも毎週わたしの活動に参加してくれるようになっていた。たまに肉まんを持ってきてくれた。ぶ厚い天文学の本を抱えて河原まで来たときは、なんのトレーニングだと思わず大笑いをしてしまった。あのとき顔を真っ赤にしていた澤村くんが忘れられない。

わたしは(勝手に)澤村くんを副部長に任命した。「"副"部長って、新鮮だな」と、なんだかまんざらでもない様子だったのでそのままそう呼び続けることにした。


「あれが、オリオン座だろ」
「そうそう」
「で、あれが…」
「おうし座だね」


乾いて冷え切った空気を吸い込むと、鼻先がつんとした。バレー部を引退した澤村くんは今でも週末この場所に足を運んでくれる。今度はぶ厚い参考書を抱えているけれど、副部長の肩書きはずいぶんと板についてきたように思える。試験だなんだと気持ちばかりが急いてしまって行き詰まったとき、ここに来ればこころが落ち着くんだと前に澤村くんは言っていた。


「ちっぽけだなあ、俺ら」
「どうしたの、そんなクサいこと言っちゃって」
「はは、たまには言わせてくれよ」


冬の空はうんと高い。澄んでいて、星屑だって掴めちゃいそうなくらいによく見える。こんなにきれいなのに悲しい気持ちになるのは、かならずこの季節に終わりがくるから。今は澤村くんのなんでもない一言にもこころが揺さぶられる。


「俺の後輩にさ、お前にちょっと似てるやつがいてさ」
「そうなの?」
「そいつ、中学時代ずっとひとりでバレーしてたんだ。」

それでも最後までひたむきにやってきて、高校でようやく結びついたんだよ。と、後輩の子のことを話す澤村くんはとても誇らしげな表情をしていた。

「たったひとりでも続けられるほど好きなことがあるってのは、すごいことだよな」

卒業しても、続けろよ。
そのひとことが、「ひとりでも大丈夫だろう」と言われているようで胸がじくりと傷んだ。きっと、いや、ぜったいにそんなつもりはないはずなのに。
やめる気なんて毛頭ない。わたしは星が好き。空が好き。けれど、なにより好きなものを、この場所で見つけた。

大地くんと、思いきり声に出して呼んでみたい。星座をなぞるその指先でやさしく触れられてみたい。おおきな腕の中の温度を知りたい。気持ちばかりがひろがって、果ての無い宇宙に放りだされちゃったみたい。ちっぽけだなあ。澤村くんのまねをしてつぶやけば、おでこを指ではじかれた。痛いよ。

「泣きそうな顔してるぞ」
「まだ泣いてないよ」
「じゃあ今から泣くのか?」
「泣きません」


だれかと同じ気持ちでいられることが、どれほどうれしいことか。教えてくれたのは澤村くんだった。きれいだね、と言えば、きれいだな、と返してくれる。寒いなあととなりを見れば、わたしと同じ白い息を吐いている。今日が終わらなければいいのにと、両腕で抱えきれないほど願った。


「俺もバレー続ける。だから、続けてほしいんだ。お前にも。ずっと、この場所に来たいからさ」


予想だにしない澤村くんの言葉に、声の出し方を忘れてしまいそうになった。いつになくまっすぐな瞳。わたしは知っている。毅然とした意志を持った瞳。まるでコートの中にいるときの澤村くんだ。このまなざしがわたしに向けられる日が来るなんて、思いもしなかった。


「それって、」
「…やっぱり、ちゃんと言わなきゃだめだよな」
「…うん」
「俺は、この場所が好きなんだ。それに…なにより、おまえのことが、」


見覚えのある真っ赤な顔が、そこにはあった。だんだん熱を持って赤くなる目頭も、鼻先も。うなずいただけでこぼれてしまった涙も。ぜんぶぜんぶ冬の寒さのせいにしてしまいたいけれど、きっと、澤村くんにはお見通しなんだろうね。



「はは。お前、赤くなってる」
「澤村くんこそ」
「同じだな」
「おそろいだね」


ふたり空を見上げた。何億光年と向こう側の計り知れない光が、わたしたちに降りそそぐ。またひとつ、同じ気持ちが増えてゆく。うれしいなあ。





(あの星たちみたいに)
今この瞬間が、この先もずっと在り続けますように。



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