日の入りが随分と早くなった。半年前ならまだ明るかった時間帯でも、もうすっかりと闇に包まれるようになってしまった。ぽつぽつと等間隔で並ぶ街灯が、見慣れた一本道を照らすばかりで、どこか異世界に迷い込んだかのような雰囲気を醸し出している。家々からたまに楽しげな声が聞こえてくる以外には静かなものである。街が眠るとはこのようなことを言うのだろうなとなまえはぼんやりと思った。

冬はどちらかといえば嫌いだ。寒いし冷たいし、何よりも冬というだけで寂しい気持ちになる。暑いとはいえ、まだ活気のある夏の方が幾分か良いだろう。それに、夏の方が身軽だ。Tシャツとショートパンツだけで過ごすことができる。それに比べて、今の自分の格好はどうだ。分厚いコートを羽織り、手袋とイヤーマフとマフラーで完全防備。そこまでしているのに一向にスカートを短くしようとしないのは、かろうじて私に残っている乙女心がそうしているのか。
何にせよ、冬は嫌いだ。

***

地面の冷たさが直に伝わっているのではないかと思いながら、冷たくなった脚を一歩ずつ踏み出して歩く。北半球に位置する日本の、これまた北部に位置する小さなこの街は、冬になると、必ず厳しい寒さに包まれた。今年も例外ではなく、最寄りのバス停まで歩くのも億劫になるほどだった。

私の通う高校のすぐ近くにあるバス停はなかなか利用者が多い。その理由は、私の高校の他にも、そのバス停の近くの学校があるからである。放課後になると、その二校の生徒たちが小さなバス停に押し寄せる。そこは貴重な他校の生徒との交流の場となり、また彼氏彼女を探し求める社交場にもなったりする。しかも、相手の高校は偏差値もそれなりに高く、部活動の実績もそこそこなので、比較的人気がある。私立青葉城西高等学校。それが、その学校の名前だった。

ちなみに、私がその社交パーティーに巻き込まれることはほとんどない。皆無、と言っても過言ではない。何故なら、私は図書委員会に所属していて、図書室を最後に閉めるという任務があるからだった。基本的に二人一組のローテーションで回っているのだが、三年生は受験で忙しく、一年生と二年生は根本からやる気がない。それ故に、三年生で仕事の要領もわかっていて、尚且つ推薦でさっさと大学進学を決めた私が全て引き受けているという訳だ。
しかし、面倒臭いと感じたことはない。もともと本が好きでこの委員会に入ったようなものなので、完全下校時刻ぎりぎりまで図書室にこもる、というのは苦痛でも何でもなかった。それに、こうして帰りの時間が遅くなることで、お馴染みのバス停にとてもレアな人物が現れるということを、彼らは知らないのだ。その人物を見ることが、少し前からの自分の楽しみになっていた。ただ、それは水曜日限定なのだけれど。

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その人に気がついたのは二年の夏だ。その日は珍しく早起きをして、一本か二本くらい早いバスに乗った。耳にイヤホンを突っ込み、好きな音楽を聴きながら外をぼんやりと眺めていたときだった。自分の座る座席の二列前。背の高い男子高校生が二人いるのに気がついたのは。
着ているジャージからして、私の学校の近くの青葉城西高校の生徒だということはすぐに見当がついた。なにやら楽しそうに話をしていて、仲が良いっていいことだ、とやや近所のおばさんめいた思考を巡らせていた。その瞬間。ふと、その男子高校生の内の一人と目が合った。今までその生徒は前を向いていたために気づいていなかったが、随分と整った顔立ちをしていた。透き通ったその瞳から目が離せず、ひゅっと息を呑んだ。心臓をぐっと強く握られたような、強い衝撃だった。これといって目立った恋愛経験もなく、人の感情に人一倍敏感とも言えない私でもわかった。
私は彼に一目惚れしてしまったのだと。

それからは、毎日その時間帯のバスに乗った。ジャージの彼も、いつも必ずそのバスに乗っていた。白と青のエナメルバッグを肩にかけていた。一人でぼーっとしているときもあれば、初めて見たときのように友人と談笑しているときもあった。端正な顔立ちも、すらりとしたモデルのようなスタイルも、全てが私を捉えて離さなかった。

しばらくは、朝のバスに乗っているときだけの短い時間しか、彼に会うことはできなかった。勇気のある子はわざわざ青城まで行って、お目当ての男子生徒の名前や連絡先をゲットしてくるらしいが、私にそんな勇気がある訳がない。このチキン具合をどうにかしたいな、と二年生になってから、初めての雪がちらついた日。いつもの帰りのバス停に、あのジャージの彼の姿があった。その日は図書委員会の会合で普段よりも、帰りがずっと遅くなったのだ。無意味とも言える会合を開いた委員長に、今日ばかりは感謝した。
かといって、話しかけられる訳もなく、普通にバスに乗って普通にバスを降りて、という普段の行動をなぞるだけだった。けれど、その日をきっかけとして、彼が水曜日だけこの時間帯のバスに乗ることを知った。その情報を手にしてから、委員長に図書室の当番のシフトを水曜日に変更してほしいと申し出た。まあ、だからと言って彼との距離が縮まったという訳ではないのだが。

***

さて、今日がその水曜日だった。あるときを境に、彼はジャージから青城の制服である白のブレザーに装いを変えた。それは暗に、部活が終わったということを示していたのだが、当時の私に知る由もなかった。バス停までの一本道を歩き、その姿があるかどうかを窺う。いた。今日も。どこか遠くを見つめているかのように、こちらのことなんて御構い無しといった風である。一つため息をつき、一メートル半くらい距離を開けて立つ。視線は下に落とすふりをして、意識はしっかり彼に集中させている。彼の立つ右側の肩が熱くなるような、そんな錯覚に陥った。

「ねえ」

白く凍る空気を切り裂いて、聞き慣れない声が響いた。空耳かと勝手に解釈したが、斜め上から注がれる視線が、それが空耳などではないということを物語っていた。

「水曜日さ、いっつもこの時間のバスに乗ってるけど、部活でもやってるの?」

冬の気温など無視して、顔に一気に熱が集まる。ずっと見てきた、ずっと憧れていた。そんな彼に言葉をかけられている。これ以上の幸せがこの世にあろうか。

「あ、えっと、委員会なんです。学校の。図書室の鍵をかけなくちゃいけないので、こんな時間になるんです」

「ふうん。でも、こんなに暗くて平気なの?」

「はい。バス停から家まではちょっとありますけど、今までに不審者とかに襲われたことはないので」

心臓がうるさい。顔が赤いのが彼にばれていないといい。寒さのせいで赤くなっていると思い込んでくれているといい。ぎゅっとスクールバッグの紐を握って緊張に耐える。

「んー、それでも気をつけた方がいいよ?最近は物騒だからねー。俺の幼馴染も言ってたし」

高校生活最後の思い出として神様が与えてくださったようなひと時は、バスが来ても終わることはなかった。二人でつり革につかまって、色々なことを話した。お互いの学校のこと、クラス、行事、先生。通っている学校は違うが、どこか共通している点があり、とても面白かった。部活のことなども話してくれ、そこで初めて彼が県内でも強豪のチームの主将であったことを知った。それぞれの進路など、真面目な内容の会話もあったが、本当にどうでもいいような他愛もない話も沢山あった。このまま、バスが一生駅に着かなければいいと願うほど、この時間は素晴らしいものだった。

けれど、やはり別れの時間は必然的に訪れる。彼の降りる駅を伝えるアナウンスが車内に響き渡る。あー、もう着いちゃったんだね。そんなことを困ったように笑いながら言う彼は、これまでに一度も見たことのない表情をしていた。また明日ね、なんて。そう言ってバスの昇降口に向かおうとする彼の背中に、投げかける。何故、と。
この機会を逃してしまうのは、なんだか惜しいような気がしたのだ。駅に着くまでにはまだ時間がある。まだ間に合う。

「あのっ、良ければ、名前だけでも教えてくださいませんか?」

名前だけでも。私が、高校時代に恋した最後の男性の名前だけでも。せめて、せめて。それだけでも知りたいのだから。
目を丸くした彼は、照れ臭そうに頬をかきながら言った。

「及川徹。及ぶに、初志貫徹の徹ね」

おいかわとおる。あなたに恋をしてから一年と少し。ようやくその名を知ることができた。なんだか気恥ずかしくなって、マフラーに顔をうずめる。そんな私を見て、くすくすと笑いながら放たれた一言に、私は目を見開くこととなる。

「正直さ、このバスに用はないんだよね?たまたま帰りが遅くなって、そしたらたまたま同じバスに乗ってる子を見かけて。そのときに思ったんだ」

水曜日のこの時間。バス停にいれば、もう一度君に会えるかなって。
バスの扉が開く。外は真っ暗でよくわからなかったが、白い雪のようなものがちらついていた。昨年と同じだ、となまえは思った。開かれた扉から入ってくる冷気が、自惚れて火照った体を冷やしてくれる。すでにバスから降りて笑う彼は、扉が閉まる寸前に、わずかに口を動かした。

「ずっと君のことが気になっていたんだよ。次は君の名前を教えてね」

***

初雪だった。
私と彼がきちんと結びついたのは、高校二年のあの冬の日で、その日もまた初雪が降っていた。そして、それから一年後の今日も初雪が降っている。私の恋愛は初雪と共にあるのだろうか。雪解けを待つ筍のように、春を待ちわびる土筆のように。春とは、待っているだけではなく、自分から行かなくては手に入らないものなのだろうか。

自惚れでもいい。勘違いでもいい。明日、もう一度彼に話しかけてみよう。今度は自分から。及川徹。初雪と共に、私はあなたへと続く道の第一歩を踏み出そう。

***

昨日の初雪が少し積もったらしい。転ばない程度にバス停へと急ぐ。バスに乗り込み、彼の乗ってくる駅を待つ。
ドアが開いて、革靴が昇降口から覗けば。

「おっ、おはよう!及川君!」

初雪が連れてきた恋の続きを描いてみようか。


少女は初雪にキスをして、また一歩大人になる。







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