柳くんがいなくなった
※ 第三者視点、全2ページ


 両親の馴れ初めがテニスだったからとか、なんかそんな感じのわりとどうでもいいようなきっかけで俺はテニスと出会った。有り余る小学生男子のパワーを発散するにはスポーツが良いだろうという教育方針もあってか、裕福でもないのにテニススクールに通う事になった。もともと人見知りをするタイプじゃなかったので適当に挨拶を済ませたあとからは普通に参加させて頂いて、初めてのウォーミングアップはやたら分厚い眼鏡の男の子とペアになった。それがまあ、乾貞治だったのだ。初対面というよりは「ファーストコンタクト」という言葉がしっくりくるような、まさに“未知との遭遇”だった。
 乾はとにかく変わった奴だった。歳に似合わないどころか時代にも合わないような凄まじいインパクトの眼鏡もさることながら、時折やたらと難しい話を猛烈に語り始めたりもした。それでも根は明るいやつだったし、俺たちのくだらないノリに便乗しておもしろい情報を与えてくれたり、身体をはって笑いをとりにきたりもした。つまり、俺たちとそう大差はなかったのだ。
 だから、乾が「俺の親友だ」と言って柳くんを俺に紹介したときは内心すごく驚いた。思わず固まった俺を他所に、柳くんは俺の名を呼んで握手を求めた。俺は更にそれにもびっくりしてしまったのだ。彼と俺は同じ小学校の生徒だったのだから名前くらい知っていて当然と言えば当然なのかもしれないけれど、クラスも違うし挨拶すらもしたことがなかった。そんな人が自分のフルネームを知っているということにぎょっとしたし、握手を交わしたその場がテニスコートであったことにも驚いた理由がある。俺にとって柳くんとスポーツは、イコールで結ばれるような関係ではなかったのだ。

 「柳くん」。学校では誰もが彼のことをそう呼んでいた。だからその日、柳くんが自分で名乗るまで、俺は彼の下の名前が“蓮二”だということを知らなかった。正直に言うと、俺は柳くんがちょっと苦手だった。話した事もないのに苦手というのもおかしいが、話さなくても分かるくらい、とにかく柳くんと俺は違ったのだ。乾が「良い意味でよく分からない奴」ならば、柳くんは「よく分からないけど良い奴」という感じだった。乾は変わってるけどおもしろいやつだ。そして柳くんはいいやつだ。すごくいいやつ。それは間違いない。頭がよくって有名だったし、先生になにか面倒ごとを頼まれたときも、嫌な顔ひとつしないらしい。四六時中見てるわけじゃないから知らないけれど、たしかに彼が顔を歪めたところを一度も見かけた事がなかった。だからこそ、ちょっと苦手なのだ。恐らくこの感情を抱いていたのは俺だけじゃない。
 事実、いじめられてはいないし少しも嫌われてはいないだろうけど、特別仲のいい友達がいるというわけでもなさそうだった。廊下を駆け回るうるさい男子達の中にも、教室の隅でカードゲームをしている静かな男子達の中にも、柳くんはいなかった。たまにひとりで本を小脇に抱えて廊下を歩く姿を自分の教室から見かけた。そのせいで俺のなかの柳くんは「ひとりぼっちの文学少年」という印象が強い。けれどいつだって「ひとりぼっち」だという悲壮感が漂っていないのも、柳くんの不気味なところだった。そう、言うならば「不気味」なのだ。10歳前後の子供にとって、理解できないことはそのまま不気味なことに直結する。彼は人当たりが良くて、賢くて、運動も適度にできて、顔立ちだって綺麗なほうだ。それを鼻にかけないだなんて俺にとっては理解のできないこと。なのに柳くんはどれだけ褒められても感謝されても、そっと微笑んだだけで終わりにしてしまう。嫌味さもなければ主張もない。いつかパッと消えてしまっても、誰も気付かないんじゃないかって思うくらい。俺だったら友達がいなかったら毎日つまらない。しかし目立って仲のいい友達もいないのに、柳くんはまったく詰まらなそうな顔をしていなかった。その理由を、俺は小学校ではなくテニスコートで知ったのだ。


 俺もスクールにすっかり馴染んでしばらく経った頃。スクールのガキ大将みたいな奴を中心に、大人に内緒で夜遅くこっそりテニスコートに潜んでみたことがあった。その時乾と柳くんも俺たちと一緒に夜のテニススクールへ潜入したのだ。子供が思いつきでしたことだから結局すぐに見つかってしまって、俺たちは蜘蛛の子を散らすように方々へ走って逃げた。「こっちだ、教授!」「ああ、博士!」。そんな声が聞こえたと思ったら、前を走っていた乾と柳くんが手を取り合って駆け出した。乾と柳くんの判断の正しさはスクール生の誰もが知っていたから、俺を含めたまたま二人と同じ方向へ走っていた数人はもちろんその二つの背中に付いて行ったけれど、その早さに追いつける奴はいなかった。手を取り合った乾と柳くんは恐ろしく速かった。

 二人揃うと敵無しなのはテニスでも同じだった。なんてったって、ジュニア大会のダブルスで優勝したペアだ。みんな年頃の男子らしく負けず嫌いだったけど、それでも乾・柳くんペアとは試合をしたがった。どこへ打っても必ずどちらかに先回りされているという状況がたまらなく面白かったのだ。いつか二人が返せないような球を打とうって、みんなで躍起になっていた。乾と柳くんの存在が俺たちスクール生の実力の底上げに繋がっていたようにも思える。試合を終えると二人は決まって頭を付き合わせ、それぞれいつも持参しているノートに何かを書き込みあっていた。真剣な顔で話し合いながらの時もあれば、どちらかが相手のノートに何かを勝手に書き込んで、笑いながら小突き合っている時もあった。
 乾の言った言葉通り、乾と柳くんは本当の本当に「親友」だった。スクールにいるときの、そして乾といっしょに居るときの柳くんは楽しそうによく笑っていた。柳くんには乾という親友がいた。だからちょっとくらい学校に特別な友達がいなくたってへっちゃらだったのだ。そんな二人を、柳くんを見て、俺はものすごい秘密を握ったような気持ちになった。柳くんだって時折自慢げな顔もするし、すごいと言われれば誇らしげに目元を緩めたりするんだ。ちょっと悪いことをして走って逃げたり、こそこそと実験と称していたずらを考えてたりするんだ。いちばん仲良しの友達とこっそり特別なあだ名を付けて呼び合ったりしてるんだ。そんなことを知っているのはきっと緑川第三小学校で俺だけなのだ。俺は思わず叫んで学校中に言いふらしたくなった。柳くんは頭がよくて優等生なだけじゃないんだって、親友と悪い事をして怒られたり、勝負で負けて悔しがったり声をあげて笑ったりしてるんだって、俺たちとちっとも変わりないんだって、廊下を全力で駆け抜けながら喚き散らしたくなった。もちろんそんな事しなかったけど。


 けれどそんな柳くんの姿は、予期せずある日を境に突然見られなくなった。本当に「予期せず」、「突然」。だって、明日がどうなるかとか普通の小学生は考えちゃあいない。特に頭が良いわけでもなければ飛び抜けた才能もない俺なんかはその傾向が顕著にあって、とにかくいつだって「今日」が大事だった。毎日が特別だから、明日がとびきり特別になるなんて予感は誕生日の前日とか大晦日くらいしか感じるもんじゃない。でもその日は俺にとって、スクール生にとって、そして誰より乾にとって何の予兆もなく突然「特別な日」になってしまったのだ。それを事前に分かっていたのは柳くんだけ。

 五月。週末に行われる大会へ参加するスクール生を応援しようと、俺たちは会場に集まっていた。試合の参加者は緊張した面持ちで、それ以外のメンバーは談笑しながら指定の集合場所に居た。ひとり、そしてまたひとりと人が集まる中、最初はいつもと特に代わり映えのなかった俺たちの空気が少しずつ不穏なものになっていった。そして時計の針が回る。いつもなら早々に集合場所へ到着しみんなを迎える柳くんが、集合時間を過ぎても来なかったのだ。柳くんがまだ来てないと誰かが呟くと、伝染病のように皆が口々に柳くんの不在を口にした。そして誰もがキョロキョロと周りを見渡す中、黙り込んでいた乾がフェンスに向かって走り出した。もう先にひとりでコートへ行ってしまったのではないか。そんなわずかな可能性にかけての事だったのだと思う。しかしフェンスの扉を開けて駆け込んだ乾は、突然その場で立ち止まってしまった。追いかけ、狼狽えた俺たちは問いかけた。

「乾…、乾、柳くんは?」

 柳くんが無断で試合を休むだなんて、そんなことありえない。そして柳くんのことは、乾に聞けば当然分かるものだと思ってた。実際にその時まではそうだったのだ。でもその日は違った。乾はやたらと分厚い眼鏡をかけているから表情まではわからなかったけど、白線で区切られたコートから距離をおき、ラケットバックを背負ったままおろしもせずカカシのように立ち尽くす乾の背中を、俺は今でもぼんやりと思い出せる。寂しそうなわけでもなければ怒っている風でもなかった。それが逆に、見るものに悲愴さを強く感じさせた。
 ねえ乾、柳くんは、ともう一度漏らした俺に、乾はやっと反応した。俺たちの質問に答えたというよりはただ呟いただけだったのかもしれない。今思えば、「わからない」とは言わなかったのはひどく乾らしいと言えるだろう。乾も柳くんもいつだって「わからない」とは口にしなかった。それは彼らにとって諦めと降伏の言葉だからだ。でも乾が放った一言は、「わからない」よりもよっぽど悲痛な響きだった。

「教授が、いなくなった」

 柳くん本人のいない場で乾が「教授」という呼び名を使ったのは後にも先にもその時だけだ。珍しく彼の脳が現実を処理しきれていなかったことの現れかもしれない。乾はただ、ずっと立ち尽くしていた。


 週明けの月曜日、学校へ着いて真っ先に隣のクラスへ飛び込んだ俺に先生は言った。柳君はお引っ越ししちゃったのよ。朝にはあった柳くんの机は、帰る頃にはもうすっかりなくなっていた。まるで最初からそうだったみたいに。パッといなくなっても誰も気付かないんじゃないかなんて、勝手に抱いていたイメージが突然現実になった。でも教室の後ろに貼られていたやたらと綺麗な柳くんのお習字だけは変わらずに、梅雨の予感を乗せた五月の風に黙ってひらりと揺らめいていた。

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