10:24 仁王雅治  

 広い立海の中でもとびきり静かな専門棟の階段を、騒がしく駆け上る姿がある。二段飛ばしで跳ねながら、赤也はひどく焦っていた。本来であれば一限後の休み時間にすぐ行動を起こしたかったというのに、授業で爆睡してしまったため教師からの説教で十分間をきっちり潰されてしまった。話なげーんだよふざけんなあのバーコード、と自分の過失を棚に上げ、歴史教諭の残りわずかな毛髪を脳内で何度もむしり取った。

 最上階の端にある、鎖が巻かれたかんぬき錠の柵を乗り越え、少しだけ埃の積もった細い階段を登り切れば、そこから先は光る髪を持った男の城だ。城門のように軋む、屋上へと続く錆びた扉を押し開け、射し込んでくる陽の眩しさに目を細める。踏み出して裏へ回ると、案の定日陰にいながらも輝く銀髪が見えた。城の主は突然の来客にも驚かずニタリと笑う。

「お前さんじゃと思った」
「え、なんで?」
「ティラノサウルスみたいな足音だったけえの」
「マジすか!やった!」
「褒めてなかよ」

 その男独特の空気にあてられて、赤也はもう焦りも歴史教諭への苛立ちもすっかり忘れていた。コンクリートに背を預ける仁王の横にあぐらをかいて座りこむ。日陰から見る夏の終わりの日差しはあまりに強く、瞼の裏が白くチカチカ瞬いた。聞きたいことあって来たんスよ、という赤也の言葉を聞いた仁王は、口は開けぬまま、瞳を向けることだけで先を促す。

「人って、なんで殺しちゃいけないんスか」

 それが、今、赤也が仁王に聞きたいことだった。それを口にしたことで一先ず満足した赤也は、足を投げ出しコンクリートへ溶けるようにだらりとくつろぐ。高く作られた柵の向こうには緑が広がっていて、隙間から小さな家々がいくつも覗いていた。片道一車線を走っていく車はまるでミニカーだ。おもちゃの車の行く先のほうには小さく青い海が見えた。質問の返事も待たず「ここ景色最高っすねぇ」と漏らしかけた赤也が見たのは、こちらを向いたまま固まる仁王の姿だった。

「お前さん…とうとう誰か…?」
「殺してねえよ!」
「ほーん、そんな言葉遣いするんはこの口か」

 思わず敬語を忘れて叫んだ赤也の頬を、仁王は指でつまみ上げる。二人しか居ない屋上に響いた赤也の「あでででで!」という悲鳴も、あっという間に空へと吸い込まれて行ってしまう。ようやく解放された時にはすでに頬は赤を通り越し、血が引いて白くなっていた。

「俺がもう引退したからって、運動部の上下関係なめたらいかんぜよ」
「なめてないっスよぉ…仁王先輩が変なこと言うから!」
「お前さんが変なこと聞くんが悪いなり」
「俺だって好きで聞いてんじゃねーっス!課題で、今日の放課後までになんとか考えなきゃなんですーぅ!」

 赤也が今朝柳に見せたプリントには、まるで目の前にある柵のようにまっすぐ引かれたいくつもの線の横に、「なぜ人を殺してはいけないのか考えましょう」の言葉があった。赤也はその窮屈でつまらない柵の隙間をうめて、あと数時間で担任に提出しなければならないのだ。この後輩が課題に追い込まれているのは珍しいことではない。仁王は事情を悟り、そしてしばらくぼんやりと海を見ていた。視力の良い彼の目は赤也よりも遥かに近く海を捉えていた。波間に揺れる船のあたりから白い鳥が飛んでいったところで、仁王は視線を隣へ戻す。

「例えば、明日から突然俺に会えんようになったらどうじゃ」
「は…?どうって…寂しいっスけど」
「アラヤダ、赤也ちゃんたらかわええのう」
「うそ今のナシ、からかわれなくなるんで清々するっス」

 まるで人の死だなんてものについて話してるとは到底思えない緩やかな空気のまま、赤也も視線を仁王になげた。相変わらず世界の何もかもが詰まらなそうでいて、しかしこの世で起こるすべてを楽しんでいるかのような瞳が赤也を見ている。穏やかな海だとか、晴れた日の空のように澄んでいるのに、いつだってその底は見えやしない。誰も仁王のことを本当には理解できていないように思えた。そう考えると、「突然俺に会えなくなる」という仁王の言葉が、驚くほどに現実味を持って赤也の心にあらわれた。いきなり旅へ出たりだとか、そういうことを平気でしそうな男だった。

「いやぁでも、まじで、突然とか嫌っスよ」
「ま、そういうことじゃろ」
「はぁ…、ん?」
「俺からは以上。足らんなら柳生にでも聞きんしゃい、あいつそういうん得意そうじゃき」

 それきり、男は「もうおわり」と言わんばかりに、視線をどこかへ流してしまった。まるで少しだけ寄せた波がいっせいに引いて行くようだった。詐欺師にしては良く喋った方だと評価できるが、仁王の答えの真意など当然伝わるはずもなく、赤也は頭が重くてたまらないとでもいうように首をかしげる。どうにかもうすこし言葉を貰えないかと口を開こうとすると同時に、チャイムの音が二人の間を突き抜けていく。

「予鈴じゃ。遅刻せんようにな」
「先輩は次さぼりっスか?悪ぃんだ!」
「三限自習じゃき、抜けたことバレなければこっちのもんぜよ」

 さっさと追い出そうとするかのようにひらひらと白い手を宙に揺らす仁王を背に、もう一度だけ眺望を堪能して、赤也はまた同じルートを辿って彼の城を後にする。白い髪と白い手と、日射しで白く光るコンクリートでできた世界から戻った赤也の目には、校舎の中が酷く暗く冷たいものに見えた。

 三限の数学が始まって何分たっても、やはり赤也には仁王の言った言葉の意味があまり分からなかった。机の上におかれた青と白と黒のカバーが付いた消しゴムは先程の青い車に似ていたが、当然すこしも動かなくて退屈だった。頬杖をついた掌からは、乗り越えたかんぬき錠の柵の、錆びた匂いが少し香る。夢の残り香のようだ。眠気で徐々に瞼が下がってくる。しかしその眠気は突然響いた小気味よい金属音によって、一瞬にして奪われてしまった。続いて聞こえてきた「天才的―ぃ!」の声に釣られて窓からグラウンドを見下ろせば、ソフトボールでホームランを打ったらしい赤髪が悠々とベースを踏んで回っているのが見えた。そのままきょろきょろと視線を彷徨わせたが、どうやら銀髪は見当たらない。当然のように語られた先程の「自習」という言葉は嘘だったのだと知って思わず唇を尖らせる。赤也が詐欺師にすっかり騙された回数は、今年だけでももう両の手足の指を総動員し、さらにそれを二倍にしても到底足りないほどになっていた。もうあんな詐欺師の言う事なんか信じねえ、と心で誓ったところで、数日後にはまた彼に遊ばれてしまうのだろう。明らかに黒板を見ていない赤也を注意する教師の怒鳴り声は専門棟の屋上まで響き渡り、仁王は一人、クックと喉で笑っていた。

(2013/01/05)