08:19 柳蓮二  

 げぇ、とカエルが捻られたような声が響いたとき、もう部室には二人しか残されていなかった。柳は当然自分ではないその声の主を振り返る。ラケットバックの底で押しつぶされていたであろうクシャクシャな紙を握った赤也は、眉を歪ませじっとりとした視線で柳を見上げた。

「どうした、英語のプリントは昨日柳生に手伝ってもらっていただろう」
「…忘れてたんスけど、道徳の…」

 向かい合って立つ二人の間で、ぼろぼろの紙切れが赤也の手によって広げられる。これがもし真田であったならば、今にも穴が空きそうなほど無惨な姿のプリントを見て怒鳴り声のひとつもあげたであろうが、柳はそこに印刷された文章に目を通し、ふむと顎に手を添えただけだった。

「残念だが専門外だ。俺にも分からない」
「え、柳さんにも分からないこととかあるんスか」
「当然だろう。お前は俺を何だと思っているんだ」
「歩く…辞書的な…?」
「辞書にもこれに対する答えは書いていないな。せっかくだ、分かったら俺にも教えてくれないか」
「けど俺そんなん考えたこともないっスよ、終わる気がしねー!」
「提出期限はいつだ」

 問われた赤也は視線を斜め上に泳がせる。ヒトが記憶を辿る際によく行うその動きを柳は静かに見下ろしていた。「今日の、放課後っス…」という悲痛な声を聞いたときでさえ、柳はただ赤也の髪から滴る汗に夏の名残を感じたりしていた。人の窮地は自らの窮地ではない。むしろ顔には出さないものの、なかなか面白そうな事になったものだと思ってさえいる。立海の達人はこの好機を易々と逃すような木偶ではなかった。

「…そうだな。答えは教えられないが、問題解決に役立つ手法ならば教えよう」

 柳の思惑など気付くはずもない赤也は、天の助けとばかりに次の言葉へ耳をそばだてる。そして数分後、赤也は引退したにも関らず朝練に付き合ってくれた柳へのお礼もそこそこに、部室から勢いよく飛び出していった。渇いた土がもうもうと立ち昇る。ずいぶんと忙しい一日になりそうだった。

(2013/01/01)