参謀の息する世界
  捏造過多、モブが性悪


1,

 目は口ほどにものを言うだなんていかにも陳腐だが、この言葉の意味を誰より正しく認識しているのは他でもない、滅多に目を見せぬあの男であろうと、仁王はあの頃知った。あの頃とはつまり、仁王がまだ柳を参謀とは呼んでおらず、達人の名も定着していなかった頃のことだ。

 立海大附属中学のテニス部に入部して半年にも満たない頃、端から見れば、仁王雅治の「イリュージョン」は今のようなひとつの戦法ではなく未だお遊びにも近かった。野心が無い訳ではなかったが、イリュージョンを自らの武器として完成させ、それを以てレギュラーの座を射止めようだなんて思惑はおくびにも出さず、まるで「暇つぶし」とばかりに飄々と練習をこなしていたせいもある。当然、その態度を咎める人間がいた。それは先輩である二年や三年ではなく、当時仁王と同じ一年でありながらレギュラーの座に腰を据えていた真田弦一郎だった。
 この時代珍しいほどに直球すぎるその態度を丸ごと引っくるめて否定しようだなんて気はないが、しかし飛んでくる拳はいただけない。仁王は兎角そういったものが嫌いで、まだ入部間もない頃は他人の頬を叩く音が聞こえただけでひっそりと両肩を縮めていたくらいだ。組織というものにはああいう人間も必要なのかもしれない。だからといって真田のやり方に全面的に合わせるなんて御免だった。
 烈火のごとく怒る真田をうまく言い包めるのは決まって同じ二人だった。幸村精市と柳蓮二。そんな光景を何度か目にして、脳にひとつの案が瞬いた。その二人へ真田が声を荒げるところを仁王は見た事がなかった。あの口煩い真田も、所詮は三強の一角でしかない。良い事を思いついたとばかりに、仁王は内心ほくそ笑んだ。


2,

 柳になるのは比較的容易かったといえる。当時の仁王の細く白い、すらりと伸びた手足は柳のそれに非常に近いものであったし、ジャージのチャックを上までしっかりと閉め、制服の際は着こなしを正し、カツラを被って目を瞑る。縦書きの少し痛んだ風合いを持たせたノートを小脇にすれば、「極一部のやっかいな奴」以外は簡単に騙す事ができた。仁王が幸村ではなく柳を選んだのは、最初はたったそれだけの理由だった。
 物は試し、とばかりに何度か柳の姿で真田の視界に入ったことがあるが、十メートル程度離れていれば特別疑われはしない。二人の関係の永さを考慮して近くで会話をするようなことは避けたが、仮にそうしたとしても、恐らく真田は目の前の「柳」を疑うことはないだろうと仁王は思っていた。真田はその実直さ故に人を疑うということをしないから、仁王のそれは確信にも近かった。

 真田が自らに対する怒りの炎を背後に背負っていると見るや否や、仁王は柳に化けるようになった。柳の姿を模し、そして真田の怒りが冷めるまで距離をおく。こんな稚拙な作戦でも、堅物な真田を撒くには十分だった。十分過ぎたと言ってもいいほど、順調で快適だった。相手があの柳であるのに、こんなにすべてが良好に進んでいていいものかと訝しんだこともある。データ収集と称して柳の方から声をかけてきたり、間近で観察しようとしてきたりしても良さそうなものだと思ってのことだ。しかし仁王が他者に、そして柳に化けていることに関する何かを口にされることは結局一度だってなかったのだ。

 なにより不気味なのは、仁王が柳の格好をとっている間、柳はあえて人前から姿を消しているらしいことだった。コートの外で人を真似るのは、戯れから、かわいらしい自己防衛から始めたようなものだが、仁王は元来神経質で完璧を求めるところがある。例えば誰かに成り済ましている間にその本人に鉢合わせるような迂闊があっては仁王の美学に反するのだ。あえてそうして本人やその周辺を驚かせることもあったが、あくまで本人になりきり、誰にも気付かれぬ間にひっそりとそれを解くのが常だった。それを滞りなく遂行するためならば、仁王は決して事前調査を怠らない。しかし仁王が真田の前にまずい事があると、柳は探すまでもなく人目につかぬ場にいることが多かった。図書室の奥にある総覧の棚、生徒のよりつかぬ職員室、教師の許可がなければ入室できない専門の資料室。時に仁王ですらその居場所を把握できないこともあった。用心深い仁王はそんな時に柳に化けるようなことはしなかったが、しかし他の人物と比べて鉢合わせの可能性へ心を配らなくても良いというのは非常に魅力的だったと言えるだろう。

 そういった不自然さが気にならないでもなかったが、派手派手しく人前に姿を現さない質であることも、余計な詮索をしてこないことも、結局は仁王にとって都合が良かった。あまつさえ、感じた不自然さはすべて偶然の産物であり、本当はあの柳ですら自分が真田から逃れるためにイリュージョンを用いて柳の姿を借りているということに気付いていないのではないかと、得意な気持ちになる事もあった程だ。


3,

 柳でいることに申し分はなかった。姿勢と着こなしさえ気をつければ無理など微塵も必要ない。鼻歌でも歌いたい思いで、仁王はその日も「柳」だった。三年の引退も間近の頃に組まれた立海大附属高校テニス部との練習試合。中学部としては格上に挑む形になる上、この試合での評価が次期レギュラー選出へ影響する。誰しもがぴりぴりと張りつめた空気を放つなか、自分がいつもの調子でいれば確実に真田の目に入る。そう考え、仁王は先回りして柳に化けたのだ。当の柳はといえば、高校生をあっさり負かせたあとは早々にコートを離れ、案の定姿を晦ませていた。例の如く仁王にとっては好都合だった。

 仁王は肩のあたりで切りそろえられた黒髪を揺らしながら、ラケットの代わりにノートを持ち、真田から離れたコートのまわりをふらついていた。顎の真下まで閉めあげたジャージは少し暑かったが、もういくらか慣れてきた仁王にとっては気になるほどのものでもない。いつも柳がしているように、ベンチの日陰を見つけて腰掛け、薄汚れた表紙を開いた。すべての試合が終わるまでデータ収集でもしているように見せればいいだろう。一応鉛筆でも持っておこうか。その程度の気持ちでいた仁王は、黒鉛が紙へ静かに着地するころ、ふと違和感に気付いた。

 柳という男は、そう人目を集めるような男じゃない。だからこそ仁王はこの日まで心地よく柳に化けていられたのだ。しかしどうしたことか。閉じかけていた瞼をかすかに上げ、仁王は眉を寄せた。柳のふりをせず、いつものように目を開けていたとしたら、それらの視線の大半と目が合っただろう。同年代の、芥子のユニフォームを着たチームメイトが「柳」を見ていた。黒い髪の間から周りを伺えば、感じたそれはもはや違和感ではなかった。調律の取れなくなった笛のような、空気の抜ける音が喉で響く。いつの間に、まるで知らぬ土地にひとり投げ出されたかのようだ。見えない薄い幕が、柳となった仁王の周りを囲っていた。緞帳を下ろしたのは仁王ではない。それはラケットを握る多くの人間が張った「柳への予防線」だった。自分だけが隔離されている。あちら側の彼らは口を開かない。しかしそれらの目が瞬きをする度、現れる白と黒の眼球から放たれた言葉が、夜の街灯に集る虫のように、予防線の小さな隙間から仁王へ向かって襲いかかってくる。

(来た、柳だ、なにをしに来た、なぜここにいる、試合はどうした、どうせ勝ったんだ、なにか書いているのか、データでも取っているんだろ、データ…ねえ、レギュラー様は良い気なもんだ、デスクワークがしたいならコートになんて立たないでくれ、なんで俺じゃなくてあんな一年が、汚いやつだ、あんなのはテニスじゃない、こそこそと、要は泥棒と同じだろう、女みてえな面してえげつない、こっちを見るな、胸くそ悪い、はやくいなくなってくれ、はやく、)

 
 胸騒ぎなど比にもならない嫌な動悸。声よりも遥かに鋭利ないくつもの視線が皮膚を貫き、肉を突き、猛烈な耳鳴りで鼓膜が千切れそうに震える。十数年も生きていれば、美しく清く人を尊敬できる人間だけで世界が回っているわけではないことくらい分かっていたが、しかし、こんなにも恐ろしい世界を、仁王は今まで知りもしなかった。こんなものに比べれば悪夢などは脳の些細なお遊びだ。襲い来るむき出しの警戒。それは今や、敵意や妬みという言葉ですら生易しく感じる程になっていた。目は口より鋭い、理性の効かぬ凶器なのだ。仁王の身体はまるで壊れたかのように役目という役目を放り出してしまった。鼻を通った酸素が肺を前にして引き返し、出ていってしまう。その空気は酷くつめたい。息が苦しい。カツラと髪の間に汗が溜まって、蒸れるはずが異様に冷えた。指先が凍え、鉛筆もノートも、手から滑り落ちてベンチにぶつかる。柳のそれを必死に真似た、慣れない縦書きにはしる仁王の筆跡はあまりにも滑稽だった。

 死に損ないの獣のように辛うじて浅い呼吸を繰り返すうち、歪む世界の向こうから、予防線にあいた穴を塞ぐかのように、まっすぐこちらへ伸びてくる腕。
「仁王、柳の出来はあまり良くないね」
 それは、仁王の化けを見抜く「極一部のやっかいな奴」の言葉だった。いつの間にか目前に立っていた幸村に肩を叩かれ、弾かれたように顔をあげる。右手で強く肩を掴まれ、その時仁王はやっと深く息を吸えた気がした。どこかへ引きずり込まれそうだった足の裏はしっかりと根を張り、永すぎた立ちくらみから我に返る。そして知る。幸村の瞳にうつるその姿は柳を模してはいたものの、血の気を引かせてこめかみに冷や汗を流す、何かに怯えるかのようなその様は、間違いなく仁王なのだった。
「覗き見はいけないな」
 聞こえるはずのない声が脳で響いた気がした。


4,

 仁王は、化ける相手に柳を選ばなくなった。それから、少しずつ、しかし確実に伸びていた柳の身長がとうとう猫背の仁王を目に見えて追い越した。そればかりか、あまりにも潔く切られた髪によってカツラもただのゴミになってしまった。

「もう俺にはなれないか、残念だったな」
 たかが5センチメートル程度の高みから、そう涼やかに柳は口角をあげた。仁王は当然、もう気付いていた。仁王が真田から逃れるため自分に化けていたと、柳は知っていたこと。行動や情報に首を突っ込んでこなかったのは、仁王に警戒心を抱かせず泳がせるためだったこと。そもそも何かを聞く必要などなかったのだ。自分になった仁王を存分に観察するためあえて姿を眩ませ、自らの目と耳でどこかから様子を伺い、データを取っていたのだから。結局、仁王は柳の掌で転がされていたにすぎなかったのだ。仁王本人のデータを取るだけでなく、恐らくイリュージョンを見抜ける者と見抜けぬ者も調べていたのだろう。観察対象でありながら、同時に研究の駒としても働かされていたということだ。プライドに傷すらもつかないほどに完敗だった。「残念だったな」。心なしか含みを持って聞こえたその一言にも、仁王は今までのように軽々しく人を舐めた挑発的な笑いは返せなくなっていた。

 図らずも、その男の生きる世界の一端を垣間見てしまった仁王は、それでも背筋を曲げない彼へ親指ほどの尊敬と小指ほどの負け惜しみをこめ、柳を人とは違う自分だけの渾名で呼ぶようになったのだった。


参謀の息する世界 (2012/11/29)