人を好きになるということ
切原赤也 柳蓮二



 俺最近頭よくなったんすよ、って丸井先輩に言ったら、「そもそもその勘違い発言がマジで馬鹿丸出し」と言われ、髪の毛をぐしゃぐしゃに撫でられた。慌ててその手をはね除けても、丸井先輩はニヤニヤと笑っていた。まあどうせ馬鹿にされるんだろうって気がしてはいたけど、でもこれは本当なんだ。確かにテストの点はあんまり良くなってはいないけど。でも、細くて綺麗な魔法の手が、俺を間違いなくかしこくしてくれたんだ。

 英語が分かんなくてうんざりしてる時とか、言いたい事が分かんなくなって口がうまく動かない時とか、どうしてもイヤな事があって、カッとなって、おかしくなりそうな時とか。とにかくどんな時も、俺の頭には魔法の手がついてる。真っ赤だったり真っ黒だったり、自分じゃどうしようもないくらいぐっちゃぐちゃになった俺の頭の中に、柳さんのとびぬけて白い、細くて長い指があらわれて、ぐずぐずに絡まった靴ひもみたいになってる脳みそを優しくほどいて、捻れ曲がってた所もまっすぐにして、最後にはきゅっと、驚くくらいに綺麗なリボン結びにしてくれる。まるで魔法みたいに、あざやかに。前は一緒にいなきゃだめだったけど、最近はひとりでいるときも、柳さんの手が現れるようになった。だからだから、本当なんだ。本当なのに。

 また丸井か。一緒に帰ってる時、むくれている俺に気付いた柳さんはそう息を吐くように言った。あの人、俺のことバカにしすぎなんすよって返したら、「まあそう言ってやるな」って。「あいつもお前を可愛がってのことだ」って。
 そんな大事なこと、もちろん俺だって分かってた。でもついカッとなって、忘れちまいそうだった。それを柳さんは教えてくれる。色んなことをほっぽって勝手に走り出しちまう俺の頭に、忘れ物だぞって、綺麗な手で、大切なものを運んできてくれる。それでまたほつれかけた脳みそをほぐして、今度は大事なものも一緒に結んでくれる。ほどけそうになる度に、こうすれば良いんだって教えてくれる。何度も、何度も。

 すこしだけ深呼吸をしてから、明日謝りますけど、って呟いた。ほら、ちょっと前までは、こんなにすぐには素直になれなかった。横目でちらっと柳さんを見上げれば、長いまつげを揺らしながら、大人になったなって笑ってくれた。それがどうしても嬉しくて、思わずトーゼンっすよ!って胸を張って大声で叫ぶ。今はこうやって、ふわふわのリボン結びが頭の中でゆっくり揺れてる。たまに不思議になるくらい、全部柳さんのおかげなんだ。最初はむっとした顔で怖かった柳さんも、前よりずっと笑ってくれるようになった。だから俺はもっとかしこくなる。優しく笑うどころか力一杯眼をカッて見開くくらい驚かせてやる。魔法をくれた柳さんに応えるために、いや、応える以上に俺はもっと強く、素直に、かしこくなる。柳さんは俺のことをよく知ってるから、行動だって先読みしてくる。だから応えるだけじゃだめなんだ、予測を上回るくらいじゃないと。だって喜ばせたり驚かせたり笑わせたり、好きな人の色んな顔を見たいって思うのは、普通のことでしょ。







 どうにも、思い通りにならない事が増えた。何年もかけ集めた膨大なデータと、それに基づく綿密な予測。そう簡単に揺らぐものではないという自負もある。しかし、それが通用しない相手が、近頃二人も現れてしまった。

 部活後の力加減が平素より強く、そのせいでスチールロッカーを閉じる衝撃音が三割り増しだった。正しくは29.6%増。これは先程この耳で確認したので間違いない。そしてむくれた顔を自分なりに隠しながら通常より歩幅6センチメートル大股で俺へ歩み寄り、帰路を共にしないかと誘う確率は98%。これも当然予測通りだ。校門をでて1.4キロメートル、いつもならばその匂いに頬を緩める金木犀の木を過ぎても尚不機嫌であることも想定内。その原因は丸井である確率100%。これももちろん当たりだ。赤也が事の顛末を俺に語りだす確率など求める必要すらない。寸分の狂いも無い。ここまでは。
 素直に謝ると言う確率は63%、想定内ではあった。それを遠回しに肯定した際に「トーゼンっすよ!」、その言葉を使う確率は72%。しかし少し褒めただけで、こんなにも声を弾ませるはずはない。けれど目の前で赤也は確かに声を弾ませ、頬を上気させ、はち切れそうだとばかりに全身で喜びを表現する。こういった小さな想定外が、少しずつ、だが確実に増えてきている。特に重要でもないただの下らない会話から、俺のデータが微弱ながらも崩れ乱れる事が増えた。元来単純ではありながら感情面の微細な点においては奔放故に分かりやすい法則のない赤也ではあるが、その傾向が一時期から顕著に現れ始めた。更に言えば、それがあえて俺の予測を乱すようなものばかりであったものだから、当初は俺への反抗期かとも思ったが、どうやらそういうわけでもないらしい。反抗期という言葉を使うには、穏やかで甘やかすぎる誤算だ。そして誤算を「穏やか」で「甘やか」だと称する自分が、何よりも誤算なのだ。

 赤也は未だ喜びを全身に湛えたまま、赤みのさした頬を曝し、秋の風に黒髪を揺らす。自分の面白みのない直毛と違い、その毛先は方々へと勝手気ままに跳ねている。思わず手が伸びるままにその髪を撫ぜた。赤也が不服気に、文句を漏らしながら顔を歪ませる確率は74%だった。現に昨日丸井がそうした時にはそういった反応を示していたはずだ。しかし微かに俯いて、耳まで朱に染めたものだから。いつもの威勢の良さを嘘のように潜め、心地良さそうにしおらしく目を細めたものだから。俺はもう確率を求めるようなことは忘れ、恥ずかし気に引き締められたその口元に、ただ吸い寄せられるだけの能無しになる。冷えた指先で、その唇に触れる。
 近頃思い通りにならないのは、赤也と、そして自分自身だ。いつものように整然と思考を駆け巡っていたはずの数列は、触れた温もりによって一斉にその息を止め、星が落ちるように潰え死に絶える。そして知る。ああ、これが熱情か、と。身体を、脳すらも乗っ取り、皮膚の下で滾り踊るこの抑え難き衝動を、俺は今まで知らずにいたのだ。まさかあの無鉄砲で小生意気な後輩から、なにか新しいものを教えられる日が来ようとは、誰が予測できたというのだろうか。

 どうにも、思い通りにならない事が増えた。長年かけて確立させた自慢の手法が通用しないのは些か癪ではあるが、一概に悪い事であるとは言えそうもない。誰かと出会い、知り、愛すということは、新しい自分と出会い、知り、愛すということのようだ。


(2012/10/28)