人を好きになるということ
仁王雅治 柳生比呂士



 例えば、足の裏がぐにぐにして楽しいからと好んで選んでいた黄色い点字ブロックの上を歩かなくなったとか。例えば、信号の青が瞬けば、小走りで歩道を駆けるようになったとか。例えば、突然雨が降り出した時に、そのへんで傘を掻っ払ったりしなくなったとか。例えば、落ちていた財布を交番に届けてしまったとか。例えば、時折少し眼を細めて、視力が悪いということはどういうことか想像するようになったとか。例えば、定規を凝視して2センチがどれくらいなのか指で計ったりなんかして。例えば、「清らか」だなんて言葉を、辞書でひいてみたりだとか。挙げ句の果てには、自分だけの特等席だった屋上の隅に、毎日同じ誰かさんと座るようになっただとか。
 この例えばの話が、すべて現実のことなんだから、我ながら滅入る。

 いかにもテーブルマナーだとか衛生面だとかにうるさそうな柳生と、ミーティングと称して屋上で昼飯を食うようになってもうずいぶん経った。会話なんてほとんど成立してないようなもんだ。柳生の問いかけに、俺が適当に…あえて適当に相槌を打つだけ。最初の頃は確かに作戦会議をしたりもしたが、今となってはもはやミーティングだなんて言葉が相応しくないのは分かりきってる。でも、今でもこれをミーティングと呼ぶのは、俺のなけなしの、意地だ。そして柳生もその名を訂正せず、チャイムがなって数分でここに現れ、文句も言わずに地べたに座り、飽きもせずあってないような会話で時間を共有しているという事実に、俺は少し期待しているだなんて、そんな馬鹿な。

 きっちりと正座した膝のうえで弁当を開き、おかずを箸で綺麗に掴んでそれを食べる。それだけだ。別に普通のことだ。誰だってものを食べる時は口をあけて、口に入れて、噛んで、飲む。自分だってそうする。自分の家族もそうするし、さっき授業中に居眠りしていた俺の頭を教科書の角で小突いた国語の教師だってたぶんそうするし、それを見てクスクス笑ってた隣の席の女子だってたぶんそうする。なのにそれを、あくまでバレないようにではあるが、じっくりと見てしまう。どうでもいいはずのそんな当たり前の事を、必死に眼に焼き付けようとする自分がいる。俺が最後の一口を飲み込んだあたりで隣から聞こえてきた丁寧な「ごちそうさまでした」を聞き届け、そのままごろりと横になった。眼を閉じてマフラーで顔を覆っても未だ瞼の裏に柳生がいるだなんて。最近ずっとそんな感じだなんて、さっきの授業で寝た時もそうだったなんて、そんな馬鹿な。なんのホラーだ。安眠妨害で訴えてやる。

 誰だか知らないが、愛は与える物だなんて言ったやつをぶっ飛ばしたい。ついでに柳生も殴りたい。勝手に人の生活に入り込むなんざ、万死に値する重罪だ。でも俺は知ってる。柳生は勝手に入り込んできたんじゃない。招いたのは、たぶん俺だ。愛も、柳生も、俺から奪うばかりだ。巻き込むつもりが巻き込まれた。引きずりこまれていくほどに、今までの日常を失くしていく。けれど、変わって行く自分を指差して笑いながら、それでも心底馬鹿になんてしちゃいない。らしくないと分かっていても、あたたかく震えるこの気持ちだけは最後まで手放さずにいたいのだ。誰にも渡さず、じっと掌で握り締め、時折自分だけでそれを眺めていたいのだ。けれどいつか、掌を開いてそれを打ち明け、その人に見せてしまいたいと思っているのだから、やっぱり愛は与えるものなのかもしれない。だなんて、そんな馬鹿な。







 かつては休み時間の度に本を開いていたというのに。読書の時間が大幅に減ったように感じるのは、おそらく昼食の後に本を読むという日課が無くなったからだ。なかでも詩集は読まなくなった。紙に印字されたものは変わらないけれど、目の前の一切は瞬く間に変わって行く。じっとりと張り付くようだった夏の日射しは、あっという間に秋晴れになった。天を貫くような青空の下で丸まる透き通るように白い肌のその人を見下ろす。彼の顔を覆っていたマフラーは、無情にも風でめくれてしまっていた。寝てしまったのですか、なんてつまらないことを聞いて、彼を目覚めさせるような愚行はしない。人の寝顔を覗くなんて不躾なことはやめたまえ。過去の私が今ここに居たのなら、そう言って私を叱責するのだろうか。もう今となっては、不躾であるとかそんなことはどうでもいいように思えた。ただ、吹いた風に縮こまる彼に自分のブレザーとマフラーを広げてかけた。できる限り優しく、静かに。この感情を例えるならば、母性とでも呼ぶものか。

 容易に他人が近づくのを嫌うまるで猫のような彼が、もう何ヶ月も変わらず私の前で食事をとり、更には私の前で身体を投げ出して眠るというこの状況がいかに希有なものであるか、理解してくれる人は如何程いるのだろうか。聞けば理解する人はいるだろう。しかし共有できる人は居まい。この感情の名を私は知っている。優越感だ。浅ましく下らないと思っていたその感情が、今では友の如く至極当然のように私に寄り添うことが増えた。
 いつからだろうか。優越感、慈愛、嫉妬、その他数えきれないほどの感情が競って私の中に雪崩れ込んでくるようになった。嬉しい知らせを抱いた天使が私を祝福しに来訪するかのように感じる時もあれば、武装した兵士が次から次へと攻め込んでくるように感じる時もある。人を愛すということは、時に穏やかではあるが、一方で兎角忙しく、ひどく野蛮なものだと知った。

 愛の素晴らしさを讃える詩集を破り捨てて宙に投げたくもなる。愛、それ自体は決して美しくなどない。愛に踊らされる自分に至っては、却って品位を欠いたように思える。しかし、自分の愛を注ぐ対象だけは恐ろしいほどに美しく見えるようになった。まるでそれだけが世界の真理ではないかと思える程に。盲目ではまだ弱い。言うならば盲信だ。私のかつての骨を砕き、背骨に新たな芯を挿す。それが私のすべてになる。それは、とても危険なことだ。けれど私は逃げる術を知らない。逃げようとも思わない。それはやはり、とても危険なことだ。けれど私は、それを、幸せと呼びたいのだ。いかに品位を欠こうと、心乱そうと、公平な眼を失い、劣情に身を裂こうとも、私は彼を愛することを選ぶ。今までの自分の価値観が枯れ落ち、朽ち果て、死に崩れ行く様を、彼の隣から見てみたい。

 美しい詩が胡散臭く見えるようになってしまった。愛は讃えるべきであるなんていうのは、愛を愛するだけの者が叫ぶ戯れ言だ。人を愛するということは、浅ましく下劣で、まるで思考を奪うなにかの疾患のようだ。しかし私はこの脳と身体を、その病へ喜んで差し出そう。彼の美しくなだらかな頬と、同様に美しく無垢な彼の心を、誰より近くで見るためならば。