夏の断末魔だ。この世の終わりみてえな声出すんじゃねえよと言いたい所だが、あいつら蝉にとっては実際そろそろこの世の終わりなんだから仕方の無い事かもしれない。ジーワジーワと苦しげな声も、もう夜になれば秋の虫の声に押されて消える。夏が終わる。

 この学校じゃほとんど誰しも代わり映えもしないであろう個別進路相談を終えると、廊下の向こうからやって来る綿毛のような頭が見えた。五限後のホームルームをさぼっておきながら堂々と職員室の前を通っていくこの神経はすごいと思う。

「おい、仁王じゃん」
「おー、久しぶりじゃの」

 俺たちは同じクラスだけど、その言葉に違和感はない。もともとべったり二人でつるんでる訳じゃないし、仁王はそれなりの頻度でフラフラと教室を抜け出してるようだし。部活で毎日喋ってた頃と比べるとどうしても「久しぶり」という気分になる。

「帰んなら一緒に帰ろうぜ」
「ええよ」

 隣に並んで見た仁王の顔は、前より一層白く見えた。一緒に帰るのなんて夏休み明けてからは初めてかもしれない。

 仁王はいつだって冬服一番乗りだった。毎年ラケットバックにくちゃっと無造作に詰め込まれていたカーディガン。今朝はどこからどうみても勉強道具の入ってなさそうなぺったんこのスクールバックがいつになく膨らんでいたから、今日から冬服デビューなんだってすぐ分かった。案の定、仁王の白いワイシャツは今やカーディガンによってほとんど隠れている。

 仁王のカーディガンは校内でもトップクラスに出番が多い。持ち主が寒がりなせいで、どうしても人より痛みが速い。たとえ衣替え前であろうと、自分が寒いと感じればすかさずカーディガンを着込んでいた。しかしもちろんそれは真田や柳生を始めとする風紀委員や口うるさい体育教師の居ぬ場でのみの話だ。よく分かんないやつだけど、部活に迷惑がかかるようなことは避ける傾向にあるから、仁王は教師の前では最低限良い子ちゃんぶったりする。本当に最低限だけど。だから衣替えでカーディガンが解禁になると、誰より真っ先に仁王はそれを纏うようになる。そんな仁王を見てなんだか寒くなったような気がした俺は、捲っていたシャツの袖を思わず伸ばした。

「お前が校内で堂々とカーディガン着てんの見ると今年も終わるーって感じするわ」
「気が早いのう、まだまだ冬はこれからぜよ」
「つーか袖やべーだろこれ」

 いかにもやる気のなさそうに宙へ垂らされていた両手。そのカーディガンの袂は少し気の毒になるくらいほつれてぼろぼろになっていた。それをびよ、と指先で引っ張ると、仁王は俺をからかうように、わざとらしく嫌そうな顔をした。

「やめんしゃい、また丸井のせいで穴広がりおった」
「またってなんだよ」
「去年もお前さん引っ張ったじゃろ」
「は、なんで俺なんだよ。お前が毎年毎年引っ張りすぎなんだよ」
「忘れたとは言わせん、こっちの、この穴は去年丸井が広げたやつじゃ」

 仁王は右手の裾を引っ張って、水色の隙間から見える肌色を指差した。見事に編み目の裂けたそこを見て「しらねーよ」とは言ったものの、実はしっかり覚えてる。部室で着替えてる時に仁王がカーディガンを落として、拾おうとしたところをたまたま俺が踏んでしまったのだ。別に俺だけが悪いんじゃない。でも糸の切れたビリっという音と、ギョッとした仁王の顔は今でも思い出せる。そうめったに変わらない仁王の表情が露骨に変化したのが可笑しくてやけに胸が痛かった。懐かしい。あっという間に、あれももう去年の出来事になってしまった。

 二人並んで下駄箱と向かいあう。この下駄箱に蓋が設置されるのは、俺たちが卒業してからになるらしい。昇降口から入り込んでくる風が下駄箱の中の砂を転がした。先程の俺の反応が気に入らなかったのか、それとも風の冷たさが不満なのか、仁王の横顔はすこしぶすりとしている。こいつの表情が意外と分かりやすいもんだってことは、この一年間で知ったことだ。

「そもそも秋と冬が寒いんが悪い」
「そんなんじゃ風通って逆にさみいだろい、だいたいそんなぼろぼろだと汚ねえって注意されんぞ。新しいの買えよ」
「もう卒業じゃけえ今更買うはずなか」
「まあそうだけど」
「ええんじゃ、下に違うの重ね着するし、ちぎれたとこ握れば問題なか。このカーディガンともあと数ヶ月でオサラバぜよ」

 そう言って仁王は下駄箱からローファーを引っ張りだして落とすように放った。夏休み前の同じ時間よりずいぶんと茜色になった寂しい廊下を、パン、パンというローファーと床のキスする音が駆け抜ける。底の柔らかいテニスシューズを履いてた頃はこんなに音は響かなかった。俺のローファーも、仁王のローファーと同じ音をたてて床に転がる。遠くから届く吹奏楽部の音色すら物ともせず貫いていく。銃声にも似た、乾いた冷たい音だった。

 どちらからともなく極めてスローテンポで靴底を鳴らしながら俺たちは昇降口を出た。今週に入って、明らかに空気が変わってしまった。夏が死ぬ。そして秋がやってくる。仁王のビリビリでヨレヨレになったカーディガンもあと半年と経たずに卒業してしまう。中等部指定のカーディガンとはサヨナラだけど、べつに仁王はこれからも居る。俺もあいつも立海の高等部に進むし、テニス部も仲良い奴らもみんな持ち上がり。今日の仁王には今日しか会えないけど、それは誰にだって言えることなのに。揺れる銀髪、白い襟、ぺったんこのスクールバック、表面積だけで測れば俺とそこまで大差はない背中、ケツの部分が余ってるスラックス、踵の痛んだ茶色いローファー、色あせたカーディガン。そんなだらしない後ろ姿をひどく特別に感じてしまうのは、やっぱり秋のせいなのか。乾き始めた空気は物悲しい。校門に立つ風紀委員に見つからないように袖のちぎれた部分を握りこむ仁王を見て、俺は甘いような苦いような複雑な気分を噛みしめた。そう、去年あいつのカーディガンの穴を広げたのは確かに俺だ。その穴も、もう見れなくなる。俺だって寒いのは好きじゃないけど、それでも今年の秋と冬は、できるだけながくあれと思うのだ。


さよならカーディガン (2012/10/18)