その日も乾は一番にスクールへ来ていて、誰よりはやく支度も済ませて自主練習をしていた。けれどやっぱり、隣に居たはずの人が足りないのだ。乾が呟いた「いなくなった」という表現はまったく間違っていなかった。狭いコミュニティで生活する俺たち小学生にとっては、たとえ隣県とはいえ引っ越すとはつまりいなくなることなのだ。俺はラケットバックを肩からおろすのも忘れ、黙々と壁打ちを続ける乾に駆け寄った。

「乾。柳くん、引っ越したって」

 乾は振り返らない。返事もしなかった。

「神奈川だって!」

 声を荒げても、乾はたった一言「そうか」と言っただけだった。壁にあたったボールがコートへ転がる。俺はボールを打つ手をとめた乾に詰め寄った。わけもわからず酷く苛ついていた。

「そうかって、それだけ? どうすんだよ、もう会えないかもしれないんだぞ!」
「いや、必ず…」
「お前は柳くんに置いていかれたんだ!」
「置いていかれてなどいない!」

 その時、初めて乾の怒鳴り声を聞いた。思わず肩と首を竦める。そんな俺を見て乾は一度静かに深呼吸をして、すまないと呟いた。謝る必要があったのはどちらかと言えば俺だ。でも乾の大きな声に萎縮してしまった俺はただ必死に首を頷くように上下に振った。

「すまなかった。でも大丈夫だ。必ず、また会うことになる」
「そうやってさ、またいつもの、100パーセントってやつ?」
「当然だ、間違いない。蓮二が嘘をつくはずが無い」

 乾は一言一言、やたらしっかりと発音した。柳くんよりは分かりやすいやつだと思っていた乾のことがよく分からなくなった。俺からしてみれば乾はやっぱり柳くんに黙って置いていかれたのだ。なのになぜ、今も尚そこまで柳くんのことを信じていられるのか、俺には分からなかったのだ。分からないことは不気味なことに直結する。すこし乾が怖かった。

「蓮二が“またな”と言ったんだ。必ずまた相対することになる。俺はその時、負ける訳にはいかない」

 息を切らせているにも関らずはっきりと言い張った乾は、ギチリと音が聞こえそうなほど強くラケットを握り、また練習を再開してしまった。俺はしばらくその姿を見ていたけれど、乾の決意を前にしてしまっては物も言えずに、何かを削がれたような気がして家に帰った。その日俺は初めてテニスクールをさぼった。乾と柳くんが試合前日にシングルスの試合をしていたらしいと風の噂で聞いたのはそれから程なくしてのことだった。
 乾は今まで以上にテニスに没頭するようになっていった。誰より早くスクールに来て、コーチが帰るまでひとりで練習を繰り返しているようだった。時折少しだけ痛んだノートを開いては、なにかを書き込んでいる。その隣から手元を覗き込み綺麗な髪を風に揺らすあの頭は、もう見れなくなってしまった。俺たちはみんな仲が良かったけど、でもあの二人はやっぱり格別、とびきりだったのに。
 うちのスクールで一番強かったダブルスがダブルスでなくなってしまった。仲間内で一番仲が良かった二人が二人でなくなってしまった。それは幼い俺たちに、何か終わりのようなものを静かに告げた気がした。俺はなんとなくテニスをやめてしまった。だから後のことはあまり知らない。乾のことも、柳くんのことも。




 何事もきっかけなんてのは些細なものだ。どうでもいいようなきっかけでテニスと出会い、なんとなくでテニスから離れた俺は、また些細なことでテニスと接することになった。
 中学三年の夏。ポケットの中で震えた携帯を開くと、ひどく懐かしい名前から電話が来ていた。小学生の頃に通っていたテニススクールの友人からだった。当時からガキ大将のようだった彼は、持ち前の明るさと統率力で中学のテニス部でも部長を務めていたようだ。しかしそんな彼の夏はつい先日終わりを告げてしまったらしい。テニスを辞めて以来、何かを夢中でやることもなかった俺がかける言葉に詰まっていると、「関東決勝を見に行こう」と誘われた。なぜテニスを辞めた俺を、と言おうとしたところを遮るように、受話口から聞こえる声がこう告げた。
「おもしろいものが見れそうなんだ」

 訝しがりながらも試合会場に足を運んだ俺は、彼の言葉の意味を早々に理解した。コートを囲むように揃うジャージの中に見知った顔を見つけたからだ。髪型や背格好が変わっていても分かる。乾と、柳くんだった。当然ながら二人は違う色のジャージを着て違うベンチに立っていた。そういえば柳くんが引っ越した先は神奈川だ。小学生の時はあんなにも遠く感じた神奈川という場所は、中学生になった今、「関東」という小さなくくりの中のすぐお隣さんになっていた。友人が言うには、柳くんの居る立海は全国制覇を何度も成し遂げた強豪だという。
 ダブルスはふたつ、柳くんの学校がとった。そしてシングルス3。いつだって隣同士並びあっていた二人がネットを挟んで相対する様を俺は初めて見た。フェンスからも離れたここからは二人の姿はあまりよく見えない。でも柳くんが座り込んで靴ひもを直すのが見えた。昔、それはクセなのかジンクスなのかと笑いながら柳くんに問うていた乾の姿を思い出す。柳くんはよく見ているなと言って笑っていた。そして試合が始まる。俺はもう、目を覆いたくなった。

 柳くんが、勝ちそうにみえた。でも俺には乾が負けるとも思えなかった。乾はきっとあの日から変わらず恐ろしいほどの努力をしてる。だからといって柳くんだって何かを怠るような人じゃない。確率なんて分かりゃしない。すっかりテニスから離れてしまった俺はただフェンスの外から成り行きを見届けるしかない。
 ファイブゲームストゥーフォー。それをこえてから、試合をする二人の様子が変わった。両校の凄まじい声援で内容までは聞こえなかったものの何か声を掛け合っていたのが見えたから、この点数は彼らにとって意味があるものだったのかもしれない。彼らが今どんな思いで試合をしているのかは分からない。でも一度打ち返すたび、いつかの昔をひとつずつ思い出しているような。テニスボールを打つたび、記憶の引き出しから何かを取り出し共有し、答え合わせをしているような。距離を隔てテニスボールを打ち合う勝負をしているはずなのに、スクールのコートの隅で笑い合いながら縮こまって内緒話をしていたあの二人が見えた気がした。シックスゲームスオール、とうとう試合はタイブレークへ。応援の声はどんどんと大きく響いていくのに、あのコートの中だけは別世界みたいだ。二人の間を黄色いボールが行き交うだけの世界。終わらない、4年と2か月と15日を埋めるタイブレーク。

 ふと、額から流れる汗に違う水分が合流して俺の頬を流れてく。あの時も彼らは泣かなかったし、今の彼らが泣くはずもない。だからおこがましくも、あの時の二人の代わりに俺が泣いたのだろうか。恥ずかしくて、意味が分からなくて、さっさと拭ってしまおうと思い顔をあげると隣のやつもちょっと泣いていた。俺は乾や柳くんのように数字に強くはないから明確に表すことはできない。でもさみしさや悲しさはほんの数滴で、あとのすべては嬉し泣きだった。4年と2か月と15日。俺は忘れられずとも、しかし確実に色あせ始めた記憶を、月日を、期間を、乾と柳くんは毎日数え、慈しんだ。変わらずに、しかし新たな場で輝き合い、そしてまた出会う。互いにそうであれる存在というのを羨ましく思った。

 フェンスを隔てた向こうで乾が吼えて拳を握った。終わったのだ。二人は歩み寄り、眩しく微かに笑いあって固く固く握手をする。あの頃終わらなかった乾の一日がやっと終わった。待ち続けた4年と2か月と15日が終わり、そして新しい時間が、今度は二人一緒に動き出す。背が伸びた。逞しくなった。けれど手を繋いで駆け回っていたあの頃の彼らと、まるで少しも変わらずに見えた。

 乾はらしくもなく握りこんだ拳を誇らしげに掲げる。その先には青春学園テニス部の青いジャージ。そして柳くんは芥子色のジャージで溢れる立海ベンチへ吸い込まれるように戻って行く。乾も柳くんも、もう抜けてはならない存在なのだろう。彼らを必要としている人が何人もいる、替えは利かない。パッと消えたら誰も気付かないのではないかと思わせるような、かつての柳くんはもういなくなった。


(2012/8/10)