「えっ。雪菜、あなた今、なんて」
「お別れです、泪さん」
泪さん。貴女と過ごしてどれくらいの月日が流れていったでしょう。私は、あなたにとても感謝しているのです。
「いままで本当にありがとうございました。迷惑をかけてしまって、すみません」
「雪菜」
笑みを浮かべながらも、無機質に放たれる感謝の言葉たち。最低限の礼儀だけは尽くさなくてはならない。それなりの苦労を掛けたのは事実だから。
「安心してくださいね。今日にでもこの里を離れるつもりです」
目の前の彼女は、言葉にならない声を漏らすだけで、こちらからの投げかけはほとんど耳に入っていない様子だ。聞こえていなくてもかまわない。届いていなかったとしても、私は自分の故郷にけりをつけたいだけなのだ。この形式的な挨拶で、私の今までは終わりを迎えることができる。
「ああでも、安心してだなんて不躾でしょうか。泪さん。安心なんてできるはずないのに。でもやっぱり、すぐに不安もなくなりますから……やっぱり安心と言っていいんでしょうか」
相変わらず彼女に目立った反応はない。緩む口元とは裏腹に、私は今までに見せたこともないような冷たい目をしているだろう。呆然とする彼女をよそに、私の口からはたえず言葉が溢れてくる。
「こんな茶番は要りませんでしたか?長く苦しむのはお互いに気持ちのいいことではありません。早く終わらせましょうか。私もだれかの死に際にまで冷酷ではいたくありません」
「どういうことなの?」
やっと搾り出した彼女の声は少々掠れてはいたが、はっきりと聞きとれるものだった。その言葉通り私の問う意味がわからず訊いたのではないだろう。
「遠まわしが過ぎましたね。私は貴女に感謝しています。でも、同じくらい、いえそれ以上に貴女が憎いんです」
彼女に驚く様子は無い。やっぱりわかっていたのだろう。わからないはずがない。別に、だからといって何ということもないけれど。
「だから、貴女を殺してもいいですか」
貴女は、覚えていますか。私を引き取った日のことを。兄をその手で地上に落とした日のことを。赤子が何も覚えていないのをいいことに、自分の罪を隠して片割れを引き取ったあの日のことを。
私は普通の氷女として貴女に引き取られた。自分を母の友人だと教えるあなたに何の疑念も抱かずに、その言葉を信じて暮らす子供として。母親を生まれながらに失い、少しの哀れさをはらんだだけの、普通と何ら変わりない、氷女として。
あなたは私に、笑顔をくれました。
でも私は、あなたが私と兄を引き離した張本人だと知っていて、あなたの笑顔は嘘で塗り固められていて、上辺だけを取り繕ったからっぽのものだと考えました。
あなたは私に、優しくしてくれました。
でも私は、そんな態度も、母や兄に対する罪悪感から罪滅ぼしのためにとったに過ぎないと考えました。
あなたは私に、色々なことを教えてくれました。
でも、私の母や兄については、何ひとつ教えてはくれませんでした。私も訊くことは諦めていて、貴女がわたしに責められるのを恐れているのだと考えました。
こんな風に思うのは、私が確かにあの日のことを覚えているからだ。
生きる術をもたない私は、とにかく生きて生き続けることを選んだ。生き長らえることだけなら、ひとりでもさほど難しくもないかもしれない。ただ、十分な時間と知識を味方につけて、温床にいながら好機を狙うのと、無知のまま外へ放り出されるのと、どちらが賢い判断かは赤子の私にもわかった。私の生まれたばかりの呪いなど捨ててくれる。そのかわりに、機が熟したそのときは、私は私の感情を殺さない。
そのときがようやく来たのだ。
「雪菜、あなた知っていたの」
「兄を、貴女が地上に落としたことと、兄が忌み子と呼ばれていたこと……それだけです」
逆に、知っているのはそれだけだったが、貴女を恨む理由もまたそれで十分だった。
「どうして兄は捨てられなければならなかったんですか。どうして、忌み子だから?忌み子って……なんなんですか」
どうして、どうして、どうして。疑問を口にした思った瞬間、箍が外れたみたいに問い掛けは止まらなくなる。冷静さを保っていた口調も思わず震えた。
彼女の瞳が揺れる。核心に触れた。遅かれ早かれ訊こうと思っていた兄のことを、今、ようやく。
「忌み子は、あなたの兄は……」
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