「なあ」
「君って兄弟とかいるか?」
その日の夜のこと、例の如く食事を運んできたお節介に、こんなことを訊かれた。
「えっ」
このたった一言に私は心を揺らしてしまった。一瞬、自分に流れる時が止まる。しかしガシャン、と耳を覆いたくなるような音が聞こえた途端、私はハッと我にかえった。運ばれた食事は皿ごとひっくり返り、料理は勿論、割れた皿の破片があたりに飛び散っている。
「あっ」
「大丈夫か!?手とか切ったりして……」
「いえ、大丈夫です。特に何も」
思考が止まっていたため咄嗟のことには勿論対処できなかった。だが言葉どおり言う程の怪我はない。あくまでそれは私基準での話だけれど。
魔界に居ればちょっとばかりの血なんて大して驚くようなものではない。だが人間界でのそれは痛々しいものに映るようで、例に漏れずこの男も私の指に流れた血を見逃しはしなかった。
「おい……その指!結構傷が深いじゃないか!なんだよ、全然大丈夫じゃないだろ!」
私の指に深く走った赤い切り傷を見届けた男はひどく焦っているようで、普段穏やかな彼に似合わず語調を荒げた。
普段呪符をしまうのとは反対側のポケットから黒いハンカチを取り出すと、それを惜しげもなく割いて、私の指に巻きつける。棘のある物言いに反しその手付きには気遣いが感じられて、ちょっとだけ申し訳なく思った。
「……すみません」
「本当だよ。まったく変に強がってくれるなよ、こっちがヒヤヒヤする」
いつも躍起になって私に話し掛けてくるのに、今の男はちょっとだけ偉そうだ。
手元に視線をやれば、慣れない所作で巻かれたハンカチ。呪符で焼かれた傷と見比べて、今つけた傷の小ささに思わず笑ってしまいそうになる。変なの。こんな小さな怪我で、今更こんなに狼狽えるなんて。そう言ってやりたかったけど、不恰好なハンカチの結び目がとても一生懸命に見えたから、口を開きかけただけでやめた。
「なんだかとても不細工に見える」
「はは、不器用で悪かったな」
こういう時は礼をいうべきなのだろう。怪我はどうであれ私は彼のハンカチを台無しにしてしまったのだから。有難うと一言言えばいい。だが口をついて出たのはそんな憎まれ口だけだった。
「元はと言えば俺が……あ……悪い」
「別に」
無意識とはいえ、一度踏んだ地雷を二度も踏み抜きに来るとは。そういう所には頭が回らないらしい。冷静さを取り戻した私は、今度は落ち着き払って答えた。不意うちでなければ過剰反応を示すこともない。
「私にも、兄がいます」
「そうか」
答えた私は表情を崩しはしなかったけれど、兄のことは踏み込んで訊かれて快いものではない。落ち着き払って答えるためにも、心を殺す必要がある。
男は目を細める。眩しいものを見るような目だった。彼は私を見ていたが、本当はもっと先にあるものを見つめていたように思う。それは感情移入というよりは……
「ねえ」
妙に静まり返った空間のなかで言葉を発するのには少し勇気が要る。探り合うような、張りつめた空気を壊してしまうのが怖いからだ。
「あなたは帰りたい?」
家に帰れないことは、初めから薄々わかっていた。これからは、自分が妹の側に居てやることはできなくなるだろう。出発の日の朝、親戚の家に妹を預けて、俺は妹の前から姿を消した。妹の泣きじゃくる声を背にして、振り返らないまま真っ直ぐに歩いた。「いかないで」と叫ぶ金切り声が、涙でほとんど声になっていない声が、ひどく耳に痛かったのを覚えている。妹の様子は、数ヶ月に一度届く親戚夫妻からの手紙で把握することができた。妹は元気でやっているらしい。ここに来て数ヶ月後、通帳を開いて驚いた。田舎で働いていたときの数倍の額がそこには記されていた。自分自身に金は必要なかったから、全て妹の名義で作っていた口座に振り込んだ。金を振り込んでいる口座からは、いまも毎月ちゃんと金が引き出されている。妹はその金で少しはマシな生活を送れているだろうか。ここに来て数年が経つ。親戚夫妻からの手紙はもう届かなくなった。妹は元気だとしか書かれていなかった手紙も、定期的に妹の様子を確認できなくなった今では、どれだけ俺の安心材料になっていたかを思い知らされた。俺はいまでも毎月金を振り込んでいる。妹は元気にしているだろうか。
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