辺りを見回しても姿を捉えることはできなかったのに、いつの間に後ろに?一瞬の隙が生まれたが木を利用して反転し、男から距離をとった。皮肉にも隙につけこまれることはなく、軽く胸をなで下ろす。あれ、何だろう、首が熱い――。
 気づくと、首から提げた氷泪石がなくなっていた。

「ちょっと、それ!」
「ああ、ちょっと借りたぞ」
「返して!」

 目の前の男が手にしている氷泪石が目に入った瞬間、頭にカッと血がのぼるのがわかった。それは母さんと泪さんの、大切な氷泪石だ。
 見れば、首元の紐は綺麗に切られており、目の前の不届き者が手にした氷泪石の紐もまた綺麗な断面を晒している。触れられた感じは全くなく、相手が私より強いことをすぐに感じ取れた。けど氷泪石は自分にとって何よりも大事なもので、勝機だとか何だとかは頭のなかから抜け落ちてしまって、弾かれるように走り出した。
 裾を分け脚を自由にする。動きやすさを確保し、手加減容赦は一切無しで拳と蹴りを間髪いれずに繰り出す。一方目の前の相手は手の中の氷泪石を神妙な面持ちで見詰めるだけで、私には一切興味がないといった風だ。そのくせ私の攻撃はこちらを一瞥もせずに全てかわしているのだから余計に腹が立った。
 氷泪石を奪われてしまうかもしれない。そう考えると焦りばかりが先行し、拳や蹴りのひと振りひと振りに次第にブレが出始める。

「あ」

 何の前触れもなく男は声を上げた。こちらも動揺を誘われスピードの緩んだ隙だらけの拳は当たり前のように捕らえられてしまう。やばい、殺される。身構えて目を瞑るが、衝撃は依然として降ってくることはなかった。恐る恐る目をひらくと、何かに納得したようにそいつは口角を上げた。

「そうかお前……雪菜だな」
「え?」
「借りてたもん、返すぞ」

 言うと男はは私の口を掌で覆った。目の前の人物は何度私の意表を突いてくるんだろう。この男は一体誰なの。氷泪石泥棒の次は、名前まで。顔の半分を覆う拳は鼻さえも覆い隠して、私の呼吸の自由を奪った。同時に咥内に含まされた氷泪石の扱いに非常に困る。苦しい。酸素を必死に求めようと喉がひとりでに上下する。もがくうちにごくりと音が鳴った。
 ようやく男の掌から解放された私は、急激に肺に流れ込む酸素に咳きこんだ。頭がくらくらしてうまく立っていられない。さっきまで扱いに困っていた氷泪石は、今頃既に腹の中だろう。何を考えているんだ。よろめきながらも悪あがきくらいにはなるだろうと男を睨んだ。

「まあそう警戒するな。別に、お前に危害を加えたいと思ってるわけじゃない」
「な、に言って……」
「手荒な真似をして悪かったな。だが、守れないのなら仕舞っておくのが一番いい」
「なっ」
「本気で俺が氷泪石を奪おうとしてお前に近付いていたら、お前はどうなっていた?ましてや俺が殺意を持っていたら」

 返す言葉もなかった。突然とはいえ、私には危機感が足りなかった。

「人間界では、お前らのような氷女は至高の宝石を生みだす道具として、金に意地汚い人間どもの間で取引されている。ただの人間と思ってみくびるな。人間界にだって人間に飼い慣らされた妖怪がわんさかいる」

 捕らえられたら、きっと地獄を見るぞ。にやりと不敵な笑みを浮かべた表情は、そうとでも言いたげだった。

「まあ、お前くらい妖力があったら、そうそうヘマもしないと信じたいがな」
「あなた……誰なの」

 話の筋からは些か外れていたものの、目の前の妖怪が何者なのか、それだけが頭の中を支配していた私には、それを聞くのが精一杯だった。

「簡単に身元を明かしたんじゃつまらないだろう、知りたきゃ自分で勝手に調べるんだな。これだけ教えといてやるよ。俺はまたお前の前に現れる。あいつの前にもな」

 触られた感じもないのに、頭に手を置くようなあたたかいものを感じた。私の右側を風が吹き抜ける。首から提がる紐は僅かに妖気を帯びていた。
 さっと頭を抑える。目の前にはもう誰も居なかった。なんなんだ、今のは。一方的にこちらを知った風で、まったく存在が掴み切れない。

 すらりと背の高い、黒髪の男だった。気付けば周り一帯の雪は完全に溶けていて、少し早い緑が顔を覗かせていた。ここにはかすかな妖力が香る。
 あの男は、私を知っているようだった。だが私はあの男に関する記憶は一切持ち合わせていない。記憶にないだけで、もしかしてどこかで会っていた?また私の前に現れる?どうして?……男の言うあいつって、誰?
 疑問はやまない反面、その答えはどんなに考えてもわかりはしなかった。


 立ち尽くす私をよそに、また雪はうっすらと積もっていく。



To be continued.()

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