がらりとレールの雨戸を滑らせれば、初夏の太陽がじりじりと照りつけた。すでに汗ばむほどとなってきた近頃の陽気も、周りを囲む木々と、縁側の風鈴の音とが和らげてくれる。

幻海さんが亡くなったのちも、私は度々この場所、彼女の屋敷に来ていた。住む人が居なくなれば自然とその場所は寂れていく。お世話になった人のためにも、できるだけあの頃のままの環境を保っておきたかった。そういった感謝の気持ちもあるし、なによりこの場所そのものに対して愛着が湧いている。

廊下を中心に拭き掃除を終えると、時計の針は12時半を指していた。今日はとても暑いから、昼食は素麺をいただくことにしよう。本来不必要なものだった人間界の食事は、ここで過ごす日々が重なるうちにすっかりと舌に馴染んだ。よく手入れしたキッチンでは、自然と背筋が伸びる。休憩まであと一息。

「あ」

コンロの鍋のなか、ぐらぐらと沸くお湯。白くなめらかな乾麺を滑り入れて初めて気付いた。これじゃあ、ひとりで食べきれない。

幻海さんが居た頃の食事は全て二人分。弟子たちを含めて更に大人数分の食事を出すこともしばしば。それが習慣になっていたせいか、ここに通うようになってから数週間も経つのに、勿体無いことをしてしまった。浅く溜め息を吐いて、明日のお昼までとっておくしかありませんね、と一人言を呟いた。

どうして今更二人分の食事を用意してしまったのだろう。思い返すと、夏は一年でいちばん賑やかな季節だった。おかずを取り合うだとか、それをたしなめる声だとか。そんな楽しげな空気が行き交うシーンを思い浮かべると、それはいつもこんな気候のときだったような気がする。懐かしく思う気持ちというものはどうも扱いが厄介だ。無意識のうちに体が動いてしまう。思わず、あの楽しかった時間と同じように。

また、あんなふうに――、

「おい」
「えっ」

背後から突然声を掛けられて、咄嗟に振り返る。


「飛影、さん?」
「ああ」
「飛影さんいいところに!ちょっとこちらで座って待っていて下さい!」
「なっ、おい……!」
「丁度良かった。飛影さん、きっとお昼ご飯はまだ食べていませんよね。おそうめんなんですが、私、ちょっと多く作り過ぎてしまって」

食べた、などとは一言も言っていない。だけど食べていないとも言っていない。この人の沈黙は肯定なのだと、深く考えなくても経験からすぐに断定できる。確認のような言葉は体裁だけともいえた。それに、嫌われているという自覚はないけれど、同じ空間を共にするとき、なにか理由をつけでもしないと彼はすぐに姿を消してしまう。珍しい訪問客でもある彼と、今は少しでも話がしたい。

「いや、飯など要らん」
「せっかくなので、どうぞ」

質問なんて意に介さないちぐはぐな返答が返ってきても、動揺なんてしない。ここに居たくないというのなら話は別だけれど、せっかくの訪問者をもてなしたいという気持ちもある。目の前に、小皿と箸を一膳置く。これくらいのわがまま、どうか許してほしい。

「聞こえなかったか」
「私一人でこんなに食べたら太ってしまうと思いませんか?」

「……」


飛影はやや乱雑に箸を掴むと、無言でそうめんを啜りはじめた。

「ありがとうございます、助かります」


□□□

「そういえば、飛影さんはどうしてこちらに?」

無視を決め込んでそうめんを啜る彼は不機嫌なようにも見える。ざるの上の小高さはもうずいぶんと姿形をかえていて、これが平らになったときには義理は果たしたとでも言うようにすぐにでも踵を返し行ってしまうのだろう。

「言いたくないことなら別に……」

話したいというのが動機だっただけに、声がきけないのは少し寂しくもある。自分はというと、箸を手にしてはいるが薬味にすら手も付けられないまま、伏せられた視線をうらめしく見つめているだけだ。彼は先ほどの強引な誘いに辟易しているのかもしれない。

「躯の奴に……罰ゲーム紛いの使いを頼まれた」
「え、罰ゲーム?」

交わされない視線になかば諦めを感じていたから、突然の返答に驚いてしまった。きょとんとした表情をとりつくろって、浮いた唇のまま答える。

「ああ、また手合わせで……ですか?」
「ああ」
「ふふ、ごめんなさい。ちょっと言い方が失礼でしたね。でも飛影さん、とても楽しそう」
「楽しそう、だと?」

いつもの勝敗を察して、彼の躯との日常が変わらぬままであることに安心した。トップに君臨する存在が変わって、常識も覆されて、魔界はきっと彼にとって生きにくい場所に姿を変えた。だけど、彼はいまでも生きる意味を見失わないでいる。その事実を支える存在がいてくれることに、ただただ感謝したいと思う。

「はい。毎日が充実しているようで良かったです」
「楽しいわけがあるか。煙鬼の野郎がくだらんルールを布いたせいで、毎日ワケのわからん仕事ばかりが続いていやがる。いい加減うんざりしてきたところだ」
「確かに、いつもと変わらない日常を確認するだけの仕事は、飛影さんの性に合わないような気がします」
「当たり前だ。躯の気紛れに付き合わされるだけ十分苛々しているというのに」
「躯さんは……強い方ですから」

飛影も、躯の強さは十分に認めている。悔しくはあったかもしれないが。罰ゲームの最中ということもあり、先刻の手合せが思い出されたのか、箸を動かす手を止めると、小さく舌打ちをした。

「あの性悪、俺をからかって楽しんでやがる。強さを手に入れて、1日でも早く、あいつを殺す」
「飛影さんなら、すぐに追いついてしまいそうですね。でも、躯さんを殺すのは、ちょっと難しいかもしれません」
「どうしてだ」

飛影の眼光が鋭くなる。私は彼にとって憎むべき対象でないにせよ、強さを否定する言葉には、彼は鈍感ではないはずだ。

「自分の方が強くなったとわかったら、とどめをさす前に、貴方はそれで納得して手を止めてしまうと思うんです」
「そんなに俺は甘くない。死をもって奴に力の差をわからせるだけだ」
「……そうかもしれませんね。あくまで、私の勝手な憶測です」

彼はそういう人だ。口では必ず冷酷なことを言ってのける。

「ただ、私は躯さんには死んで欲しいとは思いません」

気付けば、目の前の赤い目は先程までの鋭さを失っている。もともとの鋭さを差し引いても、いつもの不機嫌な顔と形容できる程度には。

「お前みたいな甘ったれには一生わからないだろうな」

それは、嘲るように言い放った冷たい一言だったかもしれない。ただ、そんな彼が呆れたような、穏やかな笑みを浮かべていたのはきっと見間違いなんかではなくて。

「ええ、多分、わからないと思います」

ちりん、風鈴が鳴いた。


□□□





「おそうめん、美味しかったですか?」
「………」
「お口に合いませんでしたか?」
「不味くはなかった」
「良かった。じゃあ、お茶でも淹れますね」

不安を覗かせた声には、きちんとこたえてくれる。妥協の末返答へのテンポを早めてくれたことがまた嬉しくてならない。

「いや、俺はもう帰る」
「冷たいのと、暖かいの、どちらがいいですか?」
「……」

ここまで私はひとに対して強情でいられただろうか。彼からもうひとこと、もう一言、と言葉を引き出したくて私はまた質問で繋ぎとめる。

「貴様は……俺がこんな暑苦しい日に熱いものを飲みたいなどと言うと思うか?」
「ふふ、そうですよね。暑い日だからか、頭がまわらなくて。すみません」

不本意でならないのだろう。彼はストレートでない言い方で手を打って、足を組み替えた。呆れ顔の彼に思わずにこりと笑いかけて、早足にキッチンへと戻る。

「はい、どうぞ」

透明なグラスにきいんと冷えた麦茶を注ぐ。ぱきぱきと鳴る氷の音がやけに耳に心地良い。グラスの中でからころと軽い音が鳴る。彼はグラスを乱雑に掴むと一気に飲み干してしまった。いよいよ帰りたいという気持ちははっきりと姿を現していて、心の中でそっと謝る。

「そうだ、躯さんのお使いって、なんだったんですか?」

再び躯の話題を持ちかけると、彼の不機嫌の色が強くなる。癖になった舌打ちで、音から何よりも早くそのこと悟った。

「至極、くだらない使いだ」

グラスを置いて、今度こそ、と立ち上がる。

「人間界原産の植物を取ってこいと」
「あっ、お帰りですね。今日は何度も引き留めてしまってごめんなさい」

彼はすぐに背中を向けた。悪態をつかれないことに気を良くして、必要以上に拘束してしまったことにほんの少し後悔する。

「だから、タンポポとかいう花を……幻海の敷地まで取りに来た」
「え、タンポポ?」

次の瞬間にはもう飛影の姿はなかった。

「飛影さん!また、いらしてくださいね!待ってますから!!」

また、屋敷にはひとり。涼やかな風鈴の音だけが残って、賑やかだった夏は過去のものなのだと強く思い知らされる。だけど。

「タンポポなんて、どこにだって咲いているじゃないですか」

幻海さんの敷地じゃなくたって、どこにだって咲いているのに。返事こそしてはくれなかったけれど、彼が彼の意志でここへ寄ってくれたのだとしたら。

「こんどは、もっと美味しいもの、作りますね」








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