調理時間にしておよそ一時間。作り置きのリメイクにしては随分時間がかかってしまった。左手が痛い。まるで運動不足の人間が突然日がな1日テニスをした後のような疲労感。鼻につく薬品の匂いがやけに忌々しく感じられた。
 右手に包帯をぐるぐると巻かれているこの状況は、三日前に私がアパートの階段から落ち、手首の骨にヒビを入れたことに端を発する。何をするにも効率が悪いのは仕方のないことだ。肝心の利き手が使えないのでは、簡単な作業すらもままならない。

 溜息を吐きつつ、利き腕ではない左手に鞭を打って調理台の上をせっせと片付ける。シンクにスープをこぼしながらもなんとか器に盛り付けた時、玄関のチャイムが鳴った。弾む小気味の良い音が、来客の訪問を私に告げる。
 これからまさに食べようというタイミングでの来訪者に思わず顔をしかめる。仕方ない。居留守を使うわけにもいかず出来立ての朝食をキッチンに留守番させて早足でリビングを駆けた。今は割合早い時間帯であるし、恐らく回覧板か何かだろう。直ぐに受け取れば、あたたかいリゾットにありつける。しかし、ドアホンを介して外を見ると、意外なことに、映っていたのはお隣の美人なお姉さんではなく、

「……マサキくん?どうしたんですか、こんな時間に」

 普段ハナダの岬に籠もりっきりか、そうでなければ仕事づめの彼が其処に立っていたのだ。多忙な筈の彼が。こんな時間に。私の部屋の前に。何の用で。私は思わず自分の目を疑った。

「朝方こっちに用事あって。サッサと片付く用やったし、その帰りで」
「へえ……なんか、珍しいですね。マサキくんが私の家に来るなんてこと、今までありましたっけ」
「あー……まあ、どやったかな、はは」
「何か御用事ですか」
「あ、イヤ、別に、言う程の用事があって来たわけやなくて。あれやろ、偶々、なんとなく、っちゅうか……」

 あからさまに態度のおかしくなる彼を見て、私の言葉はすこしだけトーンを落とす。素っ気ない言い方になってしまったけれど、こちらだって平静を装うので精一杯だ。妙に緊張してしまい、図らずも私の声は震えがちになる。しかし彼の返答は煮え切らないものであった。私は少しむっとして、抑えがちでいた口調を強めた。

「なんですか、それ。用件次第では、玄関を開けてさしあげられませんけど」
「あぁ、あかん、それは勘弁して欲しいわ!わかった、ちゃんと言うたります!」

 私が些か強引なことを言うと、彼は慌てて饒舌な弁解を始めた。前置きはいいですから、と率直に言えば、ぴたりと空気が新になる。堪忍な、と短い返事が返ってきた。

「あー、その……おとつい、に。友達からナマエはんが右手怪我したっちゅう話聞いたさかい。不便してへんかなぁ思て……お見舞い、来てみたんや」
「え」

 聞いた瞬間、ごっ、と鈍い音が響くと共に踵が痛み出す。途切れ途切れに聞いた答えはなんとも私の平常心をがたがた揺さぶるものだった。自分はいつもならばしないような詰まらないドジを踏んでしまったようだ。見下げた足下にはドアストッパー。ご丁寧にも角張ったパーツが皮膚にめり込んでいる。何に怒りをぶつけたらいいのかわからず一人悶えたが、結局は過剰に反応してしまった私が悪い。情けないが自業自得だ。彼がわたしの家まで来た理由が、私自身のこと?なんでまた、どうして。涙を滲ませながら、受け取った言葉を咀嚼する。幸い、向こうからこちらの様子を窺い知ることはできない。何故だか動揺し過ぎている自分を抑えるようにして、胸元の生地に爪を立てた。

「いきなり来てもうたし、余計なお節介かもしれへんけど……そないな理由じゃ、あかんかな」

 あかんかなって言われても……「あかん」と言えば、私はわざわざ早朝から訪れた彼を追い返すことになるわけで。いや、朝だし……いや朝だからでもあるんだけど……まずこのひと一体何時起きなの。

(なんで私が心配してんだ)

 突然の訪問者は、私の内にとんだ厄介な火種を持ち込んでしまったようだ。頭を抱えたくなる。見れば、モニター越しにでも彼が寒さに身を震わせているのがわかった。彼は、それきり言葉を言いあぐねたのか口元をバーバリーチェックのマフラーに埋めて、伸びた片腕をポケットに納めている。鞄を持つ手は見間違えでなければ赤くかじかんでいた。ああもう……こんな彼を外に立たせているのは誰!

「いま開けます」

 行きなさい、と他でもない自分が私に言った。







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付き合ってはいない




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