私のお皿に乗っている、玉子が破れていないオムライス。自分は食べられないくせに仕事の帰りに買って帰ってきたミルクプリン。夕食を用意してくれたというだけでだけで嬉しいのに、ここには私を喜ばせるものが並んでいる。それだけで、なんでもない日はたやすく特別に変えられてしまう。

 向かい側でエプロンをしたまま座っているのは私のお母さんではない。ケチャップの模様ではごまかしきれなかった穴あきオムライスを頬張っている、私の好きな人。
 私の好きな人は年上だ。一つ屋根の下で二人一緒に暮らして、おはよう。お帰り。そしておやすみの言葉を交わす日々。だけどこの日常は、恋人同士の同棲のような甘い雰囲気を纏ったものではない。

 私の好きな人は年上だ。私はもうすぐ16になる自分の足りない年齢を呪いのように思っている。もしも自分の母親と父親がもっと早くに出会っていたら。そして、自分がもっと早くに生まれていたら。今とは何か違っていたのだろうか。
 何度も何度も思い描いた、私たちが同世代として出会っていた場合の関係性。7年くらいの差といえば簡単なようだけど、高い高い壁がそこにある。現状、私は人生の大半をかけて想いを捧げてきた相手にも、ひとりの女性としては扱ってもらえないのだ。

 夕飯の片づけを終えて、少し水分が残ったままの手でマサキの服をちょいちょいとつまむ。これをするといつも人の服で手ぇ拭くなやって半笑いで怒られるけど、毎回やめられない楽しい茶番だ。
 笑いながら思う。同年代同士ならいちゃいちゃとしたじゃれあいになったのかもしれないけど、彼には構ってほしくて悪戯をしかけてくる妹みたいに見えているのだろうか。笑いすぎて滲んできた涙には別の理由が混ざっている。
 ひとしきりケタケタ笑った後、私はマサキの正面に座りこほんと咳払いをした。なにしろ今日はとびきり大事な話があるのだ。

「明日は私の誕生日です」
「ああ、わかっとるわかっとる。ケーキやな。タマムシの銘店でちゃんと予約したったわ。ナマエが前からアピールしてたチョコレートケーキ」
「違くて」
「何やプレゼントか。しゃあないな、明日には間に合わんかもしれんけどわいに任しとき」
「そうじゃなくて」
「なんやねん。ほんなら夕飯の味付けが濃すぎたんか」
「……今日もちゃんと美味しかったよ。そういうことでもなくて」

 もともとマサキの家とは家族ぐるみの付き合いがあった。私の両親は、現在遠く四季のない寒冷の地で年単位の仕事をしている。学習環境の変化や、激しく気候が異なる土地へ移住する負担を考慮して、私はここに残ることになった。十代前半の一人暮らしはさすがに現実的ではなく、それから2年と少しこの岬の小屋でお世話になっている。私がここに住まわせてもらっているのは、私が幼いころからあこがれのお兄ちゃんのマサキにべったりだったことも小さくない理由だ。
 自分の生活費や学費は親から預かった私名義の通帳から支払えて、近くには信頼できる大人がいる。一人前だなんてまだとても言えはしないけど、私は何もできない子供じゃない。マサキが保護者みたいになんでも自分だけでやろうとするので、家事を半分くらい奪い取ったりはしている。

「お願いがあるの」
「なんや改まって」

 マサキの行動には、私のためというのが割と透けて見えている。誕生日を当たり前に祝ってくれることも、我侭をすんなり聞き入れてくれることも、嬉しいことには変わりはない。
 だけどどれも、前提にしている関係が私の望むものとは違っている。自分がいくらマサキを好きでいても、むこうからしたら子供とその保護者か、良くてせいぜい兄妹の関係と変わりない。

「私と結婚して」

 真剣に言ったつもりだ。案の定とまでは言わないにしても、呆けた表情になったマサキに私のもどかしさはことさらに募った。私が頬を膨らませると、あきれたように溜息をつく。

「今日は何を言い出すかと思えば。あほちゃうか。自分幾つやと思てんねん」
「16歳!もう16歳だよ。ちゃんと結婚できる年齢だもん」
「まだ16やろ。だもんなんて言うてる子供がおかしなこと言うもんやない」
「いつも好きって言ってるくせに」
「そりゃナマエが言わんとしつこいからやろ」
「じゃあ言わなきゃいいじゃん。言うってことはそれなりに好きなんでしょ」
「好き言うても……あれや、家族みたいなもんやろ。冗談はもうええから、サッサと宿題終わらして早よ寝。サボったらプレゼントはあげられへんで」
「……」
「ジト目で見るなっちゅうの。まだ何かある?」
「冗談なんかじゃないし」

 家族。ぐさりとくる評価を突き付けられる。どんな表情でそんなことを言うのか、顔を見ることは到底できなかった。胸がチクチクする。真面目に取り合う気すら感じられない態度だ。
 子供と言われたばかりなのに、私はまた子供らしくばかと吐き捨て部屋まで逃げこんだ。

 積年の思いの末の発露とはいえ、いきなり結婚なんて確かに段階を無視した発言だった。
 だけどわかって欲しい。私はいつまでも子供のままじゃない。互いが良しとすればそういう関係にだってなれること。なにより私が、早く結婚へつづくような関係になりたいと切実に願っていること。
 長年続いた関係の在り方はそう簡単に変わらない。いつも安売りのように好き好きというせいでまともに取り合ってもらえないのだと思い至り、真面目に気持ちを伝えたことだって何度かある。だけど飄々と、時に真面目に、結局アプローチは受け流されてしまう。曖昧なようでくっきりと存在する境界線には、やはり高い高い壁がそびえ立っている。

「少しくらい、本気にしてくれたっていいのに」

 こっそりとリビングに戻ると、マサキは私の複雑な心中も知らずに広いソファの上で寝息をたてていた。唇を尖らせて声をかけても、反応は返ってこない。夕飯時のあくびは近頃日に日に増えていたように感じる。昨夜も遅くまで仕事だったのだろう。

「風邪ひいちゃうよ」

 少し心配になって、そばにあったブランケットをそっと掛ける。よほど疲れていたのか、人の気配があっても目を覚ます様子はない。ソファからはみ出す片脚。無造作に横たわった胸元が浅く上下している。暫くその様子を見ていたら、立ったまま無防備な寝姿を見つめるだけの自分が滑稽に思えてきた。漫画のようなお互いを意識しあいながらの共同生活なんて、うちとはまるで違う。こんなに近くにいるくせにそれらしいことが何ひとつ起こらないようじゃ、大概私も意識されていない。

 ソファの端っこに座る。二人ぶんの体重を受けたふかふかのソファ。魔が差したと言えばそれまでかもしれない。だけどもう何だか我慢がならなかった。私の想いを受け流しつづけたマサキが悪い。
 こんな言い訳ははっきり言って正当化だ。だけど構うものか。ただその保護者面を壊してやりたい。私の行動が、その凪いだ感情をかき乱すのが見たい。憎たらしいゆるんだ寝顔をしやがって。
 忌々しく開いた距離。こんなもの壊してやる。

 呼吸を感じられる近さまで来たというとき、たしなめられるような感覚があった。何が起こったのかよくわからなかったが、視界が反転してようやく状況を飲み込む。私はソファに背中をくっつけて、悪いことができないように肩を押さえつけられていた。

「ずるいよ。いつから起きてたの」
「ナマエこそ、寝込みにタチの悪い悪戯かまそうなんて根性が曲がっとるわ」
「茶化さないでよ」
「自分が何しようとしたか分かるか?」
「分かってる」
「分かってへんわ」
「分かってるよ。マサキだって、私が生半可な気持ちじゃないってわかってるはずだよ」

 衝動的な行動だったとはいえ、決心はまたも挫かれてしまった。重なり続けた事実が、私にうまく呼吸をできなくさせる。

「関係が壊れるのは嫌だよ。本当は毎日一緒に居られてすごく嬉しい。でも好きなんだもん。好きだからこそしたいと思うことをいけないことみたいに言わないでよ」
「ナマエ」

 制するように名前を呼ばれたって私はもう止まれない。好きなのか嫌いなのかどうでもいいのかはっきりしないし、感情的にだってなる。

「好きって言ってもいつも誤魔化されて、ずっと今みたいに恋愛対象として何とも思われてないまま、ただ側にいるだけなのはもう耐えられない」

 昔から大好きだったお兄ちゃん。早いうちからマサキマサキと生意気に呼び捨てして、家でも外でも構わずにくっついて歩いた。幼稚園のころから人目をはばからず恋人然としてみたり、本気さをアピールするために敢えてものわかり良く振舞ったりもした。
 私の地続きの感情はこれから先に向かっても伸び続けていて、これからももっともっと大好きになるつもりなのに。
 もうもとに戻れなくなったって構わない。元に戻ろうとしても、今までみたいにはきっともう笑えない。だから私は16年分の感情がこもった声で言う。

「お願い、今だけでいいから」

 マサキは眉をひそめた。そう。大事に扱ってくれなくたってかまわないから、私で衝動に流されるところを見せてよ。
 白い天井と蛍光灯が視界から遮られた。ピントが合わないくらい近くに顔がある。後頭部に手が添えられて息を呑んだ。まぶたをぎゅっと閉じる。

 期待したっていうとなんだかふしだらな女になったみたいで恥ずかしいけれど、そういう憧れは持っていたっておかしくないだろう。
 しかし、来るはずの衝撃は思ったところとは違う場所にあらわれた。おでこへのキス。そしてそれはついばむみたいに短く、簡単に離れていく。

「かさかさしてる」
「一番に言うことと違うやろ」
「……だって、思ってたのとなんか違ったんだもん」
「あほか」

 半分保護者のような立場での共同生活に必要な、日々の様々なこと。ただでさえ忙しい日常の中で、睡眠時間をはじめとした自分のケアは彼の中で優先順位が低くなっていることは私が一番よく知っている。マサキの唇が乾燥がちなことはあまり問題ではなかった。
 どちらかというと流れ的にこのまま襲われる的なものを半分期待していたので、こんなにあっさりと、しかもドロドロしていない感情を向けられただけの状況に拍子抜けしたのだ。

「そないな思いさせてるのは謝る。ほんまに堪忍な。せやけど機会やから言わしてもらうわ」

 改まった口調でわかる。これはきっと長年の問いかけに対する答えだ。軽口を返すことはやめて寝ぐせ付きの真面目な顔をじっと見つめた。

「まずわいは怒っとる。今だけでいいってなんやねん。どういうつもりで言うとんのか知らんけど、そないな自分を粗末に扱うようなことは言うたらあかん。そんなん言わしてんのがわいやから自分にもめちゃくちゃ腹立つけど……まずナマエなんかあったとしたらやな、ご両親に合わす顔がなくなんねん」

 怒られている。イエスとかノーとか白とか黒とか、恋愛対象だとかそうじゃないとか。そういったはっきりした言葉が返ってくるのかと思っていた。もっと複雑な、違うことみたいだ。マサキは切実そうに続ける。

「今のもなんか違うって思ったやろ。せやけどしてええことと悪いことの区別がつかなくなったらわいはナマエを預かる立場じゃ居れへんようなんねん」

 言っていることはなんとなくでしかわからなかったけど、そこには学校の先生が言うみたいな常識とか、ルールのようなものを感じた。わたしがあと何年か生きないと考えもしないようなしがらみの中に、彼は居るようだった。

「ああもう、しょうもない男やろ。本当はただなんも余計なこと考えへんでええように不自由なくさしたかっただけなんや。ちゅうかそもそもナマエにこんなこと言うべきやないし、こんな早く言うつもりやなかった」

 頭が追い付いていないという顔で見上げると、マサキは深呼吸するみたいにふーっと息を吐いた。

「わいは、ちゃんとナマエのこと好きや。もちろん家族愛とかやなくて、将来的に、きちんと対等に、すべき手順を踏んでから、ちゃんと……」
「あ、あの〜マサキさん」

 とつぜん嬉しい言葉が飛び出して頬が熱くなる。しどろもどろになりながら呼びかけるが、ぶつぶつと自問自答するような口調でマサキは眉間にしわを寄せた。私が当初思っていたのと違う方向性で、マサキの感情を波立たせてしまった。頭がこんがらがっているけど、もしかしたら、私が思い描いているような関係を、将来像として持ってくれてる……?

「ああもう言わすな。どう考えてもまだ早いねん。勘違いすなよ。それまで待ってろとか無責任なこと言われへんからな」
「そんなの、待てるよ!何年たってもマサキの事が好きに決まってるじゃん!」
「……嬉しいは嬉しいけどそん時におんなじこと言ってくれたら考えるわ」
「えぇ……」

 普段言われ慣れないようなことがちょいちょい口から漏れている。マサキは目の奥が痛い時のように目頭を押さえて天を仰いだ。

「ちゃんと分別つくようになったら正式に申し込むつもりでおるけど、先のことは誰もわからん。わいも歳はとるしそん時になったらナマエの考えで自分のしたいようにしたらええわ」
「ちなみになんだけど……将来的にって考えてるなら私は別に今それっぽい関係になってもいいんじゃないのかなーって」
「……わいの話ちゃんと聞いてたんか?」
「同意のもとなら年齢なんて関係なくない?」
「未成年に大の大人が同意もなんもあらへんわ」

 私の屁理屈に呆れ気味に返しつつも。マサキは何か考えているときのようなしぐさをする。何を言っても納得しないといった風の私に、わかりやすい言葉で言った。

「今は、ちゃんと大事にされといて」
「わ……わかった」

 な、なんだその破壊力のある言葉は。ものすごくにやけてしまいそうになって口元を覆った。さっき好きという言葉を聞けてとても嬉しかったのに、それを軽々と超えてくるなんて。
 マサキの方を見ても、もう目を合わせようとはしてくれない。たぶん言いながら段々恥ずかしくなったんだろう。
 彼に今すぐにどうこうというつもりはないらしい。やはり、理想と現実のあいだには高い高い壁がそびえ立っている。
 だけど、なにやら魅力的な将来像の一端を覗いてしまった気がする。ずーっと平行線のままだと思っていたけど、私が、正しく順当に大人になっていけば、その日はやってくると希望が持てる言葉だった。

 そうかあ。マサキは私を大事にしたいのか。単純かもしれないけど、なにやら言質をとったような気持ちになって私は満足してしまった。

 それから。間に合わない誕生日プレゼントの代わりは、私の希望で明日の午後私の外出に付き合ってもらうというものになった。
 このところ寝不足だったのは、明日の誕生日に一日時間を空けられるよう仕事を詰めていたからだったらしい。
 せっかくのお休みなんだから午前中はゆっくり寝てもらおう。私だってマサキを大切にしたいのだ。午後になったら一緒にお出かけして、それで楽しいことをしながらお腹が痛くなるくらい笑えたらいいな。





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