※レッドが普通に人里(?)に住んでる



 無機質な電子音で目を覚ました。重だるい体のままベッドから這い出す。リビングに向かうと、部屋に自分以外の姿は無く、白いカーテンの隙間から細く光が伸びていただけだった。ねぼけまなこの目がチカチカと騒がしく光る色を捉える。炊飯器のランプが任務完了を示して点滅していた。僕はやっと、毎日うすぼんやりと聞いたアラーム音の正体を知る。

 (おはようと名前を呼ぶ声の主はどこにもいない。)

 ソファの上の同居人は、一枚の紙切れと銀色の鍵とに姿を変えていた。拾い上げたメモ用紙には「残さず食べること」とだけ書いてある。なるほど、テーブルの反対側には箸を添えたカラの茶碗一式がひっくり返っていた。脇の白い小鉢には火を通したかどうかわからないたまごがおさまっている。テーブルに置いてくるりと回すと、乱れがちにゆったりと回った。彼女に教わった、ゆでたまごとなまたまごの見分け方。彼女が残すなと言ったものは、たまごかけごはんのことだった。

 いつも彼女が転がっていたそこには畳まれた毛布だけが取り残されていた。女の子をソファで寝かせてはいけない。聞きかじりのセオリーに従って、かつての自分も彼女にはベッドで体を休めるよう勧めた。僕はソファで目を閉じるつもりだった。半年くらい前のことだろうか。しかし彼女は断固としてソファの陣地を譲ろうとはしなかった。彼女は自分で気に入って、好んでそこを寝床とした。この家に居るあいだの大半をこのソファの上で過ごしていたかもしれない。ある意味ではここが彼女の住処であった。
普段は起きてそのままにしていることもあって、きれいに整えられた指定席は嫌に際立ってに見える。

 残さず食べること。それが、彼女が出掛ける時に必ず残していくいつもの書き置きなのか、考えるまでもなかった。もとあった位置に伏せたのが紙切れ一枚だったなら、欠伸を噛み殺さずに布団に戻っていただろう。今だって別段起きている意味はなかったが、さびしく置かれた鍵にうつる日光が眩しくて、ぬるま湯の布団に戻ることは阻まれた。鍵は家主のもとへ帰る意思を持って相変わらずそこにある。まどろみは光の中に溶けていった。

 炊飯器の蓋を開ける。起きたばかりの胃が食べ物を受け付けないということはわかっていた。炊飯器のスイッチを入れてここを去った手のことを思いながら釜の中身をかき混ぜる。僕は炊けて少し経ったあとに彼女がこうしていたのをよく見ていた。そうする意味は分からないけどそういうものなのだなと、ぼんやり眺めていたことを思い出す。見よう見真似でやってみたけど、加減がいまいちわからなくて、炊けてまもない米粒のいくつかは潰れてしまった。

 (きっと、そのうち慣れる)

 テーブルの平面にたまごをぶつける。力の加減は腕が覚えていて、丁度良いヒビが横に走った。なまたまごの割り方。ここ半年で随分上達したように思う。

 (それくらい、忙しかった。彼女はよく寝坊をした)

 真っ白な空間に割り入れたら、ぱきっとした黄色がふたつ滑りこんだ。黄身。ひとりで居るのに「きみ」。そして皮肉めいた現実を突き付ける双子の満月。テーブルの縁と平行にきちんと並べてあった箸を掴んでそれらと対峙する。ひゅるりとか細い湯気を立てる茶碗を置いて、あたためておいた昨日の残りの味噌汁と共に並べた。随分と多めに作るのだなと首をかしげた昨日、対する答えは今日をむかえる前に出ていたのかもしれない。だけど用意周到になりきれないところが彼女らしい、彼女が寝坊をした日に必ずといっていい程食卓に並ぶなまたまご。たまごかけごはんは彼女が朝寝坊をしていった証拠だった。

 (ふたつ並んだそれをすごいと言って覗き込んでくるひとはもう居ない)

 ぐしゃりと片方の黄身を割る。片方だけ。じんわりと黄色いベールが白の世界を覆いつくして、透明な媒介と混ざり合う。隣でそれを見つめるのはとり残された「黄身」。いや、この場合「ぼく」かもしれない。「きみ」だけど「ぼく」だ。

 清々しいのか、ただ単に空虚なだけなのか。僕はもともと自分の感情をこうだと定義する経験に乏しく、今感じているこれが何と言っていいものなのか、それはいまいちよくわからなかった。決めかねたといっても良いかもしれない。だけど不思議なことに、裏切られただとか恨めしいだとかそういう後ろ暗いような感情でないということはすんなりと理解している。何故だろう。わからない。

 テーブルの上の、白い皿の宇宙のなかの、なまたまご。彼女が今日ここで寝坊をしていった、ここに居たという確かな足跡。くっきりと思い出せるすがた。おかしな話だ。ベッドで眠るもうひとりが起きる前に出て行く余裕があったのなら、それは寝坊と呼ばないのに。たとえ簡素であったとしても、最後の日まで律儀に食卓をつくりあげていったひと。今日は日曜日。彼女の仕事は休みであるから、彼女の寝坊を定義したのは「ぼく」だ。今までには無い。最後らしいかもしれない。

 (これからしばらく、たまごかけごはんは、)

 茶碗の中身はとっくに冷めてしまっている。表層のつやは細い湯気を上げていたころの面影を残さず、さびれたように硬化していた。焦りを感じたわけではない。が、黄色く光る箸の先で、傍らの黄身もぐしゃりと潰す。ひろがっていく色味。じんわりと。ふたつあったという事実は、もう誰にも確かめられない。

 残さず食べること。ただそのひとこと。罵倒も恨み言もなく、喜びや悲しみ、怒りといったごく抽象的な感情さえ読みとることはできなかった。

 茶碗に滑らせて、かき混ぜて。食べてしまった。味噌汁も飲んだ。空っぽだ。何故だろう。よくわからない。




彼女はいつも通りに朝餉を拵えて出て行き、それきり戻ることはなかった。

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