背伸びをしても届かないのは、おつむと身長、あとは棚の上のボウルだけ。あの日の私が憧れた、隣の彼との関係の在り方。

 歳の差というハンデをきちんと覚悟して、この左胸を温め続けてきたつもりだ。だけど、過ごした日々が重なる度に、彼との差異に気付く度に、私の心臓はちくちくと音をたてる。他にも沢山背伸びしなくちゃいけないのはわかっていたけど、できるだけ隣を歩きたいと思うのはわがままなことなのかな。

 彼の家に遊びに来るようになったのは、ちょうどこんな思いを抱えていた頃だった。彼との隙間を埋めたい私は彼の味覚を真似て、暗く深い色をたたえたブラックの珈琲を口にした。じわじわと舌に広がる不快感を押さえつけながら「美味しい」と柔らかい笑顔を作る。私は彼にはじめての嘘をついた。

 彼が姿を消したキッチンから香ばしい香りが漂ってくる。産地も豆の種類もよく知らないのに、他とは違うものだと分かってしまう自分に驚いた。ただ、それが喜ばしいことなのかどうかは正直わからない。最近では我慢することに慣れたそれも、結局苦手なことには変わりなかったから。

 香りの出どころ、悪魔の嗜好品をドリップしているのは、近頃飲む専門になりつつあったマサキさんだ。珍しいことに、私は彼の制止を受けて大人しくソファに沈んでいる。彼は私がここへ来るなりパソコンの電源を落とすと、あっさりとその重い腰を上げた。

「今日はわいがやるわ、座っとき」

 出だしから数少ない仕事を奪われてしまった私の指先は、揃いのマグカップを用意することもない。ケトルのお湯に触れる心配もない。手持ち無沙汰が落ち着かないだなんて、なんて贅沢な悩みだろう。マサキさん、今日の仕事はもう終わりなのかな。もしかしたら、今日はゆっくりできる日なのかもしれない。普段と異なるキッチンの風景に胸を踊らせて、私はたっぷりと息をはく。また空気を吸い込んでも甘い匂いを拾えないのがいかにも彼の家らしく、つまらないのにそれがおかしいとも思った。手ぶらの両手で膝をぽかぽか叩きながら、漂流してくる香りを拾いあつめる。それはもう、鼻歌でもうたいだしそうな調子で。珈琲の苦味も忘れてふくらませた期待の風船がはじけてしまうだなんて思いもせずに。

「……なんや、冷めてまうで」

 不機嫌そうな声ががちりとかたまった私をさらに追いつめるものだから、伸ばしかけた手を膝に再び戻してしまった。カップの隣には、ポーションミルクと山盛りの角砂糖。マサキさん用のカップには、見慣れた黒色がおさまっていて、私の背筋をひんやりとしたものが這う。浮かれきっていた気持ちは喉のおくで渦巻いて、肝心の頭には、どうしてとか、どうしようとか、頼りない言葉ばかりが浮かんでは消える。わざわざ向かい側の一人掛けソファを選んで座ったマサキさんは、いまだコーヒーに手をつけようともしない。普段はやさしげな一対の瞳が、逃げ場を失って固まる私を改まった様子で見つめている。手は膝に置かれたまま、ぴくりともうごく気配はない。

「甘いほうが好きなんやろ」

 ゆっくりと唇がひらいて、私は一番に恐れていた言葉を聞いてしまう。私はろくに反論をすることもできず、見透かされていた気持ちを誤魔化すように視線を逸らした。くだらない虚勢でマサキさんを騙した罪悪感が重くのしかかる。

「何で嘘ついたんや」
「そ、れは」
「無理してわいに合わせとったんやな」
「そういうわけじゃ……ないけど」
「けど?」
「だって、コーヒーも飲めないなんて、子供っぽいって思うでしょ……?」

 口ごもる自分が段々とみじめに思えてきて、言い切るのを待たずに声は空気へ溶けてしまう。最後のほうは、聞こえたか聞こえていないかすら微妙なところ。空気のうすい沈黙のなかで、このまま私は窒息してしまうのかもしれない。やがて深いため息の音が聞こえ、体じゅうが神経になる。向かい側の彼が徐ろに立ち上がり、私のいる二人掛けのソファが波打った。
 頬を両側から挟まれて、私は間抜けな顔をマサキさんに晒す。やめてよぉと気の抜けた声が出たけど効果はなく、悪戯っぽく笑われるだけだった。

「今のでチャラにしたるわ」

 ぷにぷにと押された頬へ手を伸ばしかけ、それもたやすく捕まってしまう。そのまま引力にしたがって崩れ落ちると、上半身はマサキさんの膝に着地した。空いたほうの手が、私の頭をぐしゃりと不器用に撫でる。じたばた暴れることで誤魔化してみたけれど、もらった頬の痛みも直ぐに忘れてしまう私は、まぎれもなく単純な子供そのものだ。

「なんか、子供扱いされてるみたい」
「嫌なんやったらやめる。嫌か?」
「ううん全然」

 当たり前のように言って、すでに力の抜けていた肩を余計にゆるませる。手のひらの大きさの分だけ伝わってくるあたたかさがひどく心地良い。

「ナマエ、もう嘘はあかんで」
「うん、ごめん」
「ナマエにむりやり嫌いなもん押し付けとった思たら冷や汗かいたわ。わいに気遣ってあんま無理せんといて」
「うん……ブラックはもうのみたくないかな」
「どあほ。頼んだって出したらんわ」

 ようやく本音を伝えれば、怒声が降る。先ほどのはずかしめを思い出して私は思わず身を縮めた。だけど頭に置かれた手のやさしさは変わることなんてなくて、あらためて彼のなかに「大人」を感じてしまう。くやしいから頬を思いきり膨らませてみようかとも思ったけれど、それは叶わないままじわりと頬に熱がともる。

「ねえ、私まだまだ子供だよ」
「お前が何に不安になっとんのかは知らんけどな、そんなん気にしたって腹が減るだけや。お前はお前らしくいつも通りボケっとしてたらええねん」
「そうかなあ」

 頭に感じるゆるやかな感触を享受しながら、やっぱり子供扱いされてるよなあ、とひっそり思った。そのままでいいよと言われているみたいで変な気持ちになってしまったことももちろん左の奥底に仕舞う。
 だから、見上げた視線の先にそれが伝わってしまったのかは定かではない。あごの下に手が添えられたのは彼なりの返事なのか、それは彼だけが知っている。気付いたら、視界が彼で満たされて呼吸が少しだけ苦しくなっていた。
 目をひらいたままの私は、揺れるまつげだとかほんの少しだけ下がる眉尻だとかをばっちり見てしまって無性に恥ずかしくなったのだけれど、彼にこんなことをさせているのが私なんだと思ったら、大人とか、子供とか、そんなのはもうどうでも良くなっていた。




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