幼いころの常識、小さい箱庭の「世界」にあたるものは家庭環境に大きく左右されるという。

 私の古い記憶を辿ってみたとき、やれキャンプだの、庭でバーベキューだの、鶴の一声で開催される家庭でのイベントごとにお隣さん一家が居なかった記憶がない。
 うちの両親が共働きだったということもあり、夕飯をご馳走になることだって少なくなかった。私にとって馴染みのあるお味噌汁の味はひとつだけではないのだ。
 親同士の気が合うならば子供同士もそうであろうというような同調圧を感じなくもなかったが、お隣には自分と同い年の息子が居て、親が夜勤だと夕方を過ぎても遊べる!なんて暢気なことを考えていたものだった。

 そんな幼少期を過ごしたこともあって、私にとっての小さな世界には、当たり前のようにマサキが居座っている。

 私の知るマサキは、人に対しての壁がまったくないやつだ。私はどちらかというと大人しく人見知りの激しい子どもだったが、初対面であることをものともせず壁のこちら側へするりと入り込んで来て、あっという間に調子を狂わされてしまった。はじめまして。よろしくなんて言葉は必要なく、昨日も一緒に遊んだ友達みたいに当たり前に話しかけてくるのがマサキだった。

 それはポケモンに対しても大きく変わることはなかった。それまで人間以外の生き物が怖かった私がポケモンと暮らすようになったのは、彼の影響が大きい。マサキはバトルが苦手な代わりにポケモンについてとても詳しく、ポケモンが何を好み何を苦手とするかなど色々とよく教えてくれた。興味津々に近づく割に扱いが上手いわけではなかったので野生の子を誤って怒らせてコブを作ったり髪の毛を焦がしていることもあったが、彼がポケモンを大好きなのは誰から見ても明白だった。彼が連れていたケーシイはそれを裏付けるように緊張感のない表情をしていて、パートナーに似るもんだなと思ったし心を許しているのもよくわかった。ポケモンとの信頼関係がトレーナーとしての旅やバトルを通して築かれるものだと思い込んでいた私にとって、それは新しい発見だった。
 それまでの私が知るポケモンは、種族の差というものはあっても同じ種類のポケモンには違いなく、横一列に並んでくれたとしてもそれぞれの違いなんて全くわかるものではなかった。だけどよくよく見ると顔つきも性格も、毛並みや羽の手触りも微妙に違うのだ。マサキと過ごす中で一匹一匹によって好きな味も違い個性があるということを知り、ポケモンはやがて私にとって恐怖の対象ではなくなっていた。
 家の裏手の小屋に迷い込んだコラッタを怖がらせずに済んだのも、仲を深めて家族になれたのも、こういう風に幼少期を過ごして来られたからだと思っている。

 そんな性格だからか、マサキと一緒に外に遊びに出かけると街の人から声をかけられることはしょっちゅうだった。庭に成ったきのみや果物のおすそ分けをたくさん持たされて、腕がちぎれそうになる前に袋を交代で持ちながらポケモンの住処へこっそり向かったりもした。大げさに言うと誰にでも知られていて、こんなふうにたくさんの人に親切にしてもらえるマサキが羨ましいなと思っていた。だけど私はそのときからすでに、周りから見てもマサキといつも一緒に居るナマエだったので、同じように街の人から名前を覚えられ、あたたかく迎え入れてもらっていた。

 わたしたちが成長するにつれて、マサキのこれは世話を焼かれやすい体質ではないかと認識を新たにするようになった。昔きのみや果物だったおすそ分けはお弁当やお惣菜、栄養ドリンクなどの差し入れに代わり、マサキが職場で忙しそうにしていると周りの人が気を利かせてほかのことをやってくれているということも少なくない。人望があり、役に立ちたいと人に思わせる魅力があるのは一種の才能だと思う。

 ふつう人より何か優れていたりすると、なにかとやっかまれたり人間関係の面倒ごとは切り離せないようにも思うが、私はマサキのことをずるいとか嫌いだとかいう人には会ったことがない。この人にはかなわない、すごいと思わせる側面と、この人には周りの助けがなきゃダメだと思わせる側面のバランスがちょうどいいのかもしれない。

 わからなくもない。漠然とすごいなあと思うことは多かったけど同じくらいしょうがないやつだなあと呆れたことも多かった。私もなんだかんだ言いながらマサキのことを気にかけてしまう一人だった。


▲▽


 ピンポーン。

 行かなくちゃという義務感と、行きたくないという本音が喧嘩している。そんな気持ちを抱えて訪ねたのは、ハナダシティから少し歩いた所にある岬の小屋だ。強引に与えられた合い鍵は私の家の鍵と同じキーケースの中に収納されている。
 左手には、彼の母親から手渡された風呂敷包み。最近順調な仕事とは裏腹に、溜め息が出るほど気の進まない用事だ。家の鍵を任せるほど信用してもらえていることはありがたいが、その場の了解をとらず家に踏み入れるのは「身内」という感覚が強くてなんだか居心地が悪い。

 私の勤務先はヤマブキシティにあって、寄り道程度に足を延ばせばハナダにも気軽に来られるくらいの距離感だ。
 私は郵便局員の類ではないけれど、手紙の代わりにタッパーに詰められたおかずを届ける文通のような親子のやり取りを繋いでいる。嫌なら嫌といえばいいものを、断ることができない私は小心者だ。出がけに持たされた愛情たっぷりの手作りおかずの包みが、重量以上に重たいと感じてしまっているのに。

 マサキはポケモンのあずかりシステム開発者として一躍有名人になった。私は一方で普通の会社員をやっている。成長していくにつれて私の幼く小さかった世界は広がっていった。でもその代わりに、その世界は永遠ではなく、常識だったものはいくつも常識ではないということがわかってしまった。もとからそうだったかすら定かではないけど、私はマサキの世界の大部分を占めるような人間ではもうないということをきちんと自覚できている。
 10代も中ごろという頃になると、一緒に居ても自然な振る舞い方がわからなくなり、外でもなんとなく鉢合わせになるのが気まずくて、マサキを見かけるとわざと遠回りをすることが増えた。幼馴染という肩書きのように残るものはあっても、ここに来ることが一種の苦痛に変わるほど私の考え方や感じ方は変わってしまったのだ。

 ピンポーン。二度目の玄関のチャイムを押しても、家主の応答はない。

 心がけていることがあるとすれば、さっさと用事を済ませて家に帰ること。必要のないインターホンを鳴らしてしまうのは、留守を確認して安心したかったからだ。ほっと胸をなでおろし鍵を開けようとするが、なぜかドアノブは引っかかることなく回ってしまう。
 
 まさか家に居るのだろうか。胃の中にどっしりと鉛のような重みがのしかかる。呼び出し音に何も反応はなかったけれど、鍵をかけ忘れてどこかへ出かけたとも考えにくい。

「おじゃまします。マサキ……居るの?」

 そろりと足を踏み入れると、パソコンの側に置かれたコーヒータンブラーが湯気を立てているのが見える。なのに真っ直ぐ伸びた白い廊下を抜けても、デスクに向かう後ろ姿は見当たらない。

「わっ!」
「えっ!?」

 一瞬何が起こったかわからなかった。物陰から出てきたマサキにおどろかすを使われ心臓がばっくんと跳ね持っていた荷物をまるごと床に落としてしまった。ああもう本当にやめて欲しい。中にお使いの品が入ってるのに。

「相変わらずええ反応するやん。ピンポンの押し方がナマエや思て、びっくりさせたろ思って」
「違う人だったらどうするのよ」
「いや間違わへんやろ。ちゅうか今見たら目の下クマできてはるな。夜更かしせんと早よ寝な、寝不足やでそれ」
「えっと……」

 物心ついた時から隣の家に妙になれなれしい子供がいて、遊ぶのにもお互いの家に行くのにも親の許可なんかいちいちとらなかった。お互いのことは知り尽くしていて、マサキの世界にも私がいるのが当たり前だと思い込んでいた。それが今ではちょっとした会話にさえぎこちなさがあってとても不自然だ。

「昨日はちょっと眠れなかっただけ」
「あぁわかるで、わいの事考えたら胸がいっぱいで夜も眠れないっちゅうことやな」
「……」

 ハナダに寄ることが決まっている日は朝起きるのがいやになる。マサキと顔を合わせるかもしれないからだ。会って話しても、聞き上手にもなれないし、うまい返しも思いつかない。この空気が居心地良いと思えなくて罪悪感に駆られてしまうのだ。
 やっぱり、さっさと帰ろう。私は何も気の利いたことが言えず曖昧な笑みを浮かべてお茶を濁した。前回持ってきた空のタッパーを回収して、新しいものを置いていく。さっき容器ごと落としてしまったけど、中身には支障はないようだ。今日のお惣菜が煮物で良かった。

「どれどれ……おっ、タケノコの煮物か」
「たまにはおばさんに電話しなよ」
「せやなぁ、ろくに連絡もせんとおかんには頭上がらんわ。もちろんナマエにもやで。おおきにな」
「……どういたしまして」

 癖みたいなものでちょっとお節介なことを言ってしまったなと少し後悔する。私達は、むかしはどこへ行くにもいつも一緒の二人組だった。だけど今は、「かつてそうだった」だけの二人に落ち着いている。知り合いや友達と呼ぶには少し素っ気ない、ただの幼馴染だ。

「なぁナマエ、折角来たんやからちょっとくらいゆっくりしていかへんか」

 だから、不意に掴まれた手首に体がびくりと跳ねるのは致し方ない。そそくさと帰ろうとしていたのを見透かされたような気がして嫌な汗がにじんだ。

「えっと、私、早く帰らなきゃ」

 提案は詰めるような言い方ではなかったけれど、帰りたいという意思表示は情けないほど掠れた声になってしまった。だってこの状況は私たちの距離感とはどう考えても乖離している。掴まれた手首がただただ、熱い。

「ナマエは早く帰りたいん?」
「コガネまでは遠いし」
「そらそやけど……そもそもジョウトからわざわざカントーの職場通うて、大変やないんか」
「楽、ではないよ。でも自分なりにいろいろと考えてる」
「せやったら、わいのとこ来たらええやん」

 手首に少しだけ力が込められた気がした。小さな頃は手を繋いでもなんとも思わなかったはずなのに、月日を経て大きさを増した手のひらも、私の手首を易々と包む長く伸びた指も、私は知らない。目の前にいるのは自分がよく知っている人物なのに、まるで知らない人のように感じる。だってもう昔のようには戻れない。関係を断つことまで踏み切れていないけど、望んで同じ空間にいるような関係ではもう、ない。

「何が?」
「せやからここに住んだらええやろって、提案しとんねん」

 逃げ道をなくすようなことを言われて私は思わずたじろいだ。頭が追い付かないふりをしてとぼけることも、聞こえなかったふりをすることも叶わない。頭の中で警報が鳴っている。何を言ってるんだろう。どうせいつもの軽口だとわかっていても、マサキの視線は私をとらえたまま離さない。

「やだな……冗談言わないでよ!」

 今だって数分の用事のためにこんなに神経をすり減らしているのに、ずっと同じ家になんていられるわけがない。感情がおかしくなって生き方がわからなくなってしまう。私はぶっきらぼうにならないようにだけ気を付けて腕をふりほどいた。離された手首に十分な血が通うのを感じてひどく安心する。

「いや冗談て……」
「ごめん急いでるから。バイバイ」

 尻すぼみになる言葉には聞こえないふりをして、床に置いていた鞄を抱え家を出た。頭の中がぐちゃぐちゃだ。耳に残るものを掻き消すように走り出し、帰りのリニアに転がるように乗り込む。座席にしなだれかかるとどっと汗が噴き出してくるのに、体は芯まで氷のように冷たかった。非現実的な勢いで移ろいゆく景色のなか、捕らえられた左手首は未だに震えている。
 
 何でもない。びっくりした、ただそれだけ。



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