みしり、みしり。音を立てないようにと思えば思うほど階段の床は高く鳴き声を上げます。細心の注意を払い、爪先立って木板のふちを歩きましたが、板を支える柱のひとつひとつまでがそんな私をきしりと嘲笑うばかりです。
 もう、静かにしていて欲しいのに!
 ようやく二階へと辿り着いて、早朝に隙間を開けておいた空間へ身体を滑りこませました。ガチャリとうるさい音を立てるドアノブも、こうしておけばすっかり大人しいものです。
 ここまで来ても抜かりなく、爪先立ちは忘れずに。ベッドにそろりと忍び寄って、ゆっくりとひざまづいて。そっと、すこやかな呼吸を続ける彼に目線を合わせました。
 布団からはみ出した頭は静かに寝息をたてて、上下する毛布は彼がここで生きているという証。伏せられた長いまつげをもう少し見ていたいというわがままはエプロンのポケットに仕舞い込んで、眠る彼の肩を小さく揺らします。

「マサキくん、朝ですよ。起きてください」

 言って、こくりと息を呑みました。目的はもちろん彼を起こすことです。だけど彼を起こさないようにとここまで注意を払ってきた理由。
 それは、彼が目を覚ます瞬間をこの目に焼き付けたいがため。
 そして――
 瞼がぴくりと動いて、睫毛が日の光に染められました。緩慢な動きで目をひらいて、寝ぼけた瞳は私を一番最初に映し出します。手を伸ばせば、頬にも届いてしまうのではないでしょうか。
 ――彼が目を覚ますと同時に、私をその目に焼き付けてもらいたいがため。

「おはようさん、ナマエはん」

 寝起き独特のふにゃりとした声が、甘く心をくすぐります。目の前の私を認識して、彼の口元が緩やかにカーブを描きました。この距離感。私がとてつもない幸せ者なんだということを実感する瞬間。もぞもぞと掛け布団が動いて、布の皺を肌に刻み込んだ腕がするりと私の頬へ伸ばされます。

「わいは幸せもんやなあ……」
「どうしてですか?」
「目ぇ開けたらな、毎朝ナマエはんがおるんやで?眠る前かて、朝が楽しみで、仕方あらへん。こないな嬉しいこと他にあるやろか。なあ、そう思わん?」
「私はマサキくんを起こす側ですから、それはわからないですけど……」

 そう言いながらも、彼がはにかんで紡ぐ言葉たちにどうしようもなく嬉しさが込み上げてしまいます。それと同時に、軽やかに走り出す心臓。ああ、早く下に降りてテーブルに朝食を並べなくてはいけないのに。私の頬に到達した手のひらがあたたかくて、仕舞い込んだはずの気持ちがエプロンからこぼれてしまいます。

「でも、私は……マサキくんの目が、私を一番最初に映してくれるのが嬉しくて、幸せです。あと、マサキくんがこうやって笑ってくれるのも」
「ほんま?ほんまに?わいも、ナマエはんもおんなじやな」

 マサキくんがふんわり笑うから、私は目眩がしてしまうのです。良かった。どうやら私もマサキくんも、同じように幸せらしいということがわかりました。私にとっても、これ以上のことはありません。

「はい、そうかもしれません。マサキくんの手は、あたたかいです」
「起きたばっかやからな。ナマエはんは少し冷たいわ」

 少しの会話が覚醒を促したのか、マサキくんの口調はいつもの饒舌さを取り戻しています。

「今日は朝から寒いみたいですよ。今日は遠出なのでしょう?ちゃんと上着も着ていってくださいね」
「冷えるんか。起きたないなぁ……」
「それは駄目、です!職場の皆さんに迷惑がかかってしまいます!」
「なはは、ナマエはんには適わんわ……しゃあないな、ほい」
「え?」

 頬から離れていった熱に少し寂しいなんて感情を抱いたのも束の間、今度は彼の両の腕が私に向かって伸ばされたではありませんか。私はマサキくんの突然の行動に、もちろんのこと首をかしげました。

「ナマエはんが引っ張ってぇな、せやったらわいも起きれるで」
「もう……!マサキくんったら」

 悪戯っぽく笑われてしまったら、私にはその言葉に逆らうなんて選択肢、残されていないも同然です。立ち上がって言われた通りにマサキくんの腕を引っ張ります。だけど、マサキくんは本当に起きる気があるのでしょうか。引っ張っても引っ張っても、ちっとも動く気配がありません。
 軽く肩で息をしながら彼をじとりと見つめると、突然視界がくるりと反転しました。ななな、なんということでしょう。マサキくんが起き上がるどころか、私がマサキくんのベッドに転がる羽目になってしまったのです。履いていたルームシューズが片方だけ脱げて、私はとても不恰好ないでたちです。それから、気づけばマサキくんの身体の上に着地しているようでした。起きたばかりのマサキくんに、馬乗りになるようなこの姿勢は随分こたえてしまうはずです。仮にも仕事で疲れている彼を案じる私は、その瞬間に先程までの怒りも忘れてさあっと青ざめました。

「マサキくん!大丈夫ですか!?」
「やってもうたわぁ」

 少し咳込んでいるようですが、別段苦しそうな様子は見受けられません。私は胸をなで下ろしました。むしろへらりと笑うマサキくんは、どちらかと言えば嬉しそうな表情です。

「もう、いい加減に起きてください。支度をする時間がなくなってしまいますよ」
「かんにんな。ナマエはんがあんまり可愛いもんやから。つい魔が差してもうたわ」
「もう!朝ごはんが冷めてしまいます!私は先に降りてますからマサキくんも早く降りてきてくださいね!」

 ぼっと顔じゅうに火がともったのがわかります。真っ赤な顔を見られていると思うと私はいてもたっても居られず、ベッドから降りると、身を翻して部屋をあとにしました。
 朝からマサキくんはとても心臓に悪いことばかり言ってきます。困ったものです。はふうと妙に熱いため息を吐いて、私は食卓に朝食を並べます。階段を下りる音が近付いてきて、思わず私は顔を上げました。いそがしいはずなのにすっかり手が止まっています。そこで、はっと気付いたのです。
 おやまあ。私も人のことを言えたものではありません。眠い目をこすりながら階段を降りてくるマサキくんを見るのも、どうやら私の楽しみのひとつのようです。それもこれも彼の悪戯さえも、私にとってはかけがえのない朝の風景だということです。さっき気付いたばかりではありませんか。わたしも結局、マサキくんと同じなのです。

 なんだかんだと言っておきながら、私の生活はやっぱり彼を中心に廻っているようです。彼の一挙手一投足、私の幸せの一部です。証拠に、私は彼の悪戯のあと、少しも嫌な気分になっていません。ずいぶんとふやけた考えかたかもしれませんが、結局わたしはマサキくんが居ればそれでいいのだと思います。欠伸ひとつ零したマサキくんを定位置に座らせて、おだやかな朝の空気のなか、私は朝食と一緒に幸せを噛みしめるのでした。




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