納得いかなかった。「仕事が思いの他早く片付いた」とシンプルな文字の並ぶメールを見てヤマブキからここまで飛んできたのはいい。彼がソファに身を預け、ゆったりと寛いでいるのもいい。彼はいつも仕事で疲れている。ただ、コートの下の肌が少し汗ばむくらい急いで来たのだ。一秒でも早く、私は彼に会いたかった。

「ナマエ、よう来たな。わいもう待ちくたびれてもうたわ」
「これでも急いで来たほう!」

 彼の膝上をイーブイが乗っ取ってさえいなければ、なにも問題なかったのに。


チョコレートブラウンの午後


 コーヒーが飲めない私のために買い置きしてあったココアを二人ぶん淹れ、テーブルにマグカップを並べた。しかし彼はあたたかな香りを立てるカップには目もくれず、膝上のイーブイをめちゃくちゃに甘やかすばかり。ふわふわのこの子が可愛いのはわかるけど、わざわざ私を呼びつけた目の前で可愛がらなくたって。

 ほとんど手をつけられないまま熱を失うであろう彼のカップに少し同情して、私は手の中のココアを喉に染み込ませた。甘い香りとその安心する温度は、普段ならば飲む人の心を芯まであたためてくれる。だけど今の私は、目の前の二人(正しくは一人と一匹)がいちゃつくのを目の当たりにしながら一人掛けのソファに三角座りしているだけ。こんな寂しい状況じゃ、たとえ体は温まってもきっと心は冷えたままだ。

 もう少し早くここに来れていたなら、彼は関心を私に向けてくれていただろうか。待ちくたびれたと零した彼は、きっと私が来るまで退屈していたのだろう。そう思うと、私の代わりに彼の癒やしとなってくれていたイーブイにはむしろ感謝するべきなのかもしれない。

 しかし同時にこうも思ってしまう私は、きっと相当な我が儘だと言えるんだろう。時折上げる可愛らしい鳴き声が、私が待ち望んだ腕に包まれる毛並みが、こんなにもねたましい。これが見当違いな嫉妬だとわかっていても、感じてしまうのだからしょうがない。

 口に含んだ甘いココアはどこかほんのりと苦みを帯びている。今までそんな風に思ったことはなかったのに、目の前の光景を見続ける気分にはなれそうもなく、苦し紛れに舌先に通わせた神経がカカオの僅かな苦味さえ拾い上げてしまうのだ。

 寂しいだなんて簡単に言えるほど幼くもない。イーブイばかり構わないでと言えるような素直さもない。

 共有したい体温は腕の中の毛並みに持っていかれるばかりで、悔しくなった私は口をとがらせた。大好きな筈のココアの温度も、今は私の空白を満たすことはできない。

 マサキのあほと空気だけで呟けば、私のココアに溶け込んで益々苦味を増していった。苦味の正体は、カカオなんかじゃなくて私の気持ちだったのかもしれない。一口、もう一口と含んでは、甘くほろ苦い波が広がっていくのを感じた。あ、やばい。そう思った瞬間に私は立ち上がり、マグカップを握り締めてソファから離れる。彼を背にした途端に涙がぼろりとこぼれ、私はキッチンまで早足でかけこんだ。

「うう……」

 手の甲でぬぐうと涙自体はすぐに引っ込んでくれたけど、私が不自然にリビングを後にしてしまったことに変わりはない。それに、またあの二人の仲の良さを見せつけられるかと思うと進んで戻る気になんてなれなかった。私が来た意味ってあったんだろうか。このまま帰ったとしても、ともすれば気付かれないことだってあり得るのに。

「マサキのあほ」

 もう一度、今度は音を伴って呟いた恨みごと。キッチンのシンクに反響し再び私の耳に届く。面と向かって言えたら良かったのになあ。悲しいけど、これは自分ひとりのキャッチボールだ。

「誰があほやねん」

 予想外の応答に振り返る間もなく、背中からぎゅうと抱きすくめられた。それが誰の腕かなんて意味のないことを考える隙も与えられないまま、彼のあたたかさに包まれる。「今の聞いてたで」とちょっと申し訳なさそうに彼は言う。しかし、寂しかったかとストレートに訊かれれても、素直に首肯することを知らない私はただ押し黙るしかなかった。

「堪忍な。わいも調子乗りすぎてたわ」

 それでも彼は、いつだって私の沈黙の意味を知っている。私が素直になりきれない原因は、こうして全てを読み取ってしまう彼にもあるのだろう。実際そうした誤算も、今の私達には都合が良かった。

「イーブイが可哀想だよ。広いソファに置いてけぼりにされて」

 私のつまらない強がりは単なる虚勢に過ぎないということも、彼は既に知り尽くしている。だから彼は小さく笑ってこう続けるのだ。

「イーブイはとっくにボールの中や。ナマエは、こっち」

 ようやく両腕から解放されたかと思えば、リビングまで引っ張って行かれ、私は二人掛けのソファの上で再び自由を失う。ちょっと強引な動作にも不思議と嫌な感じはしなかった。

「ナマエええ匂い。ココアの匂いする」
「飲んでたからね」
「わいも飲みたなったわぁ」
「もう、さっき淹れたげたのに……今淹れ直す?」
「野暮なこと言わんといて、言うてみただけやん。あとで頼むわ」

 身動きできない私の耳に、彼が額を寄せた。あたたかくて、安心する。やっぱり私には全身で受け止める体温が丁度良い。じんわりと伝わる熱が彼と私とを循環していって、一人で埋めることのできなかった空白は余すことなく満たされていく。

 君が私を離すまで、君の言う「あとで」が来ることはないだろう。無論、その前に痺れを切らしたとしても、離してもらう気なんてさらさらないけど。だけど君がイーブイよりもずっと私を甘やかしてくれたなら、その時はココアが香る口づけをあげよう。

 穏やかな午後、ココアが香る昼下がり。チョコレートブラウンの尾はボールの中。ふわふわの君は、しばらくの間おやすみ。




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