※学パロ






 ホームルームを終えた教室からは次第に賑わいが消えていく。夏休み明けのこの時期は新人戦やらコンクールやらで部活を問わずどこも忙しいらしく、放課後のこの場所にはほとんど誰も残っていない。窓の外に、土に汚れたエナメルバッグを掛け校庭まで走っていく後ろ姿が見えた。きらめく青春を送る背中に少しばかりの眩しさを覚えたが、感じたものを掻き消すようにして私は直ぐに首を振った。

 人気のまばらな教室を振り返ると、担任の言った通り、確かに日誌は彼の手元にあった。先に帰るのも何だか気が引けてしまい、私は特に声をかけるでもなく自分の座席でただただ時間を潰している。話し相手もろくに居ない教室でただぼうっと窓の外を眺めているのは、黄昏ているみたいで少し恥ずかしいというか。ちょっと不自然な気がしないでもない。

 些細なことでも気になり始めたら止まらないもので、私は机から適当なノートを取り出し、課題に取り組んでいる風な体勢をとることにした。放課後残って勉強する系女子でいこう。シャープペンシルの芯は出ていないが、一応それっぽくは見えるだろう。

「なあ」
「え?」

 突然の呼び掛けに思わず顔を上げた。けれど彼は未だ日誌に向かったままで、特に誰かに対して声を掛けたという様子もない。空耳だったかな。ひとりでに熱くなる頬を押さえ、意味もなく白文字をノートに走らせた。空耳に反応するなんてもし聞かれていたとしたらいたたまれない。

「聞いてる?」

 いや……やっぱり、話し掛けられてる?さっきまでちらほら残っていた男子生徒数人もいつの間にかその姿を消していて、教室に居るのはソネザキくんと私のふたりだけ。呼び掛けの主が彼なら、その相手は必然的に私ということになる。ノートから視線をそろり持ち上げると、ソネザキくんとばっちり視線が合ってしまった。

「聞いとんのならちゃんと返事したってやー、ナマエはん」
「は、」

 話し掛けられた!しかも何のためらいもなく名前を呼ばれている!普段苗字でしか呼ばれたことのない私の名前を彼が知っていたことにも驚きを隠せないけど、そうやって親しくない人の名前まであっさり呼べるなんて……やっぱり人気者って恐ろしい生き物だ。

「いつも直ぐ帰るなぁて思うてたんけど、今日はゆっくりなんやな」

 何だかよくわからないけどすっごい話し掛けてきますどうしましょう。クラスの陽キャと話す機会がほとんどない私は、慣れない状況にテンパりまくっていた。日本人同士なのにカルチャーショックを感じている時点でまず終わっている。もちろん一対一の空間に逃げ場なんてものはなく、ソネザキくんの視線も私を捉えたまま中々離してくれそうにない。

「え、と課題、課題です!課題をやろうかななんて」
「課題?今日課題なんて出とったかいな」

 しどろもどろになりながらそう返せば、訝しげな顔つきになるソネザキくん。うそ、きょう課題、出てなかったっけ。

「あ……そうですね、なかったですかね。はは…」
「なんや〜よかったわぁ。驚かさんといて」

 ということは、私っていま出されてもいない架空の課題に取り組む(ふりをしている)めちゃくちゃ不審な人じゃん…。逃げたい。変な引け目とかいいからさっさと帰ればよかった。黙りこむ私には相変わらず彼の視線が注がれていて、私はまさに蛇に睨まれた蛙状態だ。

「わかりやすい嘘つかんでもええのに、わいのこと待っててくれたんやろ?」
「なっ、ちが、違います!」
「んなこと言うて、顔赤いで」

 ある意味図星を突かれて思わず声を荒げると、彼はけらけら笑った。確かに待ってたけど、今の言い方からするとこの人あらぬ方向に解釈してるよね?やめてほしい。陰キャからかって反応楽しむとか、陽キャの人怖すぎるでしょ。

「本当にそういうのじゃなくて……私も一応週番だし、先に帰ったら悪いかなと思いまして」
「はー、えらい責任感強いんやな」
「そりゃどうも、です」

 まーナマエはんは真面目やから、そこがええとこなんと違う?ソネザキくんは特に気にした風もなくそう言ってペンの背で日誌を叩いた。その先には週番の名前を書くスペースがあり、私とソネザキくんの名前がフルネームできちんと並ぶ。線の細い、綺麗な字だった。

「ちゅうか、その敬語疲れへん?」
「え?」
「えらい堅苦しゅうてならんわ。同じ週番なったのも何かの縁なんやし、普通でええで」
「えっ」

 な?と笑顔で言う彼に絶句した。そんなの、急に言われたって困る。今だってソネザキくんと話してるのを誰かに見られやしないかってびびりまくってるのに、ため口なんかきくようになった日には、あの子やあの子に「こいつ調子乗ってんな認定」されてしまう!

「いやいやそんな恐れ多い、結構です!私みたいな一般人がソネザキくんにため口だなんて」
「一般人て、わいは偉い人間ちゃうで」
「あ、それは気にしないでください!とにかくダメです」
「そんなあ、なんでなん?何か困ることでもあるん?」
「う、いや、それは」

 いや大いにありますむしろありまくりです。それが言えたらどんなに楽か。眉をハの字に下げてあからさまにしょんぼりする彼の表情さえ見ていなかったなら、きっと即答していたことだろう。

「それは……ないです、けど」

 しかし流されるままに生きてきた私には、この状況下で彼の提言をねじ伏せる度胸なんて備わっていなかった。

 「なら決まりやな!」とはにかむソネザキくんの笑顔は色々と心臓に悪い。私このままここにいたらショック死してしまうんじゃないだろうか。それくらい、今日の放課後には良くない刺激が詰まっている。

 結局彼が望んだとおりに敬語をやめる方向になってしまったが、それでもクラスの女子たちの視線が怖いことに変わりはない。せめて明日以降の仕事は予め分担させてもらうことにしよう。彼の申し出は無下にせずとも、要らぬ反感は買いたくない。教室で無闇に話し掛けられても困るし、先回りの予防は重要だ。

「じゃあ、明日の週番だけど、」
「あっ、ちょっと」
「なに?」
「あー……いや、明日もわいが黒板消したるさかい、ナマエはんが日誌書いてくれへんかな?」

 私を遮り提案した彼の目は宙を泳いでいて、何か後ろめたいことでもあるのだろうかと首をかしげた。私の提案も同じ内容なので特に問題は無いわけだけど。

「いいよ、私もそう言うつもりだったから」

 慣れないため口はどうしてもぎこちなさが拭い切れない。私が言葉選びに神経をすり減らす一方で、彼に少しばかりの安堵の表情を垣間見た。

(ふうん…)

 親しげに話し掛けてきたからすっかりまひしていたけれど、ソネザキくんも普段の教室で私と関わりたくないってことか。何が無闇に話し掛けられたら困るだ。無駄な心配だった。まあ、そっちの方が都合もいいし、こんなの始めからわかっていたことだけど。

「なら、明後日からも交互に分担すればいいね。じゃあ私帰るから」
「え?待ってるんと違うの?」
「公平に仕事分けたんだし、もうその必要もないでしょ」
「そりゃ……そうかもしれへんけど」

 さっきまであれほど饒舌だった彼が嘘のように歯切れの悪い言葉尻。何が不満なのか私にはわからないし、どうして言葉の勢いを失ったかに至っては見当もつかない。

「せやったら、明日はわいが放課後ナマエはんのこと待つわ」
「なんでそうなるの」
「別にええやん、わいも週番なんやし」
「……」

 もう本当にわけがわからない。関わりたいの?関わりたくないの?この人がこだわるポイントって何なんだ。突き放してみたり、かと思えばまた人懐っこさを発揮してみたり。掴み所がなさ過ぎて、この人が何を考えているのかさっぱり理解できない。

「そう…」

 考えるのも面倒になって大袈裟な溜め息をついた。さらに「堪忍なぁ」と彼が悪意のない表情を浮かべるから、不本意にも毒気はすっかり抜かれてしまう。机の上の諸々を仕舞い椅子に座り直せば、途端に彼の目がぱちりと開かれた。憎めないキャラって世の中得してるんだろうな。綻ばせた表情は今日一番の笑顔。ほんとずるいんだよ。色々。

「待てばいいんでしょ、待てば」
「あ〜ほんまよかった、ナマエはんに嫌われた思って寿命縮んでもうたわ」
「なにそれ」
「やっぱナマエはん優しいな」
「ちょっと、おだてんのやめてってば」
「なはは、おべっかとちゃうで」

 ひとつわかったことがある。人気者、キラキラした人種。かつての日の私がそういうカテゴリに分類した彼は、それだけでは語り尽くせない一面を持っていた。例えば、案外人ひとりをきちんと見ているところだとか、はねのけようとするこわばった手を溶かす笑顔を持っているところだとか。

「ソネザキくんてさ、」

 変わってるよね。しかしそう続くはずだった言葉は、彼が勢いよく引いた椅子の音で遮られた。廊下から足音が近づいて来る。

 その乾いた音にびくりと反応したソネザキくんは、日誌と鞄を掴むと「あかん、堪忍。わい帰るわ」とだけ残して廊下まで駆け出した。入り口の所で声を漏らし、突然のことで呆気にとられていた私を振り返る。

「マサキ!」

 彼は得意の笑みを深くしてこう続ける。

「わいの名前、覚えたって!」

 また明日と一言加えて、彼は逃げるように教室を出て行ってしまった。一人残された私は口をぽかんと開けたまま、ただ半開きのドアの向こうの廊下をぼんやりと見つめる。名前、覚えてって言われても。呼ばないだけで、知らないわけじゃない。知ってるけど、呼ぼうと思ったこともない。だけど。

 覚えてって言ったら、多分それって呼べってことなんだよなあ……。

 陰キャの私にはとても対処しきれない。誰かを名前で呼ぶ。そんなの、仲の良い女友達にしかしたことがない。そもそも男友達なんて私には居ない。そんな私が男子、しかもソネザキくんを名前で呼ぶ?いきなりハードルが高すぎる。次に会うとき、明日の放課後には彼との会話は避けられない。呼べばいいのか。どうやって呼べばいいんだろう。いきなり呼んで違和感だらけだったらしんどいな。こんなこと今までなかったから何が正しいのかもわからない。初めてだ。初めて。初めて名前で呼ぶ相手が……マサキくん。

 (あ……今のちょっと無し。変なこと考えた)

 行き着いた考えに驚いてハッとした。廊下の足音はいよいよ近づいて、そういえば誰だったんだろうと慌てて考えるのをやめる。すると開いた扉から、担任がひょっこり顔を出した。何やらにやりと音をたてそうな顔つきをしている。

「日誌は?」
「あ、今、ソネザキくんが」
「ああ、入れ違いか。今誰か走ってくの見えたもんな」
「なんか今急に出てったんですけど……」
「そりゃ……ソネザキには悪いことした」
「は?」
「お前には教えてやんないよ。ほら、することがないならさっさと帰って勉強しろ」
「うわ先生が担任っぽいこと言うと気持ち悪いですね」
「余計なお世話だよ。まあせっかくの週番だ、楽しんだらいいさ」
「?、はあ……」

 置いていかれてばかりの状況と、相変わらずイラッとくる表情を浮かべたままの担任。釈然としない私はしばらくの間座席から立ち上がることができなかった。「じゃあな」と手を振り担任もやがて姿を消す。なんなんだみんなして。わかりかけていたことが途端にまた雲を掴むような不確かなものへと変わる。教室には来た道を戻る担任の足音だけがこだまして、私の頭にはマサキという名がぐるぐる回り続けていた。




 (あいつ、恥ずかしくて人前でお前に話し掛けられないらしいぞ。面白いから言わないけど)






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水面下で利害が一致してしまうふたり



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