「マサキ、入るよ?」

 慣れ親しんだドアをくぐれば、彼の仕事には欠かせないコーヒーが香ってくる。野暮用で飛んだジョウトでの数日間を終え、一番に向かったのは彼の住む岬の小屋だった。忙しいのは承知で訪問に踏み切ったのだから、仕事に支障をきたしてしまわぬようにと控えめに敷居をまたいだ。顔を見れたら家に帰ろう。私も怒涛の旅程ですっかり疲れ果てている。行きとの変わりなんてほとんどないはずなのに、帰りがけのキャリーバッグは妙に重く感じられた。

「ナマエか?10日ぶりやな」

 光るディスプレイから外した視線が玄関先の私と交差する。少々無理をしているのか掠れ気味の声につい彼の健康を案じてしまうけれど、対して弾んだような彼の声色にはむしろ安堵さえ覚えた。彼は画面に向き直り、片手をひらりと上げる。流れるような一連の動作に彼を感じて私はひっそりと頬を緩ませた。

「10日……そんなに経ってたんだ」

 外出ですっかり日常離れしていたこともあり、何とはなしに投げかけられた現実が今ひとつ腑に落ちない。出先の滞在期間を指折り数えてはじめて合点がいった。目をやったカレンダーには予定やら仕事の締切やらを書き込んだ文言で隙間もなく埋め尽くされていて、これ以上に何かを書き込む余地は残されていない。わたしは日付を見る間もなく、走り書きしたようなボールペン字に目線を奪われた。ひしめくように紙に乗ったインクの量は、やはり彼を必要とする人の数に比例する。責任と期待の狭間にいる彼の日常は、きっとどこを切り取ってみても仕事で一杯なのだろう。

「うん……?」

 スケジュールの過密さに感心しながらカレンダーの字を追っていると、日付の隅の赤いバツ印にふと目が留まった。月の始めから中ごろにかけて2、3日ほどの間隔で続いている。さらにそのなかで、先週から昨日にかけて続くバツ印が一際目を引いた。印は例になく9日にも渡って刻まれている。

「これって……」
「堪忍な。わい今えらい忙しゅうて、あんま構っとる暇ないねん。なんもできひんけど、まあそのへん座り」
「あ、うん。ねえマサキ」
「んー?」
「もしかして……私と会った日を、記録してる?」

 口から言葉を手放した途端に、タイプの音が止まる。思いのほか声が小さくなってしまった。単なる自惚れだと一蹴されてしまったら流石にちょっと恥ずかしい。背を向けた彼の表情を覗き込むことはできず、背面からその心境を汲み取ることも叶わない。やんわりと浮いた左手が彼の後ろ頭を掻いた。

「あー……まあ、せやな。恥ずかしながら」

 背中越しに聞いた声は、明瞭さこそ欠きながら確かな肯定を示した。ばつが悪そうにことばを紡ぐ背の向こうで彼がどんな顔をしているのかは想像に難くない。私は相槌も忘れ、ソファのカバーを強く握り締めた。デスクのマグから香る微糖が無意識の内にわたしの本音を誘い出す。

「マサキ、私寂しかったよ!」

 ほろ苦いコーヒーの香りが、彼と私のぎこちない空間を繋いだ。互いの出方を窺い合う中では、小さな動きひとつひとつに敏感になってしまう。彼の後ろ手が膝に下ろされて私は息を呑んだ。

「……ナマエ、もうしばらく居るやろ?」

 ようやく口を開いた彼が唐突にそう確認する。彼が醸し出す落ち着きに似合わず少しだけ上擦る声を聞いて、背を向けたままの彼が照れ隠しをしているのだと気付いた。それを理解したわたしの思考回路ほど単純なものはなく、きりきりと張り詰めた弦が弾き出した答えは。

「うん、そのつもり」
「……ほうか、わかった」

 少しの間を置いてそれだけ言うと、空間はふたたびキーボードの音を取り戻した。香ばしい黒の香りに軽快な音が混ざり合う。ああ。速度を上げた規則的な音が、伸ばされた背筋が、どうしようもなく愛おしい。旅の疲れも忘れ当初の予定を覆した私は、意外にも寂しがり屋な彼のため、温かいコーヒーを淹れ直そうと席を立った。

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