お風呂上がりの私の耳にぱちんぱちんと乾いた音が転がり込む。リビングへ入ると真ん丸に曲がった背中の向こうにその音の正体を見つけた。テーブルの上の小さな扇風機が繰り出す涼しい風を独り占めにして、金色に輝く髪が揺れる。私の前にお風呂を済ませたデンジの髪は、風を受ける左側だけすっかり乾いてしまっていた。丸まった背中に影を被せるように上から覗き込むと、デンジが爪を切っているのが見える。

「暗い、見えない」

 勢いよく後ろに倒れこんでくるデンジの頭が、私のちょうどお腹あたりにヒットした。ちょっとぐえっとなりながらもなんとか受けとめて、元の位置まで送り返してやる。パジャマのお腹の部分が濡れてしまった。あーあ。扇風機で乾かしたつもりになっても、片側はまだまだびっしょり濡れているよデンジくん。
 勝手にドライヤーで乾かしたらきっと暑いって怒るだろうから、しかたなく扇風機を反対側に移動させた。これで右側も心おきなく乾かしたまえ。

 デンジの髪が左にそよぐのを確認して、冷蔵庫へ向かう。お風呂の前に冷凍庫に忍ばせておいたビールで一服といきましょう。これがなきゃ夏の夜なんてやっていられません。

「ナマエー」
「なーにー」
「俺にも一本」
「はいよー」

 もちろん途中参加のデンジくんには、冷蔵庫のビールで我慢してもらいます。缶をわざわざ冷蔵庫から冷凍庫に移すというプロセスを踏んだ人にしかこの至福は味わえないのだ。世の中はそんなに甘くないということを身をもって知っていただこう。

「はい」
「ん」
「置いとくよ」
「あ。やっぱそっちがいい」
「……味は同じなんだから、どっちだっていいでしょ」
「そっちがいい」

 ……こっちの缶がヒエヒエだってなんでわかったんだろう。ばれたら面倒くさいことになるから缶の霜まで拭き取っておいたのに。やはり溢れ出るヒエヒエ缶の魅力はその程度では抑えきれなかったのか。デンジは一度言い出したらどこまでもかたくなだ。仕方ない。ここは正直に話して、世の中のルールってやつをわからせる必要がある。

「これはお風呂のまえに私が冷凍庫に入れておいたのです」
「やっぱりそっちが冷えてるやつだろ」
「もちろん。だけど冷凍庫に入れたのは私です。これ重要。よってこれは私に飲む権利があるのだよ。わかるかねデンジくん」
「わかったけどわかんね」
「……あのねえ、別に冷蔵庫に入れてたほうがぬるいわけじゃないのよ」
「俺は冷えてるやつの方が良い」
「我慢しろ」
「やだね」

 このわからず屋のきかんぼうめ。きさまは5歳児か。だだをこねて許されるのは幼稚園までだぞ。夏の楽しみをぽっと出の野郎にくれてやる程私は優しくないんだ。そっちがそんななら私は心を鬼にしよう。

「……そんな目で私を見るな」
「お前がそれくれたらやめる」

 鬼にそんないじけたような目を向けたって効くはずないだろ、と無視を決め込むつもりだった。なのにじっとりと物欲しそうに、訴えるように見つめられたら(なんかちょっと可愛いし)、ああ、そんな、ちょっと。私のビール。

 鬼は改心しました。デンジくんはお目当てのヒエヒエ缶を手に入れたのでした。めでたしめでたし。……いやいやどんなハッピーエンドよ。なんにも悪いことしてないのに!このままでは私は一向にふしあわせだ。

「……せっかくあげたんだからちゃんと大事に飲んでよ」
「へいへい」

 もらった途端てきとーな態度になりやがって。私を嘗めてる。あげるんじゃなかったと今更な後悔をしつつ、そこそこに冷えた缶をやけっぱちであおった。冷たくなくもないけど、期待してたラインに対してはいまいち物足りない。キンキンに冷えた缶に飼い慣らされた私は、そこそこのつめたさでは碌に満足できない体になっている。悲しみである。おとなりのデンジくんはさぞや至福のひとときを過ごしているのでしょう。

 しかしそう思いきや、デンジは自分の指先を見つめたまま、缶の中身にいまだありつけずにいる。いったい君はなにと戦っているんだ。

「もしかして、プルタブが開けられないの……?」
「さっき深爪したんだよ」

 見ればデンジの両手の爪には少しも白い部分が残っておらず、こんなに計画的に深爪をするやつがいるかよと裏拳をお見舞いしたくなった。器用な癖に発揮のしかたを間違えている。デンジは既にトライアンドエラーを何度も繰り返ししたのだろう。指と爪のあいだの赤が痛々しくてみていられない。溜め息がでるのはいつものことだからもはや気にせず、屈強なプルタブをいとも簡単に押し上げてやった。こんなの、爪の長ささえあれば造作もない。

 「ほら」と缶をぶすくれたままのデンジに手渡し(少しくらい感謝しろよ)、私が飲むはずだったそれにほんとうの別れを告げた。くっ……デンジくんよ、せいぜい味わって飲みたまえ。

「冷たいっちゃ冷たいけど冷蔵庫のとあんま変わんなくね」

 愕然とした。すこしの時間を経た缶はそりゃぬるくもなる。言ってのけたデンジに腹が立ったのは言うまでもない。ぐちぐち言いながら缶をかたむけるデンジに、私のいかりのボルテージはますます上昇していく。
こんなにデンジばっかりが幸せでたまるかよ。先程見込んだとおりデンジの髪はもう十分に乾ききっていたので、不満足げなデンジから扇風機を略奪する。デンジの取り分をのせた天秤はすでに地にめりこむ勢いだ。デンジに全部もっていかれた分、こんどは私に至福をわけてもらわなくては。

「暑い」
「わたしだって暑いよ」
「あー……」

 小さなしあわせをようやく手に入れて、ひゅるひゅると怒りの風船がしぼんでいった。しかしデンジは納得がいかなかったようで、扇風機の風を追いかけて私の膝上によじのぼってくる。全部とまではいかないまでも、扇風機の風はまたデンジによって遮られてしまった。

「暑いー……」
「……どこまで」

 欲張りなの。だけど膝の上に寝そべってマイペースに暑がるデンジを可愛いと思った時点で、もう私の負けは見えてしまっている。結局私に残されたのは、デンジと半分こに分けた僅かな風だけ。膝から伝わる体温を不快に思うこともなく受け容れてしまう私も、結局はどうかしているってことなんだろう。いつもなんだかんだでデンジを甘やかしちゃうんだよなあ。苦笑ひとつのあと、代わりにまつげの長い寝顔だけは独り占めしてやるんだ、と私はこっそり妥協策をうちたてる。




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