※ちょっと特殊



「お邪魔します、誰か居ますか」


 木製の戸が軋んで、床がみしみしと鳴く。街外れに建つ古ぼけた外観に強く目を引かれ、中に入ることにためらいは感じなかった。恐らくかつては白かったと思われるカーテンは日に焼けて色がくすみ、それ越しに入る日の光によってオークの床は白くあせている。家の中は薄暗くも不思議と柔らかい空気が漂っていた。築年数は相当のもののようだが、きちんと掃除がなされている。壁に指を這わせるとホコリではなく木くずがざらついた。

 世界と切り離されているような感覚だ。人のいる痕跡はあるのに、人がいる気配がしてこない。もしかしたら俺は家主の不在に上がりこんでしまったのだろうか。家の鍵が開いていたから、てっきり誰かいるものと思っていたのだけれど。

「おや、お客さんだね」

 そのまましばらくの間部屋じゅうを見回していると、家の奥から床の鳴く音が近づいてきた。同時に声が聞こえ、人が居たことに驚いて肩に力が入る。ぽかんと開いていた口元をぎゅうと結んで、鼻から思い切り息を吸い込んだ。しわがれた声に言葉を投げかけられ、その場に縫い付けられたかのように動けなくなった自分の足。

 もしかしたら俺は魔女の家に迷い込んでしまったのかもしれない。タイル貼りのキッチンに並んだ瓶のラベルはよく見えないが、ひどく真っ赤な中身から目を離すことができなかった。

「あ……こんにちは、勝手に入ってしまってすみません」
「別に構わないよ。ここに人が来ることなんて、滅多にないもの」

 床の軋みが音を変えた。小動物のような高い悲鳴が、今度は低く唸る。早くなる呼吸の合間にようやく言葉を紡ぎ出すと、魔女はその顔に深く皺を刻みながら笑った。

「それじゃあ、もう俺行きますんで!」

 そう言いながら、木戸へ戻ろうと後ずさる。大丈夫、これくらい離れていれば問題なく逃げられる。窓を背にした魔女の表情は、逆光のせいか距離をとるごとにわからなくなっていって、いまこの瞬間に何を企んでいるのかは読み取ることができない。部屋の隅の大鍋で煮込む今日の料理を思案しているかと思うと、背筋に変な汗が浮かんできて気が気ではなかった。

「待って、どこへ行くの」
「っは……え、俺今、お使いの途中……で」
「急ぎの用事かい?」
「あ、いや、急ぎとかでは、ないんですけど」

 しまった。急ぎだって言えば良かった。それが事実とはいえ、逃げるための口実をわざわざ潰してしまうなんて。「それなら、」とトーンを上げた音声に、ぞくりと震えた。

「ここで休んでいきなさいな!随分なことお喋りもしていなくてね。話相手が欲しかったんだ」

 うっかり口を滑らせていなければ、今頃はポケモンじいさんの所に着いている頃だろう。かくいう俺は今、きらきらと白い湯気を立てるティーカップを前にして、キッチンに立つ後ろ姿に不審な動きがないかを窺っているところだ。何が入っているかもわからない紅茶に手をつける気にはなれず、ソーサーに乗ったスプーンは未だに乾いたままだ。

 チン!と小気味良い音が鳴り、魔女がオーブンから鉄板を取り出した。きつね色のかたまりがいくつも並んでいる。香ばしい香りが立ちのぼって、俺の腹の底がそわそわと空腹を訴えはじめたのがわかった。いや、駄目だ駄目だ。騙されてはいけない。膝の上の手のひらを握りしめて、腰の曲がった後ろ姿をしっかりと見張る。

「待たせたね、ほうら、温かいうちが美味しいよ」

 紙を敷いた小さなかごにきつね色のそれをざくざくと盛って、魔女が振り返る。そのとき、骨と皮の指があの赤い瓶を手に取るのを見逃さなかった。

「たんとお上がり。そうだ、名前を聞いていなかったね。私はナマエ。名前を聞かせてちょうだいな」
「ヒビキです」

 「そう、ヒビキ」と咀嚼するように繰り返し、青い目が細められる。その反応からして俺のことを知っているのかなとも思ったけど、震える手がかごの山に向かったからそんな考えもすぐに消えた。乱雑に掴んだ厚みのある円盤。さっきから鼻をくすぐる匂いに心を揺さぶられて気になっていた。

「気になるかい?これはね、スコーンっていうんだよ。この瓶のジャムをつけて食べると、ほっぺが落ちるくらい美味しいんだ。ヒメリとモモンを煮詰めてね、ヒメリは辛い実だけど、ジャムにするととっても甘くなるんだよ」

 そう言うと、魔女……いやナマエさんは、バターナイフにたっぷりとジャムを取り、スコーンに乗せて口へ運んだ。「ああ美味しい」と顔をしわくちゃにして微笑む。その表情を見ていたら、さっきまでの心配はどこへやら、気付けばナマエさんに倣ってスコーンにかぶりついていた。

「美味い」

 普通に、というかもの凄く美味しい。口の中いっぱいに広がる酸味と甘味、ちょっと切ないような味。思わず溜め息が漏れた。何だか心にじんわりと染みわたる味だ。家の中の雰囲気と彼女の容姿から、とんでもない思い込みをしていた自分が恥ずかしい。よくよく見ればナマエさんは小柄で可愛いらしいお婆さんじゃないか。不安のフィルターというのは、目の前の事実を見えなくしてしまうものだからいけない。今やすっかり彼女に気を許した俺は、ナマエさんに教わって、紅茶にも特製のジャムを入れて飲んだ。うーん!これも好きな味だ。

「懐かしいね、前にも君みたいな子が来たよ」
「そうなんですか」
「その子、ポケモンマスターになるんだって言っていてね。とても強い気持ちを持ったこだった。凄い才能で、半年もしたらこの地方のチャンピオンになっていたんだよ」
「……へえ」
「君にも夢はあるの?」
「あ、と…まだちゃんと決まってはいないんだけど」

 ポケモン、という言葉を聞いてポケットのボールに目をやると、スコーンの匂いに誘われたのか、もらったばかりのヒノアラシが自分で外に出てきてしまった。小さな体躯が「ヒノ!」と元気に鳴いて俺の膝に飛び乗る。

「こら、ヒノアラシ!」
「おやおや、坊やも食べたいのかな?」

 ナマエさんがジャムをのせたスコーンを手渡してくれた。ヒノアラシはひとくちでぺろりと平らげてしまって、気に入ったのかもっと寄越せと膝の上でじたばた暴れだした。あんまり食うと動けなくなるぞと頭をつついたけど、ヒノアラシはどこ吹く風といったふうで、追加で貰ったスコーンを黙々と食べ続ける。呆れはしたものの、ヨシノに来てからポケモンセンターに寄ってなかったことを思い出して、仕方ないなあと諦めた。ヒノアラシも頑張ってくれたんだもんな。

「もう、これも何回目のことだろうね」
「え?」
「ああ、いいえ。こっちの話だよ。それより君のヒノアラシ、君になついているようだけど、この子とはずっと一緒にいたのかな?」
「え、そんな。こいつとは今日出会ったばかりで」
「今日!凄いなあ、君はすぐにポケモンと友達になれるんだね」

 そうかなあ。実感なんてものはないけれど、相変わらずスコーンを食べることに夢中のヒノアラシの頭を撫でたら、身をよじって俺の方にもたれ掛かってきた。案外無い話でもないのかもしれない。

「ポケモンマスターって、なろうと思ってなれるものかな」
「なれるよ、みんながそうかはわからないけど。君ならね」

 ポケモンマスター。果てしなく遠くてでもポケモンと共に歩む者なら誰もが憧れるような称号。一度聞いたら、なかなか耳から離れない魔法の言葉。自分がなろうなんて考えたこともなかったけど。

「なれるかな」
「うん、なれるよ」

 ヒノアラシを抱きかかえると、いっそう大きく鳴いた。こいつも、なりたいのかな。

「君だから、なれるんだよ」

 なれるかなという言葉ははなりたいという気持ちに変わって、不思議な魔力を持ったナマエさんの言葉がさらに俺の心を突き動かす。温かいその言葉をどこかなつかしいと感じたのは何故だろう。それは果たして俺が自分の祖母の顔を覚えていないからなのか。それとも。

「うん俺、なりたい」
「そう……頑張ってね。私は君をずっと応援してるから」
「ねえナマエさん」
「なんだい?」
「もし俺が本当になれたら、またここに来てもいい?」

 ナマエさんの目は、穏やかな色をしていて、何故だか泣きたくなるくらいの懐かしさを覚えた。全然覚えていないのに、やっぱりこの目を知っている気がしてならなかった。

「もちろん!そのときには、きっとスコーンを焼くよ」

 だからまたおいで。忘れないでね。と念を押すナマエさんにちくりと胸が痛んだ。なんだかわけがわからない。どうしてこんなにナマエさんの言葉が俺を動かすのか、青い目がこんなにも懐かしいのか。大切な大切なピースがひとかけら見つからない時のような、大事な何かを忘れているような。

「はい!絶対にポケモンマスターになって、またここに来ます」

『わたしはね、ナマエっていうの。君の名前は?』

『ヒビキだったらきっとなれるよ!』

『絶対、忘れないでね。その時にはきっと、ヒビキのためにスコーンを焼くから!』


 お使いを終えてワカバタウンに戻った俺はウツギ博士にポケモンマスターになると宣言し、育った街を飛び出した。最後まで胸に引っかかっていた思いの正体は、いつかその日が来たらわかるのかもしれない。なら俺は、ヒノアラシと、これから出会う仲間とで、きっと絶対、なってやるんだ。

「……今度は、消す前に思い出してくれるかな」

 まさかね、と呟いたナマエの言葉は、くつくつと煮立つ大鍋の赤に吸い込まれて消えた。








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もしもポケモン世界にリセットをつかさどる魔女がいたら。

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