マツバ×前髪重めショート
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 毎月の資金繰りのため開いた家計簿。その上を滑るペン先から、じんわりとインクが滲んだ。うわ、まただよ。耳にかけていた微妙な長さの前髪が、眼鏡と目の間にぱさりと落ちてくる。黒い縁のフレームに邪魔されて、鬱陶しいそれは私の視界を遮るばかりか、容赦なしに目つぶしをしてくる。テーブルの向かいの幼なじみが吹き出すのが聞こえたけど、軽くシカトしておく。
 もう何度目になるであろう動作に正直嫌気が差してはいたが、ぴんと七三の七に当たる前髪を右耳まで引っ張り、耳とフレームの間に無理やり挟んでおいた。見た目の問題なんて知らない。吹き出す声が本格的な笑い声になったけどやっぱり気にしない。

「傑作だね。どこのサラリーマンがデスクワークをしているのかと思ったよ」
「目の前のわたしだよ」
「そもそもお前は僕ん家に何しにきたんだい」
「縁側の涼をいただきに……なんて言ったら呪われそうだから、マツバに会いにきました。あ〜ん寂しかったわ!マツバ!」

 次の瞬間垂直に落とされた拳の重力に従って、私は木目調のテーブルとキスをする羽目になった。木のいい香りがする、じゃなくて。鼻が折れるかと思った。血のにおいがしそうです。

「可愛いジョークを本気にしないでよ」
「ごめん、なんだか拳が異様に重くて」

 はははと笑いながら軽快に振ってみせた手のひらに、制御できない程の重力は見受けられない。悪意だらけの幼なじみである。悪意のかたまりに文字通り出鼻を挫かれて私はペンを置いた。テーブルにでるーんとのびると、前髪がはらりと鼻当てにかかる。終わらないたたかいだ。

「鼻がかゆい……」
「清涼効果のある塗り薬があったな」
「説明書に顔に使っちゃダメって書いてるよね」
「いちいち読むくらいは暇なようだね」
「命かかってますからね」

 そんなん塗ったら刺激臭で今度こそ確実に鼻血が出る。今日のマツバは鼻を重点的に攻めるつもりらしい。このあいだ来たときは目だったから、私のバッグにはゴーグルが待機している。鼻は何で守ったらいいんだろう……プラスチックのつけ鼻?

「そんなに邪魔なら切ったらいいだろ」
「あー、いいねそれ。採用」

 そうと決まれば話は早い。部屋でふよふよ浮いていたゲンガーに「ハサミと下敷きかりてもいいかな」と学生のノリで頼んだら、まもなく戻ってきたゲンガーにハサミの刃をこちらに向けて差し出された。ここにも悪意を感じる。子はおやに似るってか。

「さて、どのくらい切ろうかな」

 目の上ぎりぎりの所か、余裕を持ってそれよりも少し上か。前髪が伸びるたびに美容室に行ってられないので、前髪くらいはと自分で切るようになってからは多少のセルフカットはお手の物だ。ハサミを入れる時の恐怖はほとんどない。ポケットから櫛を出して長さを見繕いはじめた私を見て、マツバは少し驚いた顔をしていた。

「鏡も使わないのか」
「うん何度も自分でやってるし、慣れかな」
「ふうん」

 よーし、あんまり頻繁に切らなきゃいけないのも面倒だし、やっぱり余裕もって切ろうかな。寄り目気味になりながら意気揚々とハサミの刃を開いてみたが、そこから急に手が動かなくなった。見ればのっそりと黒い手が両肩に乗せられて、にやりと笑うゲンガーと目が合う。

「ゲンガー、今くらいいたずらはやめてくれると嬉しいんだけどな」

 何のことやらと言うような暢気な鳴き声が聞こえて、一気に金縛りがつよまった。ハサミを持つ手はおろか、体じゅうのあちこちがこちこちだ。「や、め、て、ちょっと」最大限の横目でゲンガーの表情を捉え、解放を訴えかけた。やっていることはあくどいくせに、仏のような表情を浮かべやがって……。と悪態をつきかけて気づいた。すでに奴はねむり状態だった。飽きたなら金縛り解いてくれよ。器用だな。

「えぇ〜、この体勢どうすんの……」
「いい機会だね。代わりに僕が切ってやろう」
「え!?」

 マツバが私の前髪を切る?確かにマツバは器用だし、何でもそつなくこなしてきたハイスペック人類だけど、凶器を持たせたら最後、とあのイタコさん達に言わせたマツバが眼前でハサミを構えるとなると……生命の危機。あるいは私を笑いものにするために前髪を消失させるくらいはやりかねない。いくら前髪の伸びが早いとはいっても、じゃあお願いします〜と簡単に身を投げ出せるほど簡単にあきらめのつくパーツではない。背中に冷や汗を浮かべながら目を泳がせていると、背後からクスクスと笑い声が聞こえた。狸寝入りしていたのか。これは……仕組まれた犯罪だ。

「え、遠慮しときま……」

 言いかけたところで、力の入らない指からスルリとハサミが抜き取られた。ああ私終わる……!!きっと額に沿って切られるんだ。決まりだ今日から私のあだ名は恐らくマンキーちゃんになってしまうんだ。
 絶望を通り越して安らかな心境のまま目を閉じる。顔に影がかかった。坊主にしたことはないけど人の髪って地肌から伸びるのにどれくらい掛かるものなのかなあ。そんなことをぼんやりと考えつつ、私は脳越しに響くステンレスの擦れる音をどこか他人事のように聞いていた。

「これくらいでいいのか」
「へ?」

 間の抜けた声と共に閉じた目をひらくと、存外近い所にマツバの顔があった。うお、びっくりした。漸く追いついた思考に従って目を寄せると、予想地点を遥かに下回る、つまりまともな場所で前髪が揺れていた。目よりもほんの少し余裕を持って上。なんだ、理想通りの前髪じゃん。

「すごい……完璧だ」
「目、髪入るかもしれないから気をつけなよ」

 よくよく考えてみれば凝り性のマツバが中途半端に髪を切るなんてことは無かったのだ。身の安全が確保されたことを理解すると、とたんにこの状況を楽しむ余裕が出てきたみたいだ。いつもは悪質な嫌がらせを仕掛けてくるマツバだけど、今日は珍しく真剣な表情を見られたし、平和ってこういうことを言うのかあとしみじみ思った。切った前髪を指先を使って丁寧に払い落とす仕草にほっこりとした気持ちになる。今日もイケメンだね……ヘアバンドが似合ってるよ……金髪が、いや全てが眩し過ぎてマツバが直視できません。平和って侮れない。普段なら胃がひっくり返っても出てこないような褒め言葉たちが次々と浮かんでくるのだから。
 思わずにへらと笑うと、切った髪を払うマツバの手が止まり、前髪が掻き上げられた。マツバの親指が最後におでこを撫で上げ、眼前の影が濃くなる。あれ?もう終わったのかなあっ、て、ふ、ふぇ、ふぁ、

「っっっっくしゅ!!」

 掻き上げた前髪からぱらりと髪の毛が落ちて、鼻をこれでもかとばかりくすぐったのだ。私は悪くない。だけど不可抗力とはいえ至近距離でくしゃみをぶちかまし、下敷きの上に溜めてあった髪の毛もろともマツバの顔目掛けてすっ飛ばした。
 やばい。やってしまった。恐る恐る片目を開くと、満面の笑みを張り付けた(目は笑ってない)マツバの姿がある。

「……呪うぞ」

 ですよね……!こんなことになったら流石の私だって怒る!でもこの後受けることになるであろう仕打ちよりも、今のマツバの表情の方がよっぽど怖い。再びハサミを手に取り、二、三度ジャキジャキいわせたあと、構えたハサミの向きは、なんと真横。

「マツバ!!ごめん本当ごめん!何でもするからお願いそれだけはっ……!」
「問答無用」

 ジャキイインと一際高く響いた金属音のあと、私の前髪は見事なオン眉毛と化した。幸いマンキーは取り越し苦労だった。だがしかし私の愛称は奇しくもこの時決まったのだ。

「似合ってるよ」


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タラちゃん誕生





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