記録的な大雨のせいでジョウトまでの帰りの足がなくなった。そして、これから幼馴染の家に一泊する。とりあえず、きょうのところは。あらかじめ伝えた時刻が迫り外へ出ると、すっかり夜が深まっているのが人通りから伺えた。本当は定時にすぐ会社を出られる状況だったけど遅めの終業時間を伝えたことは、マサキには言えない。

「遅くまでお疲れさん。濡れてまうで遠慮せんと早よ乗りや」

 会社の裏口に横付けした車の窓を開け、マサキは運転席からかがんで目で合図する。確かに、地面から跳ね返ったしずくだけでどっぷりと水に浸かったようになるのだ。打ち付ける雨から身を隠すためだと自分に言い訳しながら、促されるままに車へと乗り込む。できるだけ屋根に近いところに停めてくれたのに、車のドアを開けて体を滑り込ませるわずかなあいだで肩までびしょびしょになってしまった。閉じた傘からたっぷりと水が滴るのを見ると、急に寒さを思い出して身震いする。

「なんで後ろ座んねん」
「いやあの、荷物が多くて」
「まあ楽にしとき。広く使ってええで」

 咎めて欲しいわけではないのにそんな風に許容されてしまうと据わりが悪い。ミラー越しに目が合うとマサキは柔らかく目を細めるが、私はなんとなく視線を逸らしてしまった。現実逃避をするように窓の外に意識を向ければ、見慣れたはずの景色は知らない表情を見ているみたいに雨でぼやけて光っている。濡れた洋服が肌に張り付いて気持ち悪い。

「これ使い」

 大きめの、良く水を吸いそうなタオルが差し出されて、このあいだ振りほどいた腕のことを思い出してしまった。そろそろ潮時だと思ってあれからお遣いも理由をつけて断っていたけど、まさか逃げ場のない所で顔を合わせることになるとは。言葉であれ、行動であれ、のらりくらりと躱している自覚があるせいもあって私にはどことなく罪悪感がつきまとった。

「……タオル、ありがとう」

 素っ気ない言い方だったけれど最低限の礼節をと思って受け取ると、こらえ切れず噴き出したような笑い声とともに「どういたしまして」と腕を引いた。こういう心底おかしそうなのにどこか嬉しげに見えるのがよく知るマサキの笑い方だ。馬鹿にしているわけではないと知っているので悪い気はしないが、今はこういう昔と変わらない部分を見つけたくはなかった。もうミラーを見ることはできないと思ったから、髪を拭くためにうつむいてタオルを深くかぶる。

「後ろ座ってそんなんしとると、何や悪さしたみたいやな」
「別に警察に連行されてないけど」

 思わず強めに返したのを面白がってかマサキはけらけらと笑っている。人の気も知らずに。選択肢があるのに助手席を選ぶなんて私にはできない。それに、誰のための特等席かわからないところに無遠慮に座れるような性格でもない。向けられた優しさを同じ温度で受け取れない私はふてくされた女だ。
 相応しさみたいなものを自分に問うのも、私を咎めるのも周りの目なんかじゃなく他でもない自分なのにね。

「暖房つけてるけど、寒かったら言うてな」
「うん、大丈夫。寒くない」

 寒くないのは本当で素直にそう答えた。ふかふかのタオルは温かく、頭からかぶっていると幾分か体の震えがおさまった。深く考えなくても家からわざわざバスタオルを持ってきたことはわかる。ただ、そのひと手間的な部分に妙な居心地の悪さを覚えてしまう私はやはり捻くれている。

「そういやナマエは夕飯もう食べたんか?」
「あ、別に、」

 お構いなく、と言いかけてお腹がぐうと音を立てる。しっかり壁をつくろうとした矢先に生理現象とはいえ緊張感もなにもあったもんじゃない。信号待ちとともに尋ねられたのが運の尽き。雨音にうまくかき消されてくれなかった腹の虫はマサキの耳にも届いてしまったようで。

「わいもめっちゃお腹すいてんねん。なんか買って帰ろか」

 笑うまいとしつつも声ごと肩を震わせながら言うものだから私も思わず堪え切れなくなって噴き出してしまった。


▲▽


 道中ハナダのスーパーに寄ってもらい、メイク落としや明日の朝食のためのパンなど当座必要そうなものだけを買う。と思いきや、マサキはしばらく家から出ないつもりなのかゆうに10日分はあるかという量の食料を買い込んでいた。聞けばいつも適当に食事はとったりとらなかったりと適当に済ませているようで、買い出しは良いついでだったのかもしれない。証拠に冷蔵庫の中は飲み物以外見当たらずほとんど空っぽの状態だった。

「気ぃ遣わんと適当にくつろいどいて。わいは先に風呂沸かしてくるわ」
「ありがとう。そうだ、キッチン借りても大丈夫?」
「もちろんええけど、座っててええねんで」
「泊めてもらうし、そもそもお客さんって感じでもないし。お互いお腹すいてるでしょ」
「そらそやな。ほな頼むわ」

 マサキの家に来たことは何度もあるが勧められるがままにゆっくりしていったことはなく、実際何かしていた方が気が紛れる。キッチンの勝手を知っているわけでなくても鍋や食器は見せ棚から覗いているし支障ない。そして買ったものはほとんど加工済みのものだ。空腹であることはお互いに白状済みなのでささっと準備してしまおう。逃げ場もないこの状況だ。ここがマサキの家だろうと、とにかくお腹を満たして、できるだけ快適に眠りたいという気持ちに素直になることにした。

 キッチンに立っていてもわかるくらい、外からはごうごうと激しい雨と風の音が聞こえていた。時間とともに天気は大きく崩れているのだろう。だけどあたたかい空気が立ちのぼるキッチンのお陰で、得体のしれない不安が襲ってくることはない。指先のむずがゆさは残るものの、ちょっとほっとしてしまっている自分がいる。

 鍋に湯を沸かし、いくつかの総菜をレンジで温めていると脱衣所の方からマサキが戻ってきた。リビングからカウンター越しにこちらを見るなりなにやら真面目そうな顔つきで不可思議なことを言う。

「ほお。二人おるとこういうことになんねんな」
「なに急に」
「いやなんちゅうか、ものごとがえらいスムーズに進むやんか」
「人手が単純に倍になってるからね」
「なんかええな、こーゆーの」

 幼馴染は真顔で、当たり前なことにものすごく納得したようにうんうんとうなずき、これまた当たり前のようにグラスやら食器やらをテーブルに並べ始めた。これから自分でやろうと思っていたことだったから少し驚いたけれど、その自然さが妙に腑に落ちてしまうのが悔しい。

「なに飲む?」
「なんでもいいよ。ありがとう」
「ほんなら適当にもってくで」

 躊躇する素振りなんかまったく見せず私のすぐそばを通り抜け、冷蔵庫からビールとミネラルウォーターをいくつか取り出すと、何食わぬ顔でにリビングに戻っていく。あまり広いキッチンではないから器用に通り抜けるあいだにちょっと肩が触れたりなんかして。見直したや、と一瞬でも思ったことはなんだかばかばかしくも思える。なんならこういうのいつも気にせずやってるんじゃ?とちょっと呆れた気持ちにさえなった。


▲▽


「うまっ」
「うん。手軽で美味しいし便利だよね」
「いや茹で加減が絶妙やしソースと麺の比率が天才やな」
「……無理やり褒めようとしてくれなくていいよ」
「調子ええことは言うても嘘はつかへんよ」

 レンジで温めた出来合いのおかずと、乾麺を茹でて、温めたソースに和えただけのスパゲティ。作ったというほどの代物でもないし、このくらいで喜ばれてしまってはちょっと申し訳なさすら感じるけど。

「信じてへんな。鍋かて洗い物んなるしこれを毎日すんのが大変なんやで」
 
 それに関しては、おおむね同意ではある。少しの時間を過ごしているうちに、そういえばこういう人だったと思いなおすことは一つやふたつではない。

「なんかマサキって意外と、昔から変わってないね」
「なんなん急にディスんのやめてや……」
「いや違くて、なんていうか、なんとなく住む世界が違う人になったと思ってたから」
「なに言うとんねん。わいらほとんど同じもん食うて育っとるやろ」
「まあ……それはそうだけど」
「人間そうそう変わらへんよ」

 くるくるとフォークにパスタを巻いては頬張りながら、また当たり前みたいに言う。妙に説得力があって、そんなものかあと思ってしまった。幼馴染は私の目の前でお行儀よく振る舞わない。確かに、目の前の人物は今もすでに口元にソースをつけているし、そういえば普段立派に仕事しているのに私との会話内容は割としょうもない。マサキに対して過大評価をしているとは言わないまでも、眩しかった幼少時代が確かに存在する限り、自分がこの人にとって何者でもなくなる日は意外とやって来ないのかもしれない。

「まあええ歳なってくるとそれなりに肩書きやら責任やらそういうもんは増えてく一方やけどな。こう見えてわい結構すごい人間やねんで」
「知ってるけど」
「おもろいやろ。誠実やし、経済力もあるやろ、ほんで……」
「まだあるの」
「全部事実やからええねん。またいつでも遊びに来てくれたらええよ。ナマエなら歓迎や」
「うん。まあ、そのうち」

 曖昧な返事をするのはもはや癖のようになってきつつあるが、今日のマサキは眉尻を下げて笑っている。私は手を付けていなかったビールを開けてぐいっと液体を煽った。私が無かったことにしたいこと。直視できていないこれからのこと。マサキがまったく気にしていないとは思えないけど、あえて触れないようにしてくれて、変わらず接しようとしてくれているのかもしれない。
 そうこうしているうちにお風呂が沸いて、疲れているだろうと促されお湯をいただいた。ひとしきり明日の準備を整えたあと、合わない高さの枕にのせた頭でまどろみながら思う。
 早く帰ってラッタに会いたい。眠るなら自分の家がいちばん安心する。だけど、最悪の一日になると思った割には、今なぜだかちょっと息がしやすくなっている。




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