鞄につめたのは、記憶が詰まったファイル、想いを書き記すエンピツ、慎重さを兼ね備えたケシゴム。不確かな夢行きの切符とそれを補う努力という貯金。大丈夫。忘れたものはなにもない。

 明日、試験場の私はどんな顔をしているのかな。わからない、けどそれは今考えることでもない。今はやるだけ。やれることをやるだけ。最後の最後まで詰め込んだ英文法が、ぐるぐる頭の中を駆けめぐる。アライブ、アット、目的地……あれもこれも、ちゃんと覚えてる。あとは自分を信じよう。気持ちを新たにし、ずり落ちたリュックを背負い直すと、ホームに抑揚のあるアナウンスが流れた。まもなく、列車がまいります。音楽のようなそれを聞き流して、アット、ステイション。ここは通過地点だ。方舟はわたしを拾い、次の場所を目指して動きだす。息を飲み踏み出そうとすれば、人の波の足音を割って階段を走る二段飛ばしのリズムが響いた。人ごみの隙間を振り返る。


「ナマエ!」
「マサキさん」
「ああ〜良かった。間に合うた」


 ちょっと、タンマ。切れ切れに言うと彼は上がった息のまま上半身を垂れた。どくどくどく。見送りになんて来るわけないって自分に言い聞かせていたはずなのに、やっぱり心のどこかでは期待してしまっていた。溢れかえるほどの不安で泣きたかった瞳、そこからいま確かにこぼれてくるのは、紛れもなくあたたかさを湛えた笑みだ。
 このひとがどれだけ急いでここへきたのか、私は上下する肩からしか窺い知ることはできない。だけどまさかこんなふうになるまで。いつもの自分だったらきっと格好悪いなぁと笑っていたかもしれない。なのに息をきらしていない私でさえ、今は彼と同じくことばすらもままならない。


「大丈夫。自信持って、行ったれ。な」
「それだけ?」
「なんやぁ、餞別でも期待しとったんか?悪いな、堪忍。残念やけど急いどって、何も、持ってきてへんねん」
「ううん、そういうのじゃないです、けど」


 たったそれだけのために、こうしてわざわざ来てくれたことが嬉しい。続けようとしたけれど、声にはなってくれなかった。遠慮なしに髪の毛を掻き回す手が、言わんでもわかるわって言ってるみたいで温かい。決まった行先も掴みたい居場所ももたない私が、彼の人生と交わったあの日。このただひとりの前でだけ、口下手になる私を知った。彼の通う大学へ憧れを抱いて、その高い壁に絶望した日もあった。じょうずに質問もできない私に彼が厚意でくれたたくさんのアドバイス。諦めないでペンを握り続けたのも、甘酸っぱい気持ちに水をあげつづけられたのも、今ここに居る私にとって全てがかけがえのないものだったからだ。


「ナマエ、頑張り」


 発車を知らせるメロディーが鳴り、慌てて髪を撫でつけ連絡口へ向き直る。車内へと体は向かうのに、まだここで勇気づけてもらいたい気持ちが後ろ髪を引く。あと少しだけって振り返ろうとすれば、陸地の君に背中を押された。ほとんど強制力を持たない手ではあったが、私は慣性に従うようにして歩みを進める。何か言おうとする前に、扉が声を遮った。


「待ってる」


 透明な壁の向こう側。ほんのわずか浮いただけの唇も、欲しかった言葉を紡いだのなら、勝手な臆測でさえ確信へと変わる。ガラス窓が阻んだはずの声がちゃんとここまで届いたような気がした。

 わたしには、わたしの事の顛末を、誰よりも先に知らせたい人がいる。それがあまりに心強くて、私はもう、後ろを振り返らなかった。

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