「あ」


 びゅごお。風が高く鳴く方へと視線は向かい、幸か不幸か、僕はベランダに干したタオルが吹っ飛んでく瞬間を目にしてしまった。安物の洗濯ばさみに挟まっていた白布が宙を舞う。転びそうになりながら慌ててガラス窓を引いた。


「今日は風が強いですね」


 風にさそわれ外へよろけ出たとき、何よりもまず最初に見たもの。うるわしく畳まれたバスタオル(たった今飛んだはずのうちのやつだ)の香りに埋まる隣人の姿であった。余所ん家の洗濯物なんか匂うか普通?と思いながら、「輝く白さ!」なんて謳うCMさながらの絵になる姿に言葉を失う。咄嗟に出た「ども、」から始まる挨拶はかなりぎこちなくて笑えた。


「いい香りですね」
「ああ多分、柔軟剤の匂いやと、思いますけど」
「そうですか。最近の風は特にきまぐれですから、気をつけてくださいね」


 どぎまぎしつつ、伸ばされた細腕からタオルを受け取る。ふわり、返ってきたタオルは知らない香りを連れてきて、気付いた時には部屋に戻ろうとする隣人を呼び止めたあとだった。


「あの、香水とかつけてはります?」
「?、いいえ」
「え……ああ、いやすんまへん。何でもないですわ。タオルほんまに助かりました。ほんじゃ」
「あ、もしかしたら」


 静かに部屋に戻ったあと、脱力する手足に任せてソファへなだれ込む。「柔軟剤の香りかもしれません」と去り際に付け足された言葉が頭から離れない。むず痒い感覚がなかなかおさまらず、新鮮でも何でもない部屋の空気をタオルの前でなら、と深呼吸をしてみた。ヘンタイとは何を以てして言うのか今まで考えたこともなかったが、少なくともこれは完全にアウトだろうと確信した。手繰り寄せた消えかけの残り香は、ラベンダーやらなにやらの調合されたフローラルの香りではなく、クリーンな印象を受ける正統派の調香であった。

 隣の芝生が、柔軟剤が、青く芳しく見える。生涯絶やしたことのなかった知識欲が不純な方向へとねじ曲がり、湧き上がってくるのがわかった。知らないことに対しての貪欲さを嘆いたことなんてなかったが、今回ばかりは頭を抱えた。お隣さんの香りは、使っている柔軟剤は、一体なんであろうか。

 石鹸の香りだとかシャンプーの香りだとか、清潔感を散りばめたそれらには、個人の好みに先立って心を惹きつける何かがある。すれ違いざまに感じる柔軟剤は、好感度の高い婦女子の代名詞と言ってもいい。まさにそんな理想とも呼べるもののひとつなのであった。


「ふーん。センセイって、変態なのか純情なのかイマイチわかんないのな」
「それ、どーいうこっちゃ」
「べっつにぃ、訊いたらいいじゃん。何つかってはるんですかあって。ついでにブラの色とか訊いたらいいじゃん」


 クソ生意気な中二男子を担当する家庭教師のバイトは、教員免許状取得のための勉強と並行するのに都合がいいだけでなく給与も中々という、使い方次第ではそこそこ美味しい仕事である。そんな派遣先で、毎度赤点必至であり指導に重点を置いて欲しいと念押しされたのは数学だ。余裕をかましていたのが裏目に出たのか、無駄話を持ちかけてきた中坊の前で迂闊にも柔軟剤の話をこぼしてしまった。


「ベッド下のエロ本がどうなってもええ言うんなら好き勝手言いや」
「げー、なんでバレてんだよ」
「みんな大体この道通ってくんねんで」
「つうかセンセイさ」
「無駄話はもうええから、早よここの面積出しなや」
「俺的にはセンセイこそ柔軟剤っぽい匂いすると思うよ」
「面積!」
「うげえ」


 ほう、それは知らなかった。

 自分が来るようになって3ヶ月にもなるというのに、つい先日見せられた通知表は相変わらずの荒れっぷりである。こちとらハイパーわかりやすい解説をしているつもりなのだが、教え子はどうにも気が多いらしく、その場では理解せしめたはずの解法も数分で霧散しているようであった。

 ただ星の数ほどある無駄話のなかで気付かされたことがたくさんあるのも事実だったりするわけで、だから思春期の男子中学生も早々舐められたものではないと僕は思う。教え子の進級も自分の任期も近いということを自覚しつつ、字の汚い回答用紙に大量の朱を入れた。


「じゃあ、今日はここまでな。ちゃんと復習したれよ」
「ういーす、センセイもガンバ」


 余計な御世話やと返して、教え子が見送る玄関を出る。今日の太陽は既に西へ沈みかけていた。期待した日に限ってバイト先家庭の夕食に誘われることはなく、食いっぱぐれたことを独りきりの帰路でぼやいた。


「あれ、こんばんは?」
「あ、」


 そんな時にだ。なにやら重そうな袋をいくつか提げた麗しのお隣さんに声を掛けられたのであった。ナチュラルに小首を傾げる様子は一々たちが悪く、年頃の男子にとってのそれは酷く悩ましいものですらある。手のひらで自分を転がす神ってやつはひとの機嫌のとり方に長けているのか、うまくいかない日々の代わりに少しの褒美を用意してくるらしかった。有り難く享受することにして、暗がりのなか出遅れて挨拶を返した。


「ソネザキさんもお買い物ですか」
「あ、いや僕はバイトの帰りなんで」
「そうなんですね。お仕事お疲れ様です」
「はは……そんな大層なもんじゃ」


 何を話題にしていても、意識はぬかりなく芳る柔軟剤に向かう。お節介なアドバイスを貰った直後であることを抜きにしても、やはりそう簡単に邪念は断ち切れないのだと思い知った。ブラの色は確かに気になるが。


「重そうやん、持ちますわ」
「いえそんな……悪いです」


 帰る先が同じアパートであることから、自分らは自然と隣を歩くことになった。重そうな袋はやはり見込んだ通りに重く、手伝えてよかったと率直に思う。隣人ははじめ申し出を断ったが、かわりに私物のリュックを背負ってもらうという条件で首を縦に振った。ばかでかい容積の割に中身は財布くらいしか入れていなかったため、彼女は騙されたと言わんばかりに不満を漏らしていたのだが、交換してしまったからにはもう遅い。一方の自分は手の平に掛かる重みに満足を覚えている。力仕事を引き受けることで自分は男をアピールしたかったのかもしれない。こんなフラグの立ちそうなイベントは時期尚早すぎやしないかとも思ったが、勝手に前提としていたものに気付いて直ぐに馬鹿馬鹿しくなった。ミスマッチになるとばかり思っていた自分のリュックは隣人に似合っていて、ロマンを感じると共に複雑な気持ちになった。


「今日はまた、随分と買い込んだんとちゃいます?」


 あまり無茶をしない方がいいと何様な心配のニュアンスを込めたつもりが、これでは遠回しに重いと皮肉を言っているも同然だ。目配せした彼女は案の定むっとしていた。やっぱりひとつくらい持ちますよと腕を突き出してくる隣人に対して、妙にかたくなになる自分は滑稽以外のなにものでもない。が、虚をついてでも袋を奪おうとした腕を軽々とかわすことができるあたり、かっこつける余力がまだあったのだなと安心してもいる。


「……今日は日用品を買ったんですよ。その、無駄遣いとかではなくて」


 諦めた隣人が溜め息混じりに言う。ふうんと気のない風を装って相槌を打った。日用品。重量からいって、飲料水の買い溜めかなにかかと思っていたのだが。柔軟剤の替えでも買ったのだろうか。


「新しい柔軟剤を買ったんです」


 一瞬、心を読まれたのかと思った。読み上げられた銘柄に対しての驚きようは、手荷物を全部落としてしまってもおかしくないほどのものであった。いい香りですよねと同意を求め笑いかけてくる隣人が無意識なのだとしたら恐ろしいことこの上ない。女ってもんは何を思ってこういった意味あり気なことをしでかすのか。拍子抜けすると同時にまた勝手に他意を期待してしまって情けなくなった。途端に空腹が現実味を帯びて、さらに自分に追い討ちをかけてくる。

 不確定要素に喘ぐ。知りたかった事実に溺れる。夕方なんだか夜なんだか、曖昧な色の雲が空を這う今、オトナリサンの纏う香りがウチのタオル、ひいては僕自身と同じものになるということだけが明瞭な事実であった。


「そら、奇遇やな」
「奇遇ですね」


 続ける言葉は正解ではないかもしれない。慎重派の僕はまだ知らぬふりをして、はやりだす心中を隠しておいた。これは自分への挑戦なのだろうか?少しも動じずにこりと笑う隣人の腹の内は相変わらず靄がかっていて底が知れない。そうだとも。僕は時間をかけるべきだ。











隣人ちの柔軟剤をよこしまな意味で知りたがってたら、隣人の方から我が家の柔軟剤を特定して意味ありげにお揃いにしてきた話


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