彼女に手を引かれるままに辿り着いた先は俺の住むコンクリートだらけの場所とは別世界のようだった。緑と青がどこまでも広がっているように見えるその地に唖然としていると彼女は急に俺の腕の裾を引っ張る手を緩める。目線を裾に向けて何かを言おうとした彼女はうまく声が出せないようで、やがて諦めたような苦々しい笑みで喉に手を当てた。俺は彼女にポケットに入れていた携帯を差し出した。不思議そうに携帯を触る彼女にこうやるのだと文字を打ってみせると苦々しかった顔は一気に笑顔へと変わった。やがて文を打ち終わった彼女は携帯を俺へと渡す。「シャツ皺にしてごめん」申し訳なさそうにしている彼女の気持ちは十分に伝わった。
「いいよ、気にしないで。それよりここはどこなの?」
「私の住処よ」
「君の?綺麗な所だね」
「きて」
彼女は俺の手を取り早く来いと言わんばかりに催促する。そんな彼女に着いて行っていいものかと思案したが楽しげな彼女を見ていたら着いて行かなければ行けないという気になってくる。風が鳴る。稲穂が音を立てて叫ぶ。彼女に預けた手は本体より前へ前へと進んでいく。ここで振り解いたらどうなるんだろうと好奇心が俺を誘惑したがそれに乗ることはしなかった。
森は外より清涼だった。轟々と木々が騒ぐ。これから彼女が何をする気かも頭になくて漠然とした意識の中どうにか個々の存在を確立しているような状態。広い場所に出て彼女は立ち止まる。
「君は今の生活が楽しい?」
「今の生活…まあ退屈はしないかな」
「羨ましい、君は自由なんだね」
「そうでもないよ」
「私と同じ?」
「そうだよ」
「疲れる?」
「たまにね」
「嫌になる?」
「たまにね」
「なら私と一緒にいようよ」
最後の彼女の一言だけはなぜか心に直接ねじ込まれたような不思議な感覚がした。彼女は笑っているのに泣いていた。悲哀に満ちた彼女に同情して俺は頷く。いいよ一緒にいても。予想外だというように彼女は目を見開いた。多分これを承諾したら俺はいなくなるのだろう。だけどそれでも良かった。分岐点に立たされた俺が彼女と共に行くことも許されるだろう。だから聞きなれたこの声だって無視できる。幸村と呼ぶこの声だって捨てられる。
「行こう」
「…つまんないの。もっと連れて行かれる!とか騒ぐと思ったのに」
「今まではそうだった?」
「かもね。ああつまんないな。もういいよ、終わり。帰してあげる。まだギリギリ間に合うしね」
「間に合っても俺は死ぬよ。多分だけどさっきから利き手が動かないんだ。現実でもそうだと思う」
「なにか不便でも?」
「テニスが、出来なくなるんだ」
「…ねえこの機械素敵ね」
「えっ携帯?」
「これもらうわ。そのかわり、」
言葉が終わらないうちにどんっと彼女が俺を突き飛ばして俺は深い闇に落ちた。じゃあねさよなら。その声はやけに耳につく。俺はとんだ死にぞこないだ。
幸村と呼ぶ声はどんどん近づいている。一度捨てる覚悟がついたはずなのになんて懐かしいんだろう。
起きあがると葉っぱが一枚ひらりと落ちた。なんでこんなものが?と不思議に思っているとがばっ!と、部長〜!と鼻水を垂らす赤也に抱きつかれる。汚いなあと思いながら引っ付く赤也を剥がすと涙目をした仲間がベッドの周りにずらりと並んでいるのに気がついた。みんな口々に良かった良かったと言うのに何のことだか分からず首を捻ると、真田から事故にあったことを聞かされる。しかし強打したはずの右腕には一切怪我がなくテニスに支障はないそうだ。へえ、覚えてないや。短く返事をして窓の外を見た。
「そういえば幸村くん、さっきから携帯通じねえんだけど壊れた?」
「あげたよ」
「は?誰に?」
「…誰にだっけ?」
自分の携帯を誰かにあげるなんておかしいなと思いつつ死んだはずの右腕を撫でた。
君が思い出せない
素足に浸る様提出