「ごめんな」
口を開けばついそう言ってしまいそうになる。それはお前の弟をこんなダメな奴の元で働かせてごめんな、とか、お前の弟に給料払わなくてごめんなとかそういうごめんなではない。いや、そういうごめんなも言わなくてはならないけれど。
「妙、ごめんな」
「なにがですか?」
「…なんでもない」
今日も彼女は髪を一つに結い上げて慣れた手つきで家事をこなしていく。実年齢より随分と落ち着いている物腰や、考え方はたった一人の肉親として保護者としてまだまだ頼りない弟を護ってきた証なのだろう。本当はまだまだ遊んでいたい年頃だろうに、水商売なんかして、そしてこんな男にひっかかって。
「銀さん」
「…ん?」
「ちょっと、休憩しましょうか」
そう言うと彼女はまたも慣れた手つきで茶を汲みはじめた。なんて幸せな風景なのだろうか、なんて愛しい風景なのだろうか。
「はいどうぞ」
「どうも」
「あ、たしかカステラがあったかしら」
「まあいいよ後で、とりあえず座れって」
「そうですね」
違和感なくちょこんと俺の隣に座る彼女から、見た目にそぐわない、なまめかしい香りがしてぐらりと視界が歪んだ。水商売だから仕方ないとは分かっているけれど、どうも慣れない。この、年端もいかない女の子が女の香りを振り撒くことが。
「妙」
「はい」
「それ、嫌だ」
「どれですか」
「香水?よくわかんねえけど、その匂い」
「ああ…試供品だったんで使ってみたんですけど、嫌でした?」
「…ん」
細い肩に顔をうずめれば更に香りが強くなる、ああ、嫌だ本当に嫌だ。どうして俺はこんなに考えの浅い人間なんだろう。どうしてこいつはこんなに若さを隠すように女を纏うんだろう。考えれば考える程答えは望まない方向へと進んでやっぱり、懺悔したくなる。
「…妙、ごめん、ごめんな」
「…銀さん」
「なんで俺なんだろう、ほんとにほんとにごめん」
「…ちょっと」
「こんなはずじゃなかった、のに」
こんなふうにしたくてこの女を好きになったんじゃないのに。ただ、こいつが笑える場所を守りたいと思っていただけなのに。いつの間にかこいつも俺を好きだと言って、俺はそれに甘えて抱きしめてきたけど、そんなの間違いだ。
「俺は、人を殺した」
「…ええ」
「天人だからとか、そんなの関係ない、歯向かう奴らみんな殺した」
「…ええ」
「そんなの普通じゃねえ、そんなのが普通な奴なんかであっちゃいけねえんだ」
このまだ世界の汚さの何十分の一も知らない様な十代の少女が好きになるのは、人を殺したことがあるような、それが当たり前であるような男であってはいけないはずなのに。逆に俺にこの底抜けに優しい少女を好きななっていい理由などないのに。
「だけど、無理なんだ、手放したりなんか出来そうもないんだ」
「…私をですか」
「どうしようもねえ、ほんとに」
「謝らないでください」
「え?」
「謝ったら殴りますよ」
「は、妙」
「だって謝らなくちゃいけないのは私です」
そう言えばいつの間にか妙の冷たい手が俺の頬に添えられていた。長い指が微かになぞるように動く。
「…さっきの香りだって、全部狡いのは私です」
「…なに」
「貴方に見合うように背伸びして、愛想尽かされないように女になって。貴方が苦しんでいたのを知っていながら」
妙の赤い唇が動く度に泣き出しそうな声が洩れた。濡れた瞳が今まで見たことないほど女であった。
「貴方が、私の為に私を嫌いになろうとしてたことくらい分かってるんです。だから嫌だったから、そんなの寂しかったから」
引き止めたんです、女を使って。
そう言った彼女は年相応の考えの浅い少女だった。何も知らない世界の狭い、浅はかな少女。そんな少女の唇をふさいで、狭い世界を更に狭くするのは紛れも無い俺であった。
「だから、行かないで下さい。人を殺した事があろうが、だからなんだって言うんですか」
「…普通のことじゃねえよ」
「普通じゃないといけないんですか?例え嫌な女だって言われたって私は、殺した人の命合わせたって貴方の方が大事なんです」
「…ごめんな」
こんなこと言わせて、結局俺ばっかり嬉しくなって、謝られる度に傷付いていたのは捨てられまいと必死に幼さを隠すこいつだった。餓鬼は俺の方だ。
「妙、やっぱり香水なんかつけなくていい」
「…はい」
抱きしめた彼女からはやっぱり、女の香りがした。