※吉原炎上篇後
ふいに万事屋を出て行きたくなった。まだ誰も起きていない真夜中、押し入れの中でふと目を覚まして、ふと思い立って。押し入れは真っ暗で何も見えないけれど、もう私に染み付いた万事屋の所帯じみた匂い。少し外に出れば万事屋の主のマダオの寝息が聞こえて来るだろう。戻ってきた日々と優しさと仲間に、どうしてこうも急に別れたくなるのか。
「マミー、パピー」
やけに大きく自分の声が響いて聞こえる。
「よっちゃん、そよちゃん」
大好きな人達と大好きな物達と大好きな食べ物に囲まれた毎日。
「ババアにマダオに税金ドロボー」
どうしたの私、どうしたの。こんなにも私を責める物はなに。みんな変わらず優しくて、みんな変わらず暖かいのに。
「銀ちゃん、新八」
誰も居ない場所に行ってしまおう。知っている人の居ない街へ。かぶき町ではないところ、私が夜兎だとばれないところ。アルプスの少女なんとかみたいな、敵のいない場所に行けば戦わなくて済むかもしれない、そうしたら私夜兎の血に脅えなくていいかもしれない。
「…出ていこう」
バイバイ銀ちゃん、バイバイ新八、バイバイ定春、バイバイ大好きな人達。
私は人間じゃなくていくら取り繕ったって国籍は変わらないように、親は変わらないように、私が夜兎という事実も変わらない。血は争えないとは言うけれど、こないだだって私は新八がいなかったらどうなっていたか分からない。見境もなく誰かを傷つける、汚い両手で。だからバイバイ。
襖を一枚開ければ、見慣れた万事屋の景色が広がる。ひやりとする外の空気を吸えば、急に冷気に晒された胸がぎゅっと痛んだ。ギシギシと古い万事屋の床がなる。うるさくて敵わない、ばれちゃうじゃない。
「…かぐら」
ふと掠れた声が引き留める。ほら床がギシギシとうるさいからばれちゃったじゃない。
「神楽、気を引くのもいいけどな」
おい、せめて布団から出てこいよマダオ。
「夜のかぶき町は危ねーぞォ、だからな」
だから布団から出てこいって言ってんだろクソ天パ。
「出てくのは、新八の朝飯食ってからにしな」
チクショーどうして加齢臭のする布団にくるまったままのオヤジにされた説教にこんな気持ちにならなきゃいけないんだ。
「…うるせーよ天パ」
「あ?寝ぼけてんのかテメー、俺は今日試供品のシャンプー使ったからな。明日にはサラッサラストレートだ」
「勝手に夢見てればいいネ、下らないアル」
「ほっんと失礼な奴だなお前」
「銀ちゃんみたいなアホと会話してると疲れるアル、寝るネ」
「おーおー寝ろ寝ろ」
馬鹿みたいだ私。勝手に自分は特別だと思って、私がそばに居ると危ないから出て行かなきゃなんて思って。なにが危険だなにが戦闘部族だなにが夜兎だ。私はこんなにも所帯じみた匂いがする。あの天パと眼鏡と同じ匂い。
「おやすみ銀ちゃん」
押し入れの布団に潜り込めば、なんだか懐かしい場所に帰ってきたような、そんな気がした。