まだ会えぬ君に、伝えたい

 ランサスの提案により始まった語学講習は思ったよりもサヨに好評であるらしい。
 もとより文字を覚えることに意欲的ではあったが、最近のサヨはメモ帳だけでなく教科書の代用品として彼から与えられた児童書も持ち歩いている。どうやら宿題として読み聞かせの課題が出ているらしく、専らその朗読を聞く役目はジムで育てているポケモン達になっているそうだ。
 しかし、残念ながらサヨが朗読を始めるとポケモン達はすぐに眠ってしまう。言葉をあまり理解していないこともあり、あまり興味がないのだろう。昼寝をさせるのに都合が良い、と飼育係となったジムトレーナー達には大変喜ばれているが、嫌がって逃げるポケモンもいた。そういう時は負けず嫌いのサヨの闘争心にも火が点くらしく、「これならどうだ」とまだ拙いながらも新しい本を取り出して強制的に読み聞かせているのだとか。意外なところで向上心を役立てるサヨの話を聞いて、レナとヒトミは感心の声を漏らしていた。
「あれ、何冊目でしたっけ?」
「ここ最近は毎日違う本だったから……二十くらい?」
 読み聞かせを始めた当初は間違った読み方をしてばかりでサヨの児童書には赤文字がたくさん書き込まれていたが、ここ最近の新しいものには必要最低限のマーカーが引かれるだけである。
 最初の頃はその拙い読み聞かせに相棒のピチューですら居眠りをしていたが、一ヶ月を過ぎた今ではスラスラと文章を読み上げられるようになったサヨの声に耳を傾けているので、その成長ぶりは言うまでもない。ランサスはそれほどまでに良き師であった。
 このことについてはサヨだけでなく、キバナを含めたナックルシティジムの全員が手放しに喜び、その巡り会わせに感謝した。
「あの調子だと、うちの事務員として雇えるようになるまでそう時間はかからないですね」
「そうだな。ようやくこの繁忙期の事務仕事も減らせるか……」
 リョウタの言葉に、キバナは手元にある書類の山を見てため息を吐く。
 ナックルシティの事務員は数が少ない。ほとんどが主婦の女性か、年老いた男性である。あとはジムトレーナーが数名、空いた時間を使って手伝えるくらいだ。
 本来ならば、どの町のジムにも専属のような事務員が一人はいるのだが、ナックルシティにおいては少しばかりその人員の確保が難しい。
 原因は、他でもないキバナにある。
「キバナ様の見た目がもう少しアレなら、サヨさんに縋ることもなかったのに……」
「言うな、リョウタ。自分でもそう思ってるから」
「顔が良いって、本当に得することばりではないんですねえ」
 そう、キバナの見た目は女性の目の保養になる。そこに加えて愛想も良く、困っている人を見捨てられないお人好しと面倒見の良さが仇となり、世の若い女性達を勘違いさせやすい状況を作り出していた。そのせいで何度も恋愛トラブルが勃発し、いよいよリーグ委員会から注意を受けるという異例の事態にまで発展したのである。
 が、そこで一つ問題が起こった。
「あそこでムキになったキバナ様が『今後一切、ナックルジムのポケモンに認められない奴は採用しない』なんて言うから、うちで採用できる人材がジムトレーナーばかりになったんですよねえ……」
「事務仕事できるトレーナーなんてもう貴重なレベルですよ……」
「悪かったって……でもほら、おかげでサヨみたいに良い奴も現れただろ?」
 微苦笑を浮かべながらキバナがそう言うと、リョウタや他のジムトレーナー達は一斉に白けた目を向けた。
「その彼女がずっとここにいてくれるかどうかもキバナ様次第なんですけどね」
「そうですよ。記者と女には今まで以上に気をつけてください。次にハニトラされて熱愛報道なんてあったら、今度こそサヨちゃんに避けられちゃいますよ」
「いや、これでも俺様かなり頑張ってるんだけど? っつーか、もうすでに二人きりになるの避けられてるし……この前もランチに誘ったらなんとなく嫌そうな顔されたし……」
 実に辛辣なコメントを受け、キバナはつい先日のサヨの反応を思い出しながら肩を落とす。
 そんなキバナの言葉に、話を聞いていた女性陣がにっこりと満足げに笑って頷いた。
「サヨちゃんは真面目ですからね」
「私達があらかじめ注意するよう伝えておきました」
「わー。俺様、優秀な部下がいてくれてちょー嬉しい。涙が出そう」
 ――決してその涙は嬉し涙なんかじゃないけど。
 先日のサヨの態度が彼女達の善意によるものだと知り、男性陣から同情の眼差しを向けられたキバナは、己の視界が僅かに歪むのを感じて手で目を覆い隠した。
 そこへ、ちょうど今話題に上がっていた人物がピチューを肩に乗せたままひょこっと事務室の扉から顔を出した。
「キバナさぁん。私、そろそろランサスさんのところに行ってきますね……って、どうしたんですか? 目に砂でも入ったんですか? 大丈夫ですか?」
「やばい。サヨの純粋な優しさが心の傷に沁みる」
「心の傷って……キバナさん、鋼みたいに丈夫そうなのに……そんなに傷つくようなこと言われたんですか?」
「「「ぶふっ」」」
「お前までそういうこと言うのやめてくんない? 俺様はこう見えてかなり繊細なんだからな。……おいそこ、笑いたきゃ笑えよ」
 不思議そうな顔で首を傾げるが、その目はどこか気遣うようなものだった。どうやらサヨなりに本気で心配しているらしい。そんな彼女の言葉にまたもや傷つきながら、キバナは自分達から顔を背けて肩を震わせる自分の部下達を睨みつける。
 だが、笑い続けている今の彼らにはキバナの鋭い睨みなど効果がないようだ。
「ったく……まあいい。サヨ、ランサスさんのところに行くならこれも一緒に持って行きなよ」
「? なんですか、このチケット?」
 サヨは手渡された紙を不思議そうに見つめる。
「えっと……えきしびじょんまっち……? 場所、ナックルスタジアム……対戦……え、キバナさん!?」
「おー、えらいえらい。ちゃんと読めたな。毎日頑張ってるご褒美にそれやるから、ランサスさんと一緒に観に来なよ。お前、一度もポケモンバトル見たことないだろ?」
「テレビで少しだけ見ましたよ。ダンデさんの」
「俺の! 俺のバトルを見たことないだろってこと!」
「キバナさんのも見たことありますよ? いつもみんなと特訓してるじゃないですか」
「そうじゃなくてだな……」
「公式のバトルはダイマックスを使いますから、いつも見る訓練のバトルとはまた一味違うと思いますよ」
 何が違うのか、と首を傾げるサヨに助け船を出したのはリョウタだ。
 サヨは『ダイマックス』という言葉に聞き覚えがあるらしく、僅かに頬を引きつらせた。
「ダイマックスって、めちゃめちゃポケモンがおっきくなるアレですか……?」
「そうそれ。公式バトルではそれを使って戦えるんだよ」
「あれを間近で見る……? まじで……? こわ……」
「まあ迫力も一味違うけどな。観客席には特殊なバリアが張られてるし、被害は出ないから安心しなよ」
「あ、それなら見れるかも……ランサスさんに聞いてみますね!」
 ガラルの名物とも言われるジムチャレンジすら知らなかったサヨのことだ。当然のことながら観戦における会場のシステムなどを把握しているはずもなかった。
 興味はあっても『バトル』という物騒な言葉に身の危険を感じていたようで、ひとまずキバナの説明に安心したサヨはホッと息を吐いて表情を和らげた。
 そんな彼女の反応にキバナがこっそり握り拳を作って喜びを体現していたことは、二人のやり取りを見守っていたジムトレーナー達だけが知る話である。


 *** *** ***


「私、これすごく気に入ったわ」
 カチ、とキーを押した時の少し重たい感触。
 同時にカタンと跳ね上がるアームの先端が紙に文字を打ちつける音。
 それが堪らなく好きなのだと、そう微笑む彼女を愛おしく思っていた。
 最初は恐る恐るといった風に打ち込みたい文字を探していた指も、今ではピアノでも弾いているかのように流れる動きを見せている。
 それだけ長い時間タイプライターに触れているのだと知って少し複雑な気持ちもあったが、自分が買い与えた物を素直に喜んでくれる彼女にランサスも「それなら良かった」と表情を綻ばせた。
「もう随分と上達したでしょう」
「ああ。タイプミスもないし、才能あるんじゃないか?」
「ほんと? 嬉しい……働けるようになったら自信を持って事務職に就けるわね」
 ――そんな未来はないけれど。
 口に出さずとも胸の内でそう思っているはずなのに、彼女はベッドの上で穏やかに未来を語る。
 いくつか年上の彼女は聡明だが、諦めるという言葉はあまり口にしなかった。理解していても、口にするのは可能性を信じる言葉だけだった。
 だから、そんな彼女の気持ちを察して、周りも何も言わなかった。口裏を合わせるように彼女の話に相槌を打つだけだった。
 ランサスもまた、その一人だった。暗くなる気持ちを押し殺して、しかし、微笑む彼女を見る度に『きっと』なんて叶うこともない未来を心のどこかで待ち望んでいた。
「ねえ、ランサスは今年もジムチャレンジに参加するの?」
「いや……どうかな……」
「ええ? せっかくワンパチが進化したのにもったいない……今度こそチャンピオンになれるかもしれないわよ?」
「あのな……そんな簡単な話じゃないの」
 少し呆れも滲ませてそう力説すれば、彼女は残念そうに肩を竦めた。
 ランサスがテレビで報道されるのをいつも喜んでいただけに、参加を躊躇うランサスに落胆しているようにも見えた。
「それに……僕、他にもやりたいことがあるっていうか……」
「え? 何なに?」
「商売がやりたいんだ。ジムチャレンジしてる時って色んな人に話しかけられるんだけど、なんか、こう、人との繋がりがちょっと嬉しいっていうか、楽しくて」
「わあ……! それ、とっても素敵!」
 パアッと宝石のような美しい瞳が輝き、ランサスの話に興味を示す。
「まあ、親には反対されてるんだけどね……」
「そうなの? とても素敵な夢なのに……」
「商売を甘く見てるって言われてたよ」
「でも、それがランサスのやりたいことなんでしょう? 私は応援するわ!」
 この時の彼女は笑っていたけれど、珍しく真面目な顔をしていた。
 そして、いつになく真剣な声で彼女は言ったのだ。



「ねえ、ランサス。本当にやりたいと思ったなら、絶対に諦めちゃ駄目なのよ。希望を持っていれば、きっと夢は叶うんだから」

 ――叶わない夢もあったのだと、君に伝えられたらどれだけ良かったのだろう。

 あの時、背中を押してくれた初恋の君。
 僕よりもうんと早く遠くへ旅立ってしまった君に会えるのはまだ少し先になるけれど、いつか再び会うことができたら、その時はたくさん聞かせてあげたい話がある。



 カタカタカタカタ。
 今では耳慣れた音を聞きながら、ランサスは一人静かにタイプを続けた。
 長年愛着を持っていたこの店とも、もうすぐ別れの日は近い。あと数日もすれば、この店の中にあった荷物は全て取り払われてしまうのだろう。物悲しく侘しい思いが日々積もるばかりだが、決して悪い感情だけが胸の内を占めているわけではなかった。
 ――でも、思ったより心残りが少ないのは、多分……。
 チン、と改行を知らせる音が鳴った。
 促されるままバーを移動させ、最後の一文まで書き終えたランサスは、店の中に残しておいた時計に目を向ける。
 そろそろ教え子がやって来る時間だ。
 思い出の中にいる『彼女』に似た、若い女の子。
 聡明で、素直で、諦めることを知らない真っ直ぐな娘。
 きっと、彼女は今日も授業を心待ちにした表情で飛び込んでくるだろう。
 ランサスはタイプライターに差し込んでいた紙を抜き取り、それを丁寧に折り畳むと近くに置いてあった封筒に入れた。
 カランコロンと音を立てて店の扉が開いたのは、ランサスがその封筒に切手を貼り終えた時だった。
 扉の向こうから現れた人物を見て、床に伏せていたパルスワンがゆっくりと立ち上がって尻尾を揺らした。
「こんにちは、ランサスさん」
「こんにちは、サヨさん。今日は随分と嬉しそうな顔をしているね」
「そうなんです! ランサスさんにプレゼントがあるんですよ!」
 プレゼント、という言葉にランサスは何かと首を傾げる。
 小走りで駆け寄ってきたサヨは、じゃーん、と見せびらかすようにその紙を差し出した。
「なんと、キバナさんのエキシビションマッチのチケットです!」
「おやおや……そんな倍率の高い観戦チケット、どこで手に入れたんだい?」
「キバナさんから頂きました。ランサスさんも良かったら一緒に、って……あ、ポケモンバトルがあまり好きじゃなければ、無理にお誘いはできないですけど……」
「フフ。心配しなくてもいい。これでもバトルを見るのは大好きでね……若い頃はチャンピオンを目指して何度もジムチャレンジに参加したものだよ」
 チケットを受け取りながらランサスが懐かしむような顔でそう言えば、サヨはパアッと目を輝かせた。
「えっ、ランサスさんもポケモントレーナーなんですか!?」
「昔の話だけれどね。夢半ばで諦めたけど、なかなか楽しい旅だった。ワイルドエリアなんかは特に面白かったね」
「ええ……? 私はあそこ、あんまり好きじゃないです……怖いポケモンたくさんいるじゃないですか」
 ワイルドエリアの話題になると、サヨは苦虫を噛み潰したような顔になる。余程怖い経験をしたのか、今までにない嫌悪感が滲み出ていた。
「まあ、悪い事ばかりでもなかったですけど……ピチューと出会えたのもそこですし……」
「冒険に危険は付き物。そして、ワイルドエリアは数多のトレーナーとポケモン達の出会いの場所でもあるからね。ガラルに来たばかりで良い事も悪い事も経験したのなら、今ここにいる君は強運の持ち主ということだよ」
 朗らかにそう諭したランサスに、サヨは表情を和らげながら「そう思っておきます」と微苦笑ながらに頷いた。
「それにしても、キバナ君は律儀な子だねえ。少し意外だったかな」
「? そうなんですか?」
「ああ。テレビで見るのとは大違いだよ」
 その言葉に、サヨはますます不思議そうに首を傾げる。
「あれ……? ランサスさんとキバナさんって、お知り合いなんじゃ……?」
「おっと」
 ランサスは思い出したように口を手で覆った。
 そういえば、そういう『設定』だった。歳を取ると昔話ばかり思い出して、最近の些細なことは抜けがちになるようだ。
 とはいえ、こうなってしまっては今さら隠したところで意味もないだろう。
 そう考え直し、ランサスは心の中でキバナに謝罪しながら素直に応えた。
「長年、ナックルシティで彼の活躍を見守ってはいたけれど、ここまで情に厚い男だというのはつい先日知ったばかりだよ。いやはや……メディアの報道というのも、あてにならんものだね」


 初恋の君。
 話したいことがたくさんある。

 君がいなくなったあとのこと。
 少しずつ変わっていった街のこと。

 そして最後は――僕の店に訪れてくれた、君にそっくりな優しい女の子と、彼女を想うドラゴンの話を。


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