優しくありたいと願うもの

「ヌメェ〜ッ、メッ」
「ぴ、ぴぃか、ぴっ」
「今日も可愛いねえ、君達は」
 口の広いバケツの中をのろのろと右往左往する生物はヌメラだ。両手に収まるぐらいの小さな体を揺らして楽しそうに声を上げるそれに、サヨはバケツの中の水を手で掬い上げてちろちろとかけてやった。降り注ぐ水を振り払うようにぷるぷると体を揺らしながら、ヌメラは嬉しそうに鳴き声を上げる。同じバケツの中に入ったピチューも、パシャパシャと小さな手で水を跳ねさせて楽しんでいた。
 無邪気で可愛らしい二匹の様子に、サヨはのほほんと笑った。
「ポケモン、ほんと可愛い……癒される……」
 なんとも呑気な光景である。
 気配を消して背後から近づいたキバナは彼女の隣にそっと屈むと、恨めしそうにその横顔を見つめた。
「思ったより元気そうだな、お前」
「キャァァアアアッ!!」
 まるで幽霊にでも遭遇したような甲高い悲鳴だった。
 あまりに大きな声で驚くので水遊びに夢中になっていた二匹の体が跳び上がり、近くを通りがかったジムトレーナ達も何事かと足を止めた。
 間近でその声を聞いたキバナも煩わしそうに表情を歪め、キーンと耳鳴りのする自分の耳を塞ぎながら抗議した。
「馬鹿! 声が大きい! こいつらもビックリしてるだろ!」
「あわわ、ごめんよ、ヌメラ、ピチュー……っていうか、キバナさんが気配を消して近づくからじゃないですか! もう、今、本気で心臓が飛ぶかと……」
 言葉通り跳ね上がったであろう心臓を押さえるように胸に手を当て、サヨはキバナに非難の目を向けた。
「というか、キバナさんはどうしてここに……? 撮影と取材があるって……」
「そんなの、とっくに終わらせて帰ってきたっての。それより昼まだだろ? 一緒に行こうぜ」
「え……外で食べるんですか? 二人で……?」
「おま……そんな嫌そうな顔するなよ。傷つくわ」
「だってキバナさんと二人きりになるとすぐあることないこと書かれるって…………いや、でも大丈夫か。私だし」
「その自虐的な開き直りもやめなよ。つーか……普通にランチ食べに行くだけで騒がれるわけないだろ。記者もそこまで暇じゃねーよ」
「この前のモデルさんとの熱愛報道は?」
「……うるさいから一回だけディナーに付き合ったんだよ。潔白、潔白」
「その前の大人気女優さんのお持ち帰り報道は?」
「あれは仕事帰りに途中まで一緒にタクシー乗せろってうるさいから乗せただけ。ちゃんと途中で降ろしたから何もない」
「……その前にあったファンの女の子と抱き合ってたっていうのは……?」
「ほろ酔い状態の時に夜道でいきなり死角から突撃されて躱せる奴がいるなら見てみたいよなぁ。参考にするわ」
「……キバナさん。私が言うのもなんだけど、女性と距離を置いた方がいいと思う……」
 いらないところで勘が鋭い。女難の気配を感じ取ったサヨは、あからさまに近づきたくないと言わんばかりにキバナから距離を取った。
 ――よし、分かった。
 女性問題については確かに上手く立ち回れなかった自分のせいだ。身から出た錆というやつでもある。しかし、キバナとて好きで定期的に世間を賑わせているわけではない。もちろん全てが嘘だとは言わないが、不可抗力である件についてここまでサヨに怪訝な顔をされるのも癪だった。
 ――こうなったら意地でも「一緒に行く」と言わせてやる。
 そう思ったキバナは、わざとらしく肩を落とすと眉尻を下げてしょんぼりと俯いた。
 サヨの性格はこの短い期間である程度理解している。どうすれば彼女が断りにくい状況になるか、深く考えるまでもなかった。
「……そうだよな、俺みたいな奴と一緒だと変に誤解されちまうよな。分かった……俺はただサヨと一緒にご飯が食べたかっただけなんだが……そんなに嫌ならしょーがない。悪かったな、無理言って。一人で行ってくるわ」
 いつもの自信満々なジムリーダーではなく女の一言で落ち込むただの情けない男に成り下がったキバナは、自分でも驚くぐらい哀愁の漂う声を発した。
 サヨはぶんぶんと首を横に振った。
「そんなことないです。是非ご一緒しましょう。どこへでもお供します」
 ――チョロイな、こいつ。
 恥もプライドもかなぐり捨てた渾身の演技は効果抜群だった。
 しんみりとした表情で背を向けようとした自分に一瞬で手の平を返したサヨを見て少々心配になるが、作戦が成功したことにキバナはほくそ笑む。
 そんな二人のやり取りをきょとんとした顔で見上げるヌメラの隣で、ピチューはどこか呆れたような眼差しを二人に向けていた。


 美味しいランチを食べたあと、ジムに戻る前に寄りたい場所があるとキバナが言えばサヨは大人しくついてきた。
 ナックルシティで生活を始めてもう何ヶ月も経つが、未だに彼女は町で見かけるポケモン達に興味津々なようだ。通りすがりの他人様の手持ちや、町の中で暮らす野生のポケモンを見つけては面白そうに凝視していた。
 あまりに夢中になっているので余所見して誰かにぶつかってしまわないか心配になるが、危ないと思ったところでサヨの肩にいるピチューが頬袋から静電気を放つので安心した。ベイビィと呼ばれるポケモンでありながらとても賢い個体である。
 ――まあ、あれもただの男の嫉妬だけどな。
 サヨの肩の上でぷくりと頬を膨らませるピチューを見て、キバナはこっそり微苦笑を浮かべた。男心にもポケモン心にも鈍感なサヨは相変わらず不機嫌な顔をするピチューに首を傾げるばかりだった。
「っと……着いたぞ、ここだ」
 ようやく辿り着いた目的地でキバナが足を止めると、サヨは目を白黒させながら建物を見つめた。
「え……なんでここに……?」
「入るぞ」
「えっ!?」
 明かに人の気配がしないその店の扉に手をかけたキバナ。小さな鈴の音を響かせて、店の扉はいとも簡単に開いた。
 臆することなく薄暗い空間へと足を滑り込ませたキバナに続いて、サヨもおそるおそるその後に続く。
 少しずつ整理されているのか、営業していた頃と違って店の中は隙間だらけだった。床にはたくさんのダンボールが散らばっており、商品棚の中身は空っぽ。ディスプレイとして飾られていたであろう机や椅子には布が被せられており、ところどころ掃除が行き届いていない場所には埃も目立っていた。
 殺風景にも見える店内を見渡しながら、キバナは足元のそれらを踏まないように避けて歩き、声を上げた。
「あれ……いないのか? ……おーい、ランサスさーん」
 すると、店の奥から一匹のパルスワンと一人の老父が顔を覗かせた。
 この雑貨屋の店主である。彼はキバナとその後ろにいるサヨに気づくと、「ああ」と頬を弛ませて柔和な笑みを浮かべた。
「おや。もうそんな時間だったかね」
「悪いな、無理言って」
「いやいや……前にも言ったが、僕も一度彼女とお話をしてみたいと思っていたんだよ」
 言って、穏やかな老父の目がサヨを捉える。
「随分と熱心にあのタイプライターを見つめていたからねえ」
「え、いや……あの……すみません……」
「気にしなさんな。責めているわけじゃない」
 見知らぬ相手に自分の奇行が筒抜けであったことに恥ずかしさを感じたらしい。ほんのりと白い頬を赤く染めながらサヨは委縮したように小さくなってしまった。
 そんな彼女を見て、老父は変わらず優しい声で応えた。
「初めまして、お嬢さん。この店の店主をしていました、ランサスといいます。こっちは僕の相棒のパルスワン。……良ければ、お嬢さんのお名前を教えていただけますかな?」
「ランサス、さん……えっと、初めまして。サヨといいます。この子はピチュー」
「ぴちゅ!」
 サヨがぺこりとお辞儀をして、ピチューは手を上げて挨拶をする。
 ランサスは少しばかり目を丸くした。
「……サヨさんか。良い名前だねえ」
「ありがとうございます。母が一生懸命考えて名付けてくれた、大切な名前です」
 幾分か緊張を和らげて応えるサヨに、ランサスは笑みを深くして何度も頷いた。
「……いい子だ。彼の話を聞いた時からなんとなく感じていたけど、こうして直接会ってみると良く分かる。そちらのピチューも、顔を見ればお嬢さんのことを信頼しているのが伝わってくるよ」
 サヨは不思議そうに自分の肩の上にいるピチューを見た。
 ピチューはランサスの言葉に満面の笑顔で鳴き声を返していた。
「ランサスさんは、キバナさんのお知り合いなんですか?」
「ふむ……そうだねえ」
 曖昧な相槌と共に、ちらりとランサスがキバナに目を向ける。
「伝手がなけりゃここまで来れないだろ?」
 平然と答えたキバナに目を細め、ランサスはサヨに向き直った。
「あのタイプライターが欲しいんだろう? アレを買うために、知らない土地でありながらも毎日頑張って働いていたそうじゃないか。あんなに熱心に見つめている子はそういなかったし、僕も君になら譲ってもいいんじゃないかと思ってねえ……だから彼に話を聞いて、一度君に会わせてくれないかと頼んだんだよ」
「い、いいんですか!? ……あ、でも私、今持ち合わせがなくて……」
 ぱあっと嬉しそうに目を輝かせたサヨだが、先日キバナの指示により買い物を余儀なくされたため手持ちが足りなくなっていたことを思い出し、しゅんと項垂れる。
 そんな彼女を横目に、キバナとランサスはお互いに目配せをした。
「お代については問題ない。タダで譲らせて欲しい」
「え」
「もともと、売り物にするかどうか悩んでいた代物だったんだよ。丁寧にメンテナンスをしているおかげで新品のような見た目だが、あれは僕の初恋の人が使っていた忘れ形見だからねえ」
 サヨの時が止まった。驚きと喜びに染まっていた顔から瞬く間に感情が消え、戸惑うように瞳が揺れ動く。
 これにはキバナもぎょっとした。
「……忘れ形見……」
「待て待て。それは俺も初耳だ。いいのかよ、そんな大事なモン勝手に売り飛ばして」
「はっはっはっ。心配せんでも、彼女が生きていれば同じように譲るだろうさ。誰にでも優しくて、努力家で、笑顔の素敵な女性だったからね」
 朗らかに笑うランサスは本気のようだった。心残りも感じさせないその雰囲気に、それで本当にいいのか、とキバナは頭に手を置く。
「それに、これを買ったのは僕だからね。病のせいで満足に外へ出かけることもできなかった彼女に、何か少しでもできることがないかと思ってプレゼントしたんだ。昔はまだパソコンなんて普及していなかったし、当時はまだこちらの方が主流だったから……気晴らしになるだろうと思って」
 懐かしむように言葉を紡いだランサスは近くにあったテーブルに歩み寄り、その布を静かに取り去った。
 そこには、サヨがずっと恋焦がれていた物が鎮座していた。
「まあ、年寄りのつまらない昔話はさておき……こんな中古品で良いなら、是非サヨさんに受け取ってもらいたい。老い先の短いじじいの手元にあるより、若者に使われる方がこいつも嬉しいだろう」
「……ありがとうございます」
 タイプライターをじっと見つめたまま、サヨは静かにお礼を告げた。
 けれど、次に彼女は強い口調で言葉を返した。
「ランサスさんのご厚意は、とても嬉しく思います。でも、ごめんなさい……せっかくのお話ですが、やっぱりこれは受け取れません」
 キバナだけでなく、ランサスまでもが目を見開いた。
「……理由を聞いても良いかね?」
「忘れ形見と言ってしまうぐらい、ランサスさんの思い出がこのタイプライターにたくさん詰まっているからです。こんなに綺麗な状態で保管されていたということは、それだけランサスさんにとって大切な物だったんでしょう?」
 淡々と答えたサヨは、それに、と眉尻を下げて声量を落とした。
「実は私……まだ全然ガラルの文字を覚えられてなくて……タイプライターを手に入れても使えるようになるまで、まだまだ時間がかかりそうなんです……」
 確かに、とキバナはサヨの境遇を思い出した。
 ガラルにやって来てまだ数ヶ月。必要最低限の知識として生活に必要不可欠な文字はキバナ達が仕事の片手間に教えているが、それでもサヨの語学はまだ単語を理解できるレベルだ。
 決してサヨの物覚えが悪いという訳ではない。キバナ達が子どもの頃から少しずつ慣れ親しんでいったそれを、彼女は今、一から覚えなければならないのだ。いくらサポートがついているとはいえ、働きながら語学を勉強するにはそれなりの時間が必要となる。彼女がキバナ達のようにスラスラと文章を綴れる日が来るのは、まだもう少し先の話だろう。
 そんなサヨの言葉に、ランサスはきょとんと目を瞬かせていた。何を言われたのか理解できなかったような顔だった。
 そうして、まじまじと物珍しそうにサヨを見つめたあと、彼は大きく口を開いて笑い声を上げた。
「アッハッハッハ! 参ったな。こんなお若いお嬢さんに気を遣わせてしまうなんて、ガラル紳士の名折れだよ」
 しんみりとした空気を吹っ飛ばすぐらいの豪快な大笑いを見せたランサスに、キバナとサヨは目を点にして固まる。
「あ、あの……気遣うとか、そういうんじゃ……」
「いや、なに、気にしないでいい。ただ、君の優しい心に触れて嬉しくなっただけだよ。だから……そうだね……キバナ君」
 ランサスはキバナに目を向ける。
 穏やかなその目に宿る決意に気づき、キバナはなんだ、と首を傾げる。
「僕と彼女に時間をくれないかな。その間、僕が責任を持って彼女の語学講師になろう。これでも人に文字を教えるのは初めてではないんだ。腕も悪くないと思うけどね」
「そりゃあ、別に構わないが……サヨ、どうする?」
 キバナがサヨ本人の意志を確認すべく目を向けると、サヨは躊躇いがちに頷いた。
「も、もちろん、有難いです。……でも、どうしていきなりそんな話を……?」
 ランサスは目を細めて静かに笑んだ。
「ただの老婆心だと思ってくれればいい。長い僕の人生の、たった数年。その短い時間の思い出を大切にしてくれる君に、何かしてあげたいと思ったんだ」
 ランサスの提案はこうだ。
 サヨの勤務時間を少し減らし、ランサスのもとで語学の勉強の時間を作る。彼の授業で使われるのはタイプライターだ。現在では実用されることはもうないが、キーの配列は現在パソコンで使われるキーボードと同じである。タイピングの練習も兼ねて、基本的なタイプライターの扱い方も教えるとのことだった。
「二ヶ月だ。二ヶ月後、君が完璧にガラル文字を扱えるようにしてみせよう。僕の宝物にもう一つだけ、素敵な思い出を作らせてほしい」
 駄目かな、とサヨの返事を伺うランサス。
 自分のためと言われては、理由もなく突っぱねることは出来ない。彼女はそういう人間だ。
 キバナは静かにサヨの返事を待った。
 予想通り、彼女はこくんと頷いた。
「……そういうことなら、是非。よろしくお願いします」


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -