はじまりの音
幼かった少女の心を鷲掴みにしたのは、テレビから流れるアーティストの歌声でもCDに録音されたクラシックを奏でる楽器でもない。小説家の母が叩くキーボードの音だった。
初めて彼女がそれを耳にしたのは五歳の頃。
テレビに流れるアニメに夢中になっている時だ。
家事を終えた母が、どこからともなくワープロを取り出して本体を起動させたのである。電源が入ったそれはウィンウィンやらガタガタやら物々しい音を立てて、印刷部分に設置されたインクリボンを左右に動かす。その音が止むと、母は数回、数字のキーを押した。
そうしてしばらくしたあと、彼女の指が素早くキーをタイプした。流れるように動く母の指先から響くカタカタ、ともカシャカシャとも聞こえる軽い打鍵音。けれど打ちつけるスピードに合わせて鳴るその何の変哲もない音がどうにも面白く、何をしているのかも知らないまま母の隣でじっとその動きと音に意識を集中させていたのである。
「なあに? 触ってみたいの?」
優しい声で尋ねてきた母に、少女は素直に頷いた。
ならば、と母はワープロに差し込んでいたカートリッジをタイピング練習用のそれに差し替え、席を譲った。
「いい? 画面に出ている文字と同じ文字のあるキーを打つのよ」
その言葉に目を輝かせながら画面に映し出される文字を見て、ワクワクとしながらキーボードに目を向ける。そして目的のキーを見つけた彼女は意気揚々とそのボタンを押した。
しかし、それは少女が思っていたものとは遥かにかけ離れていた。
「……なんか、違う」
「え?」
「音、違う」
白けた顔で唇を尖らせた娘に、母は目を丸くさせる。それから我が子の求めているものをすぐに理解し、「なるほど、こういうことね」と笑いながらキーボードの上で指を走らせた。
そう、これである。自分が惹かれて止まない音は、この音だ。
瞬く間に笑顔になる少女の頭を撫でて、母は朗らかに言った。
「何事も練習あるのみよ。頑張りなさい」
何事も練習あるのみ。
母が遺したその言葉は真実だ。
この世界には、努力しなければ手に入れられないもので溢れている。
けれど、どんなに頑張っても報われないことはある。
世の中には手に入らないものがあるのだと、この時の彼女はまだ、何も知らなかった。
駅のホームに、音楽が流れる。
もうすぐ電車が通り過ぎる合図だ。
続いて、落ち着いた男性のアナウンスが構内に響き渡る。
冷たい雨が頬を伝い、地面を濡らす。
風が柔らかく頭を撫で、長い黒髪を梳いた。
雑踏の音が消える。
代わりに、大好きだった声が聞こえた。
「頑張りなさい」
――頑張る。
――そうしたら、きっと報われる。
――でもそれは、恵まれた人間だけの特権だ。
――じゃあ、報われなかった人間はどうすればいい。
「……もう……終わりだ……」
劈くような誰かの悲鳴が、ホームに響いた。