恋に怯え、愛を囁く

「さすがにこれは引く。ないわ」
 ベッドの上で衣服も身に纏わぬまま、自分の肌に手を伸ばしていた男が呆然と呟く声が聞こえた。
 目に宿る軽蔑の色。絶望の滲んだ声。あからさまな落胆の表情。こちらを見下ろす全てが、自分を拒絶しているのだと分かった。
 それなりに、好いていた男だった。確かにこれは恋とは呼べなかった。告白されて、なんとなく付き合い始めた相手。それでも付き合っていくうちに良い所も悪い所も知って、互いに信頼関係も築けていたと思っていた。
 しかし、全てを告げるには、まだまだ相手のことをよく知らなすぎたらしい。
「マジで萎える」
 積み上げてきたそれが、いとも簡単に砕ける音がした。
 その気持ちが弾け飛ぶ瞬間、自分を見下ろす男の顔をひなたは力の限り引っ叩いた。例えこの後、彼に罵倒されるとしても構わなかった。それでも譲れないモノが、ひなたの中には確かに存在しているのだ。
 彼が見下したソレは自分の誇りだ。例え誰の目に醜く見えたとしても、その証を侮辱される謂れはなかった。
 その後のことは、よく覚えていない。いつの間にか彼女は『例の場所』に立っていて、行き交う人を眺めながら名前も学校も知らない彼のことを思い出していた。
 真っ直ぐすぎるぐらい正直者の台詞だった。ただ相手に苛立っているだけの、八つ当たりのような言葉。きっと助けたという自覚もなかっただろう。お礼すら言わせてくれないクールな男の子だった。
 ――彼なら、もしかしたら――。
 たらればを考えて、馬鹿馬鹿しいと笑ってしまった。
 何故なら、もう駄目なのだ。心が諦めてしまった。
 ――無条件で人に想われることができる女がいるとしたら、それは一体どんな存在なのだろう。
 なんて、それも考えるだけ時間の無駄だった。

 そんな綺麗なモノに、自分はなれやしないのだから。

 目蓋が動いた瞬間、意識が浮上した。
 見慣れた資料室の光景だ。どうやら調べものをしている最中に居眠りをしてしまったらしい。手から転がり落ちているペンを握り、むくりと上体を起こす。
 そこで、ひなたは自分の向かい側に誰かが座っていることに気づいた。
「よぉ。お目覚めかよ、オヒメサマ」
 そこに居たのは松田だった。ニヤニヤと笑いながらこちらを窺う彼の手元にはノートと教材が広げられている。
 伊達班は問題児の集団として教官から目をつけられているが、その実、誰もが頭脳明晰で成績も優秀である。松田も当然ながらその一人で、最近の彼はひなたの勉強に付き合い課題に取り組んでいる。――と、言うのは建前で、本当は自分と一緒にいる時間を増やしたいだけなのだが、ひなたは知らないフリをして彼に笑いかけた。
「来てたなら起こしてくれれば良かったのに……」
「貴重な寝顔を拝見するのにちょうど良かったぜ?」
「意地悪だなぁ」
 やや不満の意味を込めて言葉を返せば、松田は「だって役得だろ?」と言って笑った。分かりやすい態度だ。包み隠すことなく滲み出る好意はすでにその気持ちを本人に打ち明けたからなのかもしれないが、ひなたには少し眩しすぎるぐらいに感じた。
「……課題、終わった?」
「お前が寝ている間にな。なんかわかんねーとこあるなら教えるぜ? 俺の頼みを聞くなら、って条件付きで」
「その条件、デート以外の内容なら聞くけど」
 ひなたが先手を打つと、松田は悔しそうに舌打ちした。
「ったく……何が駄目なんだよ?」
 机に肘をついてムスッと唇を尖らせながら不貞腐れる松田を見るのは何回目になるだろうか。少なくともここ一ヶ月で両手の指で数えられる回数は往復している。
 松田がそんな表情を見せる度に、ひなたは困ったように笑んで決まって同じ言葉を口にしていた。
「好きだから駄目なんだよ」
「だぁぁああ! もうっ! めんどくせぇ!!」
 何十回と聞いたその答えに、松田は遂に天を仰いだ。『面倒臭い』なんて言葉が飛び出したのはこれが初めてだったが、ひなたは傷ついた顔一つ見せない。それどころか、笑みを深くして松田を見つめている。それがまた彼のプライドを逆撫でするのだが、そうと分かっていてもひなたが容易く首を縦に振ることはできなかった。
「お前、ホントは俺のこと好きじゃねーんだろ?」
 ひなたは肩を竦め、視線を手元の課題に移した。
「そう思うなら、別にそれでもいいよ。いつまでもこんな面倒臭い女に構ってる必要もないでしょ?」
「良くねえんだよ! 勝手に自己完結させんな!」
「あたたたたたたた」
 大きな手が頭を鷲掴み、全力で握り潰そうとする。
 これも初めてのことだった。松田は粗暴だが、どれだけ荒々しい態度でも女に暴力を振るわない。突然の痛みを伴う攻撃に、ひなたは目を丸くして悲鳴を上げた。
「ちょ、これ暴力! 暴力反対!」
「ぁあ? 今まで我慢してた分だ。思い知れ」
「そんなに……!? あ、痛い痛い! 握力強すぎ……!」
 痛みは弱まるどころか強まるばかり。ぐっ、とこめかみの辺りを押され、ひなたは涙目になった。
「弟にもこんな事されたことないのに……」
「ったりめーだっつの。つーか、そのすぐ弟を引き合いに出してくんのやめろ。兄弟でも嫉妬するだろーが」
「……そう言えば子どもの頃、弟に『ねーちゃん大好き。将来お姉ちゃんと結婚する』とか言われたんよね」
「はっ! それは異性としてじゃなくて家族としてだろ。残念だったなぁ? その弟が別の女と結婚してよぉー」
「うっ、言わないで……弟の結婚式見たかったのに……」
 別の意味で涙が溢れる。可愛かった幼い頃と先日愛しい恋人と晴れて夫婦となった弟の姿を思い返し、ひなたはほろりと泣いた。突然のガチ泣きである。
 思わず驚いた松田の手がひなたの手から離れた。
「ちょ、マジ泣きすんなよ……!」
「松田君がいじめるので」
「あー……そうだったな。お前、そういう女だったわ」
 手が離れた瞬間、ケロリと普段の顔に戻る。ピタリと止まった涙を見て、松田はガクリと肩を落とした。
 誰も彼も普段はのほほんと笑ってブラコンっぷりを見せつけるひなたしか知らないのだ。こんな小悪魔みたいな一面を知るのは松田と、ひなたと付き合いの長い同期の女子ぐらいだった。あとは何となく裏がありそうと感じ取っている伊達班のメンバーくらいか。
「松田君はどうしてフラれても諦めないの?」
「そりゃあお前……フラれる理由が『好きだから』って理由で納得できるか? フツーに意味わかんねえから」
「じゃあ、幻滅するような理由を言ったら諦める? 例えば……昔、人を殺したとか」
「はあ? お前な……」
 松田は額に手をあて、深いため息を吐き出す。呆れて言葉を失った彼に申し訳なくなり、ひなたは俯いた。
「あのな、俺のことそういう目で見れないならハッキリ言えよ。そういう遠回しなことは大嫌いなんだよ」
「ごめん」
 たった一言に、全てが込められた。
 口を閉ざした彼を見て、ひなたはもう一度告げた。
「……ごめん」
「……そーかよ」
 冷たい相槌だった。視界の端で、パタンと松田の手元にあったノートが閉じられる。
 ひなたは終わりを感じた。これで彼との不毛なやり取りがようやく終わるのだと思った。なのに今、自分は安堵ではなく、身勝手にも絶望を感じている。
 ひなたの思う以上に、松田は諦めの悪い男だった。負けず嫌いな性格も一因しているのかもしれない。それでも自分の前では短気な一面は控えていたし、根気強く『待って』くれていたけれど。
 ひなたは、そんな松田の気持ちを無碍にしたのだ。
 罪悪感は、とてつもなく大きい。せめて素直に彼の気持ちに応えられるような人間だったら、こんなに思い悩むことも苦しむこともなかったかもしれない。
 しかし、その憂いは近づいてきた松田によって吹き飛ばされる。すぐに立ち去ってしまうと思った彼が無言で自分を見下ろしてくるので、ひなたも顔を上げた。
 そして無表情の彼と目が合った、その瞬間だった。
「!? ちょっ――」
 いきなり胸倉を掴まれ、引き寄せられる。あまりに乱暴な行動で、ひなたは身の危険を感じて声を上げようとした。しかし、それは松田によって簡単に阻止される。
 ひなたの唇と松田の唇が、躊躇いもなく触れ合った。どうして目を閉じている松田の顔が間近にあるのか。どうしてこんな事をされているのか。色んな疑問が駆け巡るも、混乱しているひなたは身動きが取れなかった。
 短いようで、長い時間。その一時をたっぷり堪能したあと、薄らとその目を開いて音もなく唇を離した松田は、掠れてしまいそうなほど静かな声で告げた。
「そんな顔するなら、素直に俺のモンになっとけ」
 耳に届いたそれはとても苦しい、獣の唸り声だった。


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