そして、未来へ

「なあ、ちょっと吸っていいか?」
 学校から少し離れた所にある公園が喫煙者の溜まり場になっているのは降谷も知っている。だが松田曰く、こんな夜遅くに足を運ぶ者は意外といないらしい。
 今日は班長も喫煙仲間の萩原もいないが、諸伏と降谷も嫌煙家というわけでもないので気を遣う必要がないと思ったのだろう。松田の申し出に、降谷と諸伏は迷うことなく頷いた。ちょうど近くにコンビニもあったので、そこで飲み物でも買って行こうという話になった。
 彼らが見知った女に声をかけられたのは、そのコンビニに足を踏み入れた時だった。
「あれ、松田君と降谷君と諸伏君だ」
 ひなただった。彼女はにこやかに微笑みながらこちらに歩み寄り、ジロジロと降谷達を順番に眺めた。
「松田君が萩原君と一緒にいないなんて珍しいね?」
「そんないつもベタベタ一緒にいるわけじゃねーよ、女じゃあるまいし。っつーか、小菊……こんな時間に女一人で出歩くな。危ねーだろーが」
「だって、歯磨き粉なくなっちゃったんだもん」
「言えよ。ついでに買ってくるから」
「いや、連絡取れないでしょ。携帯預けてるんだし……」
 心配故に無理難題を言っては恋人を困らせる松田に呆れてものも言えない。諸伏が苦笑する隣で、降谷は松田に非難の目を向けた。
「ったく……じゃあ、ついでにお前も少し付き合えよ」
「付き合うって?」
 首を傾げるひなたに、松田はレジの向こう側にある煙草の棚を指した。それだけで松田の言いたいことを理解したらしい。嫌な顔もせずに頷いた彼女に諸伏が訊ねた。
「小菊は煙草が嫌いじゃないのか?」
「松田君が吸うところを見るのは好きかもしれない」
「かもしれない、って……」
「だって、見たことないもん。今日が初めてなんよ」
 これは面白いことを聞いた。降谷と諸伏は揃って口元を押さえると、にんまりと笑って松田を振り返った。
「へぇー? 彼女の前では吸わないんだ? 優しーっ!」
「松田が彼女には優しいって話は本当だったんだな」
「えへへ。でしょ〜? 私は幸せ者なんよ〜」
「お前ら今すぐそのニヤけ顔やめろ。ぶん殴るぞ」
 揶揄われた松田は少し赤い顔で三人を睨みつけた。
 これ以上は本気で拳が飛んでくるかもしれない。早々に引き際を見定めた降谷は諸伏とひなたを急かし、各々が必要な物を購入して店を出ることにした。
 公園に到着すると、松田は早々に三人から離れた場所に立ち、一人煙草に火を点けた。ひなたに気を遣っているのだと気づいた降谷は、彼女とベンチに腰かけて話す諸伏を置いて松田に近づいた。
「本当に大事にしてるんだな。彼女のこと」
「あん? 当たり前だろ」
 フゥーとたくさんの紫煙を吐き出し、くゆらせながら、松田は言葉通りの顔で答えた。ぶっきらぼうで物言いも直球なくせに、彼女に対してはその態度も軟化する。正にその行動が惚れた男の弱みなのかもしれない。
 降谷はベンチに腰かける二人を肩越しに振り返った。どんな話題で盛り上がっているのか、二人は楽しそうにお喋りに夢中になっていた。
「……なあ、ゼロ」
 ふと、松田がポツリと名前を呼んだ。
 真剣なその声音に、降谷はすぐに視線を戻す。
「お前……小菊がどこに配属されたか知ってるか?」
 降谷はドキリとした。
「この前、成り行きでそーゆー話になったんだけどよぉ……なんかあいつ、嘘吐いてる気がすんだよ」
「……それで、なんで僕に聞くんだ?」
「まだ配属が決まってねえって言われたんだ。お前と諸伏もまだ配属先決まってねえって言ってただろ」
 それで、と松田は降谷に人差し指の先を向けた。
「ちょうど公安の話聞いた日、お前らが談話室で一緒にいるトコ見たってヤツがいてな……こっからは俺の勘だけどよぉ……お前ら、ホントは同じトコにスカウトされたんじゃねーの?」
「それは……」
 降谷はどう答えれば良いのか迷った。誤魔化しても、嘘を吐いても無駄であることが分かっていたからだ。
「……すまない。……僕からは、何も話せない」
 それだけで、十分だった。
 十分すぎるほどの答えを、降谷は与えてしまった。
「……はっ。マジかよ」
 乾いた笑いを零した松田は力が抜けたように天を仰ぎ、「あー」と小さく唸りながら額に手を当てた。
「……勘弁してくれよ、マジで……」
 悲観と、困惑。自分ではどうしようもない現実に直面した、そんな複雑な思いの混じった声だった。
 これがもし別の、それこそ彼女自身が望んでいた部署への配属なら、松田も素直に背中を押して応援できたのかもしれない。そんなことを考えながら、降谷は数日前のことを思い返した。


「それでは、良い返事を期待しているよ」
 公共の秩序と安全を守る組織――公安警察。そこに属する男に呼び出された降谷は、自分と同じく談話室のソファに座る二人の同期に目を向けた。
 一人は諸伏景光。もう一人は、小菊ひなただった。
 どちらも成績は申し分のない生徒で、降谷から見ても贔屓目なしに彼らは優秀な警察官になるだろうと思っていた。だから二人がここに座っているのも納得していたし、心強い仲間がいるのだと安心した。
 だが、今回はあくまでスカウトの段階だと言いながら、彼らの口振りはすでに決定事項のように語られていた。
 一通りの説明を終えて男が退出した後、三人だけになった空間には重い沈黙が流れた。
「……どうするんだ、ゼロ?」
 先に口を開いたのは諸伏だった。訊ねる声は静かで重々しいものだが、その顔を見れば答えは聞くまでもないという感じだった。降谷はにこやかに答えた。
「言わなくても分かるだろ? 当然ヒロも……」
「もちろん、断るわけないよ。ゼロだけじゃ心配だしね」
 心強い味方の言葉だった。互いに顔を見合わせて笑い合ったあと、降谷は諸伏の隣に座っているひなたに目を向けた。ひなたの顔色はあまり良いものではなかった。気掛かりなことがあるのは一目瞭然で、その理由も、降谷と諸伏は容易に察することができた。
 彼女には恋人がいる。その相手は降谷達と同じ伊達班に所属している松田なのだ。降谷も諸伏も二人の恋路を見守っていた立場である。懸命にひなたを口説き落としたこと松田のことも、過去のトラウマを乗り越えてその想いに応える決意をしたひなたのこともある程度は理解している。つい最近では、彼女が松田のことをこっそり想い続けていたことも知った。
 だが、自分達に待っている現実は、そう甘くない。
 公安は実に多忙で、任務によっては命を懸けた仕事になる。公安の警察官になると決まれば、その関係を続けることは難しいかもしれない。必要とあれば家族とも疎遠になってしまうような、そんな組織なのだ。
「小菊はどうするんだ?」
 おそらく今、彼女は迷っている。警察組織から向けられたその期待と評価は、彼女の思い描いていた未来を大きく変えてしまうものだったに違いない。
 けれど、彼女とて一端の警察官だ。自分が思い描く理想の警察官に近づくために、毎日警察学校での厳しい規則と訓練に耐えてきた。胸の内に秘められたそれは、決して生半可な覚悟ではないはずだ。
「……まだ、わからない」
 諸伏の質問に、ひなたは俯いたままポツリと答えた。
 しかし、すぐに「でも」と強張った声が続く。
 ゆっくりと顔を上げ、降谷と諸伏の顔を見つめるひなたの目は本気だった。
「多分、断ることはしないよ。きっと……私にしかできないことが、そこにあるはずだから」
 普段ののんびりとした雰囲気は面影もない。どこまでも純粋で、真剣で、相手の心を見透かすような真っ直ぐな眼差しに、思わず降谷はドキリとした。
 諸伏も彼女の顔を見て少しばかり目を丸くしていた。
「……良いのか?」
 その質問が何についてなのか、諸伏ははっきりと口にしなかった。彼女が選んだ選択の先にどんな未来が待ち受けているか、最悪の場合、どんな展開になってしまうか、想像することは容易いからだ。
 せっかく通じ合った想いが、拗れてしまうのではないか――そんな気がしたのは降谷も同じだった。
「小菊は、それで本当にいいのか?」
 続けて問うた降谷に、ひなたは首を横に振った。
「わからない。でも……もう私、後悔はないんよ」
 ひなたの言葉は本心だった。強がりで吐いた嘘でもなければ、気丈に振る舞った上辺だけの言葉でもない。
 彼女の瞳は、それほどまでに力強い光を放っていた。その声は、心から満たされているようだった。
 本人がここまで言うなら仕方ない。降谷と諸伏はまたお互いに顔を見合わせ、追及することはやめた。
「……それじゃあ、僕達は卒業後もお互いに協力することになりそうだな。公安といっても部署は違うだろうし、お互いに配属された場所で頑張ろう」
「うん」
「松田のことは心配するなとは言わないけど、あいつは義理堅いし、賢いから。きっと心配はするだろうけど、小菊が決めたことに反対したりしないと思う。何かあれば俺達がいるし、相談に乗るからさ……だから、あんまり一人で思い詰めるなよ」
「うん、大丈夫。ありがとう、二人とも」
 降谷と諸伏の励ましに、ひなたはやんわりと微笑んだ。その表情はやはりどこか暗く、落ち込んでいるように感じられたが、これ以上彼女を慰める言葉を今の降谷達は持ち合わせていない。
 だからせめて、こんなところで二人の関係が途絶えてしまわないように――この時の降谷は、ひっそりと心の中でそう願うことしかできなかった。


「……松田は、やっぱり引き止めるか?」
 松田は聡い。普段は傍若無人で粗暴な一面ばかりが目についてしまうような男だが、その実、彼は内面がとても繊細だ。いつでも自分が後悔しないよう、よく考えて行動するところがある。そして考えて考えて、あえてアクセルを全開にする。
 そこが、少しだけ降谷は不安だった。松田のその思慮深さが、良くも悪くも彼を勢いづけてしまうからだ。
「……あいつはなんて言ってた?」
 質問に、質問が返ってきた。
 降谷は素直に答えることにした。
「自分にしかできないことがそこにあるはずだ……と言っていたよ。でも……どこか、悩んでいる感じだった」
「そっか」
 その短い相槌の中で松田がどれだけの想いを巡らせたのかは分からない。ただ、降谷の目には遠くを見つめている松田の顔が少しだけ寂しそうに、けれど優しく笑んでいるように見えた。
 そして、その目がなんとなく降谷の後ろに向けられる。
 途端に吊り上がり気味の目が呆れたように細められた。
「……あれ、何してると思う?」
 話を中断され、降谷は振り返った。
 いったい何が始まったのか。ベンチに座っている二人はジャンケンを始めていた。相子が数回。最終的に諸伏がグー、ひなたがチョキを出したことで決着がついた。
 その後、諸伏がひなたの耳元で何かを囁く。もちろん、その近い距離に松田がムッと顔をしかめたのは言うまでもない。それに気づいているのか、いないのか。ひなたは諸伏に何度か相槌を打つと松田をジッと見つめて難しい顔で悩んでいた。何かを閃いたように手を打ったのは、それから数秒後だった。
「あれは……何、してるんだろうな……?」
 ひなたが右手をチョキの形にして、口元から近づけたり離したりを繰り返す。その手を反対の手で指し示したあと、彼女は指を鳴らした後のように人差し指と親指を交差して見せた。その最後のポーズに降谷は首を捻り、それを見た諸伏が肩を震わせ、松田が笑い声を上げる。
 どうやら恋人にはしっかりと彼女のジェスチャーが伝わったらしい。松田が煙草を持っていない手で同じポーズを返すのを見て、降谷はジトリと彼を睨んだ。
「なんなんだ? 今の……」
「最近流行りの愛情表現だろ」
「僕を挟んでいちゃつくな」
「おいおい、今のはどう見ても景の旦那の差し金だろ」
 見てみろ、と松田が指し示す方を再び振り返れば、二人はまたジャンケンを始めていた。
「ったく……こっちの気も知らずに呑気だな、あいつ」
 煙草の吸殻を携帯灰皿の中へと押し込みながら小言を呟くも、その顔はさっきまでと違って晴れやかだ。どこか吹っ切れたような表情に、降谷は目を瞬かせる。
「頼んだぜ、ゼロ」
「え……? なんだよ、突然……」
「俺は小菊が自分で選んだことに文句言うつもりはねえ。それに、お前らが一緒なら安心して任せられるって思っただけだ。何があっても前を向いていけるヤツだけど、すぐ抱え込んじまうからな、小菊は」
「……松田……お前……」
「言っとくけど、何言われても俺は別れるつもりねーからな? こんなことは想定内だし、俺も小菊もこの時期に中途半端な気持ちで付き合ったりしてねーよ。話すべきことはちゃんと話すから、余計な心配すんな」
 そうだ。松田は、こういう男だった。元より男らしい男であったが、恋人ができてからの彼は更にその一面が逞しく見えるようになった。片思いしている時期は多少ヘタレな一面も見せていたようだが、それでも彼は自らの手で彼女の心を掴み取ったのだ。
 この男ならば、きっと彼女との未来も離さず掴んでいられるのかもしれない。そう思った降谷は肩の力を抜き、やんわりと口角を上げた。
「……松田、お前……男を上げたな」
「はっ。俺を褒めてる場合かよ?」
 松田がニヤリと笑いながら諸伏達を指す。
「次はお前の番みたいだ。大親友がお呼びだぜ?」
「今度は景かよ……」
 松田の言葉だけで振り返らずともわかる。次にジャンケンで負けたのは諸伏だ。彼は笑顔で降谷に手を振ると、大きな身振り手振りで何かを伝えてくる。
 しかし、残念ながらその動作があまりに大雑把すぎるため、何を伝えたいのか降谷にはさっぱりだった。
 いい歳をした大人が何をやっているのか。やや呆れながらため息を吐き、降谷は二人に歩み寄った。
「二人とも、勝手に僕達で遊ぶんじゃない。言いたいことがあるなら言葉を使え」
 諸伏とひなたは同時に唇を尖らせた。
「えー? 降谷君たらひどぉーい」
「それじゃあ罰ゲームにならないだろー?」
「やめろ、その顔。なんか腹立つ」
 比較的いつも仲が良いコンビだとは思っていたが、この短時間で距離を縮めすぎではないだろうか。降谷は青筋を浮かべて諸伏とひなたを睨みつけた。
 松田も少しばかり面白くなさそうな顔をする。
「そもそも罰ゲームになんのか? 今の……」
「なるなる。ジャンケンで負けた方がジェスチャーで好きって伝えるゲームだから」
「意外と相手に伝わらなかったらめちゃめちゃ悲しくなるぞ、これ……俺はゼロに全く伝わらなくて今すごく空しい……」
「悪かったな、全く伝わらなくて……次はもっと分かりやすくしてくれ」
 わざとらしく落ち込む諸伏に恨めしそうに睨まれ、降谷は面倒臭くなって適当にあしらった。
 そんな二人を差し置いて、ひなたは満面の笑みを浮かべて傍にやって来た松田を見上げた。
「松田君には無事伝わったので、私は大満足」
「おー、しっかり伝わったぜ? お前が俺の手大好きってことはな。どーもアリガトよ」
「どーいたしまして。正確には煙草を吸ってる仕草が好きなんだけどね……あっ。それとね、煙草吸ってる時の横顔もカッコ良かったんよ。今度写真撮っていい?」
「おーいいぜ? お前がさっきのポーズもう一度やってくれるならな。待ち受けにしとくわ」
 松田がカメラを起動させて構えると、ひなたは目を輝かせて近づいた。
「それなら二人で撮ろーよ! 私にも送って!」
「マジかよ、これも恥ずかしがらねぇの? 俺は別にいーけど、あとで自分で見返した時に恥ずかしくなっても知らねーぞ……?」
「この私がそんなことで恥ずかしがるとでも? あっくんが相手でも平気でやっちゃうよ?」
「あー、はいはい。ホントに弟好きだなお前は……ほら、来いよ。さっさと撮るぞ」
 もう聞き飽きた弟の話題を早々にぶった切り、松田はひなたの肩に手を回して引き寄せる。角度やら何やらであーだこーだと騒ぐ彼らを見ながら、諸伏がそっと降谷に近づいてきた。
「松田……小菊のこと何か言ってた?」
「ああ。彼女の配属先のことを聞かれたよ。なんとなく気づいていたみたいだ」
 やっぱり、と諸伏は複雑な表情で二人を見つめる。男として、降谷も諸伏も彼の気持ちはよく分かる。誰だって好いた女が危険な場所に赴くことを認めたくない。
 しかし、降谷達は警察官だ。
 松田もそれを理解している。だから同じ警察官として見守り、恋人として支える決意をしたのかもしれない。
「でも、まぁ……大丈夫だろ。あの二人なら」
 穏やかな声音で降谷が呟いたところで、ひなたがこちらを振り返って手招きする。「お前らも来いよ」と言う松田に、降谷はきょとんとしている諸伏の背中を押し、誘われるがまま彼らの方へと歩き出した。
 ――何年か先でも、こんな風に皆と過ごせたらいい。
 そんな願いを、降谷は一枚の思い出に託した。


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