思い、思われ、姉弟愛

「松田君や、松田君や。ちょっと良いかね?」
「なんだよ、そのふざけた呼び止め方……」
 一日の訓練が終わり、入浴を済ませて部屋に戻ろうとしたところで珍しく彼女からお声がかかった。その独特な言い回しにやや複雑な顔をしてみせたが、ちょいちょいとひなたが手招きするので松田は大人しく従った。
「はいはい。お呼びでしょーか、お嬢様?」
「あはっ! さすがにそれは似合わないなぁ」
「おいこら。そんなこと言うなら話聞かずに戻んぞ」
「んー。そうなると私は松田君の今度の連休の予定を聞けなくなるので非常に困るのです」
 ドキリと松田の心臓が跳ねた。まさか休日の予定を彼女の方から聞いてくる日が来るとは思ってもいなかった。
 無意識に心臓の音が大きくなったことを悟られないよう、松田は平静を装いながら問い返した。
「珍し……何? どっか行きてえの?」
「うーん……うん!」
「って、なんで今考えたんだよ……」
「いやぁ、行きたい場所と言えばいいのか、お願いがあると言えばいいのか良くわかんなくて……」
「なんだそりゃ?」
 どうも彼女の反応がそれらしくない。膨れ上がった期待はしゅんと萎んでしまったが、言葉を濁す彼女の口から『お願い』という単語が出てきたので、ひとまず松田はため息だけを零して不満を呑み込むことにした。
「連休はまだ特に予定は入れてねぇよ。どっかで萩達と遊びに行くか、って話はしたけどな」
「あれ? 女子達の間では連休中に萩原君達と合コンって話になってたけど……」
「ああ、それ最終日の話。俺は行かねーし、関係ねえ」
「えっ、そうなの?」
「そうなのって、あのな……彼女いんのに行くわけねーだろ。自分がされて不愉快なことするかよ」
 まさか人付き合いで恋人である自分も参加すると思っていたのだろうか。そこまで信用されていなかったのか、と松田は苛立ちのままギロリとひなたを睨んだ。
 しかし、そんな睨みも彼女には通用しない。
 意外そうに目を丸くしたひなたは数回瞬きしたあと、へらりと締まりのない顔で笑った。
「ふふ……そっかそっかぁ」
「ソーデス。お前からは信用なかったみてーだけど」
「ごめんね? 私もそんなことしないから安心してね」
「んなコト、とっくに知ってるっての」
 ふん、と不機嫌そのままにそっぽを向けば、ひなたは笑いながら松田の顔を追いかけて覗き込んできた。
「私も知ってるよ。松田君が彼女に優しいって」
「そーやって煽てて俺の機嫌とろうって魂胆か?」
「私のお願い、聞いてくれる?」
 ――完全になめられている。
 例え相手にそのつもりはなくとも、いつもの松田ならそう判断して適当に話を流すのが常だった。これまでの経験上、こうしてすぐに相手を煽てて調子に乗せようとする女が一番面倒くさかったというのもある。
 しかし、ひなたの場合は少し勝手が違う。彼女はなんだかんだと言いながら松田が自分の話に乗って来ると確信しているのだ。だから敢えて松田の問いに答えず、もう一度『お願い』と言い直してきた。
 わざとらしく祈りを捧げるように手を組み、縋りつくような目でこちらを見上げるひなたを負けじと無言で見下ろしていた松田は、再びため息を吐いた。
「……仕方ねえな。なんだよ? お願いって」
 これも惚れた弱みである。またもや完敗の文字が脳裏に浮かんだが、今回は自ら折れてやったのだと自分に言い聞かせて松田は詳しい話を求めた。
 途端にひなたの顔が明るくなるのを見れば、それも悪くない判断だと思った。
「あっくんに会って欲しいな、って」
 松田の思考が停止した。
 まず、それが彼女の弟の呼び名であると思い出すのに数秒の時間を要してしまうほど『あっくん』という単語がすんなりと頭に入って来なかった。それほどまでに彼女の提案は予想外で、かつ、どうしてそんなことをしなければならないのか松田には理解できなかった。
「……なんて?」
 とりあえず聞き直してみる。
 ひなたは満面の笑顔でもう一度、言った。

「あっくんに松田君に会いたいって言われたの。だから今度の連休、私と一緒に弟に会いに行こ?」

 どうやら、小菊ひなたという女をなめていたのは自分の方だったらしい。もちろん、重度のブラコンであることは理解していた。侮っていたのはその小悪魔ぶりだ。
 そんなことを考えながら、松田はジロジロとこちらを凝視してくる自分より年若い夫婦――特に妊婦であるひなたの義妹から居心地の悪い思いで視線を逸らした。
 先に口を開いたのは、その義妹の方だった。
「わあ……ほんとにあっくんに似てる……」
「でしょでしょ!? さすがしーちゃん! 分かってる!」
「え? マジ? 俺全然似てないと思うんだけど」
「おい小菊。弟もこう言ってんぞ」
「大丈夫。あれ照れ隠しだから」
「「絶対(全然)ちげえ!」」
 男二人の声が重なり、はっ、と互いに顔を見合わせる。
 それを見た女性二人はからからと笑った。こちらもこちらで似通った反応をしている。
「やっぱ似てる!」
「ほらねー。だから言ったんよ、似てるって」
「二人ともマジやめろって。俺はともかく松田さんに失礼だからな、それ」
 ――弟の方が姉より良識あるんじゃないか。
 複雑な気持ちで松田は心の中で呟いた。
「まあまあ。とにかく行こう? 今日はしーちゃんの服買おうねって約束してたんだから」
 ねー、と互いの顔を見ながら笑い合った二人が歩き出す。その背中にすかさず弟が声をかけた。
「それ姉貴の財布から出るやつだろ、絶対! 支払いの時は呼んでくれよ!? 俺払うから!」
「やだぁ、あっくん……いつの間にか旦那らしくなっちゃって……お姉ちゃん今すごく感動しちゃった」
「姉貴、マジ今はやめて。頼む。松田さんの前だから」
「あー、大丈夫。もう手に負えないブラコンだって知ってっから、好きにさせていいぜ。別に気にしねえし」
 嘘である。稀に――否、時々――本当に時々ではあるが、気になる時はある。しかし、だからと言ってそれを止めても無駄であることはすでに理解しているつもりだ。
 諦めて松田は二人の後を追うように歩き出す。前の女性二人を見失わないように少し距離を置いて歩いていると、ぽかんと置いてけぼりになっていた弟も慌てて足を動かし、松田に並んで歩を合わせた。
「あの……松田さんって、姉貴の彼氏なんスよね?」
「そーだな。あいつがなんて説明したかは知らねえけど」
「高校生の時に助けてくれた優しい人だ、って。マジ?」
「まあ、俺はそん時のことほとんど覚えてねーけどな」
「でも本当なんだ……じゃあ『あの話』も聞いてるんスか? あの、姉貴の背中の……」
「ああ、それか……傷があんのは知ってる。つか、この前会ったあいつの元カレがベラベラ喋ってくれたぜ」
「え、マジ!? 松田さんもあいつに会ったんスか!? あんのクソ野郎、のこのこ姉貴の前に現れやがって……! 次会ったらぜってーぶっ殺す……!!」
「気持ちはわかるけど、ねーちゃんと自分の嫁を悲しませるようなことすんなよ」
 直感した。確かにこの弟は自分と似通った部分がある。あの男に関しては松田ですら腹が立つのだ。ひなたの弟も本気で怒っている顔だった。
「姉貴はなんも言わねえけど、俺のせいなんスよ、あの背中の傷……中学ん時に俺が悪さして他校の奴らに刺されそうになったところを庇ってできたヤツなんだ」
 そうだったのか、と松田は前を歩くひなたを見つめる。
 彼女は義妹と楽しそうにお喋りしていて、傍から見ても二人は姉妹のようだった。その様子は、仄暗い過去なんて少しも想像がつかないぐらい眩しい。
「ブラコンなんて言われるけどさ、姉貴は全然そんなんじゃないんだ。怒る時は怒ってくれる。あいつが妊娠したって話した時も、真っ先に俺を殴ったぐらい」
「自慢したくなるぐらいカッコイイよな、お前の姉貴」
 弟の話を聞いていると、自然と口から本音が零れた。
 口角を上げて笑う松田に、ひなたの弟は目を輝かせる。
「自分の大切なモンのために体張れるヤツなんてそういねーよ。俺もあいつのそーゆートコに惚れて口説き落としたんだ。だから……お前も自分の姉貴を誇ってやれ」
「……ねえ、松田さん……アニキって呼んでいい?」
「ははっ! お前、意外とチョロイって言われるだろ?」
 姉と同じ人が好さそうで、でも自分より先に父親になる少年。ちぐはぐな彼から慕われる気配を感じ取り、松田は思わず吹き出して笑ってしまった。
 笑われた彼の顔はやっぱり惚れた女と似ていて、松田は弟を可愛いと言う彼女の気持ちがほんの少しだけわかるような、そんな気がした。


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