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03

 清々しい水曜日の朝だった。
 憧れのヒーローが通っていた高校に入学してから一週間以上が経ち、真新しい制服の着心地にもようやく慣れ始めてきた頃である。初日は緊張と不安で胸一杯になりながら登校していたが、今では堂々たる足取りで通学路を歩いていた。
 朝から心が躍るのは、今日の午後に『ヒーロー基礎学』の授業があるからだ。楽しみのあまりいつもより早い時間に目覚めて自主トレーニングに励んでしまうほど、今日の緑谷出久はやる気に満ち溢れていた。
 ヒーロー基礎学は『平和の象徴』であり、自分の師匠でもある『オールマイト』が講師だ。前回の対人訓練で大怪我をしてしまったことを反省し、憧れの人を失望させぬよう、今日こそは無傷で自分の個性を使いこなしてみせる、と彼はひとり意気込んでいた。
 鼻息を荒くしながら背負ったリュックの肩紐を強く握り締め、また一歩力強く地面を踏みしめる──とその時、つんつんと誰かの指が緑谷の肩を突いた。
「緑谷さん」
「はいっ!?」
 突然の透き通るような女子の呼び声に思わず声が裏返り、緑谷は過剰に反応して飛び上がった。
 いつの間に背後に近づかれていたのか、全く気配を感じなかった。
 どっどっ、と激しく脈打つ心臓を押さえながら、緑谷は自分を呼び止めた人物を確認するために振り返る。
「あっ……さ、佐鳥さんっ……!?」
 背後に立っていたのは、佐鳥空だった。吸い込まれてしまいそうなほど綺麗な黒の瞳をぱちぱちと瞬かせた彼女はこちらに手を伸ばしたまま、小さな口を僅かに開いてぽかんとしている。
 大きな声で驚かせてしまったのだと気づき、緑谷は慌てて両手を振って謝罪した。
「ご、ごめん、驚かせたよね……!!」
「い、いえ……むしろ、私の方が驚かせてしまったようで……ごめんなさい」
「ううん、気にしないで……! えっと……お、おはよぅ……ござぃます……」
 これまでほとんど女子との接点がなかった緑谷は、女子との会話がやや不慣れである。麗日とは対人訓練を通して少し落ち着いて話せるようになったが、その他の女子生徒とはまだスムーズに話せるほど打ち解けていない。佐鳥もまた然りだ。
 挨拶をしているにも関わらず緊張から目が泳いでいる緑谷に対し、佐鳥はおどおどとしている緑谷の態度を特に気味悪がる素振りもなく、やんわりとその小さな口元に弧を描いた。

「はい。おはようございます」

 暗い印象を瞬く間に覆す陽だまりのような微笑と、血色の良い唇から紡がれる温もりのある声。そして朝日に照らされて輝く凪いだ瞳が、不思議と緑谷の心を落ち着かせた。
 緑谷は佐鳥と目を合わせ、歪ながらも笑みを返した。
「緑谷さんも早めに登校されるんですね」
「う、うん、まあ……今日はちょっと早くに目が覚めちゃって……」
 正直に「授業が楽しみで仕方なかった」というのはなんだか気恥ずかしい部分があるので、指で頬をかきながら言葉を濁した。
 佐鳥は「そうなんですね」と柔らかく笑んだまま相槌を打った。
 緑谷はそんな彼女を凝視する。
 ──改めて良く見ると、綺麗な顔だ。
 遠目だと長い髪の方が印象強くて気づかないが、近づいて見ればその顔立ちが整っていることはすぐに分かる。物憂げな無表情もこうして笑えば花が咲いたように明るくなり、長く伸びた前髪の間から見える瞳の奥にはやはりどこか惹かれるものを感じた。
 ──中身と外見が一致してない、って感じだ。
 ──まるで、そう、テレビで見る役者のように。
「……あ」
 腑に落ちた。緑谷が最初に感じた佐鳥への違和感は、それだ。
 佐鳥はクラスメイトの女子の中でも大人しい方だ。けれど、教室の隅でひっそりと過ごすような性格でもない。物腰が穏やかであるためか色んな人に話しかけられているし、自分からも進んで人の輪に入っていくタイプである。特に前の席に座っている八百万や、初日からよく話しかけに行く麗日や蛙吹梅雨と一緒にいることが多い。
 だが、彼女は愛想がいい反面、必要以上に他人のパーソナルペースに踏み込んだりすることもない。八百万達とも一緒にいるのを良く見かけるというだけで、特別仲が良いという印象も見受けられなかった。
 つまる話、他人行儀なこの態度も普段の愛想の良い笑顔も、今にして思えばわざとそう演じているように感じるのだ。
 ──別に、それが悪いとは、言わないけども。
「どうかしましたか?」
「! う、ううん! ごめん、何も……」
 そうこう分析してみたものの、緑谷は佐鳥のことを何も知らない。なかなか自分から話しかける機会がなかっただけなのだが、この数日間で彼女と話したことは一度もなかった。
 だから、こうして朝から出会えたのも何かの縁だろう。これを機に彼女について少しでも知ることができればいいと思った。
「あの……良かったら教室まで一緒に……行きません、か?」
 緊張を押し殺し、勇気を出してもう少し踏み込んで歩み寄ってみると、佐鳥はきょとりと瞬いてから嬉しそうに笑みを深めた。
「もちろん、よろこんで」
「んんっ」
 かゆい。なんだか返事がむずがゆい。他人行儀であることは一先ず置いておいて、八百万とはまた違った丁寧な返答に緑谷は口を噤んで何とも形容し難い表情になる。
 そんな緑谷の顔を見た佐鳥は不思議そうに首を傾げていた。「なんでもない」と苦し紛れに誤魔化しながら、緑谷は苦笑を浮かべて再び学校に向かうべく足を動かした。
「そういえば……先週出てた課題、間に合ったんだね」
「はい。八百万さんと蛙吹さんが丁寧に教えてくださったので、問題ありませんでした」
「そ、そっか……! それなら良かった……です」
「ふふ……気楽に話してくださって結構ですよ」
「あ、じゃあ僕も、その……敬語じゃなくて大丈夫だよ」
「私は長年の癖みたいなものなので……」
「そ、そうなんだ……?」
「はい。ですが、ふとした時に敬語がなくなることもあるそうなので……緑谷さんがお望みなら、もう少し砕けて話せるよう努力します」
「う、うん……? えっと……じゃあ、佐鳥さんのペースで、お願いします……?」
 自分が望むなら長年の癖も直すという姿勢が少しばかり気掛かりだったが、それが彼女なりに歩み寄ってくれた結果なのかと考えた緑谷は躊躇いがちに頷いた。せっかく知り合えたのだから、特に拘りがないのなら気軽に話して欲しいと思っているのは本当だ。
 すると、何を思ったか佐鳥はじっと緑谷の顔を見つめ、ぽつりと呟いた。
「……緑谷さんも、優しい人なんですね」
「え?」
「言葉の節々から、相手を気遣おうとする節が感じられます」
 出会って一週間。その間に会話を交わしたのは十分にも満たない時間だ。
 しかし、彼女は穏やかに微笑みながら迷いなくはっきりと告げた。そこには相手に媚びを売るだとか、単純に煽てて場を和ませようとか、そういう意図は全く感じられない。
 それを直感で察した緑谷は、ぼふんっと顔を真っ赤にした。
「そ、そんなことないよ……! 思ったことを言っただけで……!」
 真っ直ぐに褒められることは入学してから何度も経験しているが、とてつもなく照れ臭いものだ。ぶんぶんと腕を振り、そのまま腕で顔を隠す。顔が赤いことなんてすでにばれているだろうが、せめてもの抵抗だった。
「や、八百万さんや蛙吹さんの方が優しいと思う……」
「確かに二人も優しいですが、そこに優劣は存在しないですよ」
 何気なく比較対象として引き合いに出した二人だったが、彼女は緩やかな口調で一刀両断にした。
「大事なのは相手のために何をしたか、なので……優しさの形や程度も人それぞれ違って当たり前だと、私は思います」
 前を向き直った彼女の目は通学路の景色ではなく、どこか遠くの記憶を見つめているようだった。けれど、その瞳に宿る静かな輝きは強い意志を宿しており、玲瓏な声は否応なしに緑谷の心に溶け込んだ。
 息を呑んだまま、佐鳥の横顔からゆっくりと視線を逸らす。

 ──ああ、なんだ。
 ──どんなに他人行儀であっても、関係ない。
 ──彼女の心の底にあるものは、自分と同じだ。

 ──きっと、同じはずだ。

「……佐鳥さんも、本当は優しい人だと思うよ」
 ぽつりと零れた本音に、前を向いていた佐鳥が僅かに目を見開いた。
「少なくとも今、僕はそう感じた」
 また二つの視線が交わり、互いを真っ直ぐに見つめ返す。
 何かを堪えるように引き結ばれた小さな唇は、やがてゆるりと解かれて弧を描いた。
「……そうですか」
 透き通る声は、否定も肯定もしなかった。
 深緑の瞳を見つめた夜の瞳はそっと細くなり、楽しそうに微笑った。

「そう在れたらいい、と思っています。私も」

 彼女の瞳の縁が金色に光り、揺らぐ。
 それは瞬く間に元の色へと戻ったが、その一瞬で緑谷は自分の心臓を鷲掴みにされたような錯覚を覚えた。
 まさか、とずっと胸の奥に潜んでいた好奇心が、むくりと頭をもたげる。
「あの……佐鳥さんの、個性って──」
 緑谷が口を開いた時だった。
「あ、デク君と空ちゃんだ!」
 運悪く、彼の言葉は第三者の声によって遮られた。
 振り返ると二人のすぐ後ろを麗日と蛙吹が歩いていたらしく、彼女達はこちらに向かって手を振っていた。
「おはよー!」
「おはよう、緑谷ちゃん、空ちゃん」
「あ、お、おはよう!」
 またもや女子に話しかけられたことに狼狽える緑谷の隣で、同じく声をかけられた佐鳥が「おはようございます」と頭を下げた。
 そんな二人を交互に見た蛙吹は、顎に指を添えながら首を傾げた。
「空ちゃんが緑谷ちゃんと一緒にいるなんて珍しいわ」
「駅の近くで偶然お会いしたので、教室までご一緒させていただいてます」
「そうなんや! ね、私達も一緒に行って良いかな!?」
「う、うん! もちろん!」
「よろこんで」
 にこにこと嬉しそうに話す麗日に、佐鳥と緑谷は揃って頷いた。
 二人から四人に増えると、随分と賑やかになる。特に、仲の良い女子が三人も集まれば会話が弾むのは当然だった。
「実は今日の『ヒーロー基礎学』、ちょっと楽しみにしてるの。やっと空ちゃんの個性を見ることができるんだもの」
「あ、そっか。空ちゃん、今日が初めての基礎学やんね!」
「はい。私もオールマイトの授業がとても楽しみです。前回は確か、戦闘訓練だったと聞きましたが……」
「そうそう! デク君が凄かったんだよ! ね!」
「えっ!? あ、いや、結局僕だけ大怪我しちゃったし……」
 盛り上がる会話の中へと引きずり込まれ、緑谷は前回の失態を思い浮かべながら苦笑する。
 すると、佐鳥が僅かに表情を曇らせて視線を下に落とした。
「大怪我を……するような授業だった、ということですか……?」
「そんなことないよ! 僕が個性の制御できなかっただけで……!」
「……? そうだったんですね」
 己の個性の制御ができない、という点に疑問を抱いたようだが、佐鳥はほっと小さく息を吐いた。
「お互いに大怪我させるような乱闘を許可されたのかと思いました……対人戦闘訓練はクラスメイトの皆さんが相手ですし、あまり怪我をさせたくはないので」
「優しい……! ええ子や……!」
 遠慮がちに告げた佐鳥の理由に、麗日が思わず天を仰いだ。
 捉えようによっては戦闘に自信があると思われる発言だが、そこは推薦枠で合格している事実が彼女の実力を表しているので誰も気に留めなかった。
「ケロ……大丈夫よ、空ちゃん。まだ少ししか見ていないけれど、うちのクラスの人達はみんな強いわ。ちょっと打たれたくらいの掠り傷なら平気よ」
「そうだよ、佐鳥さん。もし怪我しても、リカバリーガールがいるから心配しないで」
「ええ……」
 蛙吹と緑谷の言葉に頷いたものの、佐鳥はほんの少し不安そうに眉根を寄せた。
「でも……今日は少し、嫌な予感がするんです」
「嫌な予感?」
「胸騒ぎのような……なんだかまるで、良くないものが入り込んでくるみたいな……」
 その言葉に全員が顔を見合わせる。
「入り込んだと言えば……先週のマスコミ、どうやって学校内に入れたんだろうね」
「マスコミ?」
「佐鳥さん聞いてない? オールマイトが先生になったってマスコミの人が取材におしかけて来たんだよ。ちょうどお昼の時間だったから、一時学校中パニックになったんだ」
「……門を、潜り抜けたということですか? 彼らが?」
「ええ。警察がきてくれて事態は収拾したけれど」
 学校の校門は通行許可証や学生証がなければ通り抜けられないセキュリティーを設けてある。同じく校舎内の至る場所に同じ設備が施されているはずだ。
 ──それを、潜り抜けた。それも一般人が。
 佐鳥が足を止めて眉を潜める。そんな彼女の顔を、緑谷はそっと覗き込んだ。
 相変わらず無表情だが、何か思うところがあるのだろう。彼女はいつになく真剣な表情で考え込んでいるようだった。
 それに緑谷達は再びお互いの顔を見合わせたが、このままだとHRに間に合わなくなってしまうことに気づき、彼女を急かして教室に向かうべく足を動かしたのだった。


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