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 見覚えのある物だった。
 朝から眠そうな目の佐鳥が丁寧にアイロンをかけている姿を見つけ、サー・ナイトアイは彼女の手元にあるそれを見て首を捻る。
「そのハンカチ……失くしたと言っていなかったか?」
 それは数年前、女性の嗜みの一つとして自分が初めて彼女に買い与えた物だ。以降、大切に彼女が使い続けていたのを知っていたが、入試試験の日に失くしてしまったとひどく落ち込んだ様子で話していた。新しい物を買えばいいと思ったが、「あれでなくては意味がない」と珍しく強い口調で言い張っていた。あの時のことは今でもサー・ナイトアイの記憶に残っている。
 すると、彼の質問に佐鳥は眠そうにしていた瞳をほんの少し輝かせた。
「あの日、轟さんのお姉さんが拾ってくださっていたんです」
 ──また轟か。
 聞き慣れてしまったその名前に、サー・ナイトアイは口を閉ざした。
 それは彼女の口からよく出てくる名前だ。最近では彼の父親であるエンデヴァーのもとで職場体験を行い、さらにはその家族とも交流があるという。
 ヒーローを目指す以上、色んなヒーローと交流があるのはいいことだ。彼女がなりたいものを考えると、人脈が増えるのも良い傾向である。
 ただ、一つだけ。どうしても保護者の立場としては妙に複雑な思いが胸の内で渦巻いている。
 無表情ながら嬉しさを目で訴えてくる彼女に、サー・ナイトアイは平静を装って頷いた。
「……そうか。見つかって良かったな」
「はい。もう失くしませんからね」
 ハンカチ一枚にそこまで執着する女子高生はいないだろう。しかし、彼女にとってはそれほどまでに思い入れの強い物なのだ。それが自分の買い与えた物であるとなると、少なからず喜びを感じてしまうのも仕方ないことかもしれない。
 ──『轟』という少年の存在も引っかかるのも、致し方ないことなのだろうか。
 ──話題に上がるのが同性の名前であるなら、まだ素直に彼女に友人ができたことを喜べたのだろうか。
 次は自分のシャツを黙々とアイロンがけしていく彼女の背中を見つめながら、密かに抱えるもやもやとした感情をどう昇華すべきか、サー・ナイトアイは一人思い悩むしかなかった。


 *** *** ***


「アッハッハッハ!」
「マジか!! マジか爆豪!!」
 朝、教室に入ってきた爆豪を見て真っ先に声を上げた瀬呂と切島。腹を抱えながら目に涙を溜めて笑い崩れる彼らに、原因の爆豪は青筋を浮かべて二人を睨みつけた。
「笑うな! クセついてついちまって洗っても直んねえんだ」
 そう言った彼の髪型はいつもの重力に逆らった尖った形ではなく、きちんと整えられている。まるで記者会見を行うタレントのような様変わりに、瀬呂と切島は大爆笑を止められなかった。
「おい笑うな、ブッ殺すぞ」
「やってみろよハチニイ坊や!!」
「アッハハハハハハ!!」
 ひいひいと呼吸困難に陥る二人。そんな二人に怒りを抑えていた爆豪が今にも爆発しそうになる。
 だが、その前に彼の後ろから入ってきた人物がいた。
「おはようござ──どうしたんですか、瀬呂さん、切島さん……そんなお腹抱えて笑って……」
 佐鳥だった。
 不思議そうに二人を見下ろした佐鳥は、自分の前に立つ人物に目を向ける。
 そして数秒、ぼんやりとした目で爆豪を見つめた彼女はこてんと首を傾げた。
「……転校生の方ですか? 初めまして」
「じゃねぇわ!! 死ねカス!!」
「「ぶっは!! 元に戻ったぁ!!」」
 ついにボンッと怒り心頭した爆豪。その拍子に元に戻った髪型に、佐鳥は目を瞬かせてきょとんとした。
「あ、爆豪さん」
「さも今気づきましたみてーに言うなコラ。わかってただろ? お前絶対わかっててやってんだろ、なあおい!」
「いえ全く。まさか髪型一つで人がそんなにも変わるとは……ふっ……勉強になりました」
「勝手に学んでんじゃねーわクソ人形女! つか今鼻で笑ったな!?」
「気のせいじゃないですか?」
 いつぞやの授業で見た喧嘩腰のそのやり取りですら瀬呂と切島の腹筋を壊すようで、二人はいよいよ絶倒した。
 腹を抱えながら止まることなく笑い続ける二人に、痺れを切らした爆豪は地団駄を踏みながら歩み寄って片腕で切島の首を締め、瀬呂の頭を押さえつける。
 それでも笑いが止まらない二人の様子からそれを『じゃれ合い』と判断した佐鳥は爆豪の暴挙を咎めることなく、彼の意識が逸れた隙に自分の席に向かうべくその場からそっと立ち去った。
 そこで佐鳥は轟と、その周辺に集まっている男子生徒に目を向ける。
 少しハラハラとした様子で爆豪とのやり取りを見ていた飯田と緑谷は、佐鳥が自分達の方に来ると安心したように笑った。
「おはよう、佐鳥さん」
「おはよう、佐鳥君」
「おはようございます。緑谷さん、飯田さん、怪我の具合はどうですか?」
「まだ完全に塞がってはいないけど、大丈夫だよ」
「俺も問題ない。佐鳥君は……今日は一段と眠そうだな」
「ええ……昨夜も早めに寝たはずですが、全く眠れた気がしません……」
 飯田の指摘に素直に答える佐鳥。
 相変わらず難儀な体質だ、と緑谷と飯田が苦笑する真ん中で、一人自分の席に座っていた轟がじっと佐鳥を見つめた。
 佐鳥も彼の視線に気づいて目を向けるが、その目はすぐに泳いだ。
「……焦凍さんも、おはようございます」
「……はよ」
 消え入るような小さな声に、はた、と飯田と緑谷が固まる。
 轟を見て、佐鳥を見て、もう一度轟を見る二人に、轟は不思議そうに首を傾げる。
「どうかしたか?」
「い、いや……佐鳥さんが今、轟君のことを名前で呼んだから、ちょっと驚いて……」
「ああ、昨日俺の母さん達に会ったから……苗字だと紛らわしいから名前で呼べって言った」
「あ、そうなんだ……僕、てっきり……」
「?」
 苦笑しながら赤くなった頬を指で掻く緑谷の視線はチラリと俯く佐鳥に向けられる。
 佐鳥はそんな緑谷の視線から逃げるように顔を背け、緑谷が何を言おうとしたかわからない轟は首を傾げる。
 その時、四人に向かって上鳴が声をかけた。
「まあ、一番変化というか大変だったのは……お前ら四人だな!」
「そうそう、『ヒーロー殺し』!!」
「命あって何よりだぜ、マジでさ」
「心配しましたわ……」
「エンデヴァーが助てくれたんだって!?」
「流石ナンバーツーだよね!」
 職場体験中に遭遇した事件について、当然のことながらクラスメイト達に詳細は知らされていない。世間と同じ情報しか知らない彼らに詳しく話すことはできず、口々にかけられる言葉に佐鳥達はただ曖昧に笑って誤魔化す。
「……そうだな。『救けられた』」
「うん」
 顔色一つ変えず呟くような轟の言葉に、緑谷は相槌を打つ。
 続けて、尾白が口を開いた。
「俺ニュースとか見たけどさ、ヒーロー殺し……敵連合とも繋がってたんだろ? もし、あんな恐ろしい奴がUSJ来てたらと思うとゾッとするよ」
「でもさぁ、確かに怖えけどさ、尾白動画見た?」
「動画って、『ヒーロー殺し』の?」
「そう。アレ見ると一本気っつーか、執念っつーか……『かっこよくね?』とか思っちゃわね?」
「上鳴君……!」
「え? ……あっ、飯……ワリ!」
 軽率な上鳴の言葉を緑谷が慌てて制止する。上鳴はすぐに自分の左腕の怪我に視線を落とす飯田に気づき、口を押さえて謝った。
 佐鳥はチラリと飯田を見る。
 彼は思案するような表情で腕を見つめたまま、上鳴の言葉を真っ直ぐに受け止めた。
「いや……いいさ。確かに信念の男ではあった……クールだと思う人がいるのもわかる。ただ奴は、執念の果てに『粛清』という手段を選んだ。どんな考えを持とうとも、そこだけは間違いなんだ」
 言いながら、飯田は右腕を上げて真っ直ぐに振り下ろす。
「俺のような者をもうこれ以上出さぬ為にも!! 改めてヒーローへの道を俺は歩む!!」
「飯田君……!」
「さあ、そろそろ始業だ。席につきたまえ!!」
 いつものテンションでみんなを着席するよう誘導する飯田。
 うるさい、と顔をしかめるクラスメイト達に構わず委員長っぷりを発揮する彼を見た緑谷と佐鳥は、互いに顔を見合わせると安心したように微笑み合う。
 そんな三人を、轟はただ静かに見つめていた。


 *** *** ***


「ハイ、私が来た──ってな感じでやっていくわけだけどもね、はい。ヒーロー基礎学ね! 久しぶりだ少年少女! 元気か!?」
「ヌルっと入ったな」
「久々なのにな」
「パターンが尽きたのかしら」
「尽きてないぞ。無尽蔵だっつーの」
 生徒達のツッコミに言葉を返しながら、オールマイトは本日の授業内容について説明を始めた。
「職場体験直後ってことで今回は遊びの要素を含めた救助訓練レースだ!!」
「救助訓練ならUSJでやるべきではないのですか!?」
「あそこは災害時の訓練になるからな。私はなんて言ったかな? そう、『レース』!!」
 オールマイトの言葉に、佐鳥は本日の舞台となった『運動場γ』を見渡した。
 目の前に広がるのは工業地帯だ。複雑に入り組んだ細い道は迷路のようになっており、建物の上も細かい導管がいくつも繋がっていて足場らしい足場が少ない。
「五、六人で四組に分かれて一組ずつ訓練を行う! 私がどこかで救難信号を出したら街外から一斉スタート! 誰が一番に私を助けに来てくれるのかの競争だ!!」
 ちなみに、とオールマイトはゆっくりと腕を動かして爆豪と佐鳥を指し示す。
「もちろん、建物の被害は最小限にな!」
「指さすなよ」
「私、何か壊しましたっけ……?」
 そっぽを向く爆豪は自覚があるようだが、佐鳥は指摘されるような覚えはないらしい。無表情のまま首を捻る彼女に、「自覚無しか……!」というその場にいる者の心の声は残念ながら届いていなかった。
「じゃあ、始めの組は位置について!」
 一組目は緑谷、尾白、飯田、芦戸、瀬呂、五人に決まった。
 それぞれが位置につくまでの間、待機組はモニターを見上げて見学することになる。
「飯田、まだ完治してないんだろ。見学すりゃいいのに……」
「クラスでも機動力良い奴が固まったな」
「うーん。強いて言うなら緑谷さんが若干不利かしら……」
「確かに。ぶっちゃけあいつの評価ってまだ定まんないんだよね」
「何か成す度、大怪我してますからね……」
「トップ予想な! 俺、瀬呂が一位」
「あー……うーん。でも、尾白もあるぜ」
「オイラは芦戸! あいつ運動神経すげえぞ」
「デクが最下位」
「怪我のハンデはあっても飯田くんな気がするなあ」
 切島や八百万達の話し声に耳を傾けながら、轟は静かにモニターを見つめる佐鳥に声をかけた。
「……お前は誰だと思う?」
「緑谷さん」
 迷いのない声で佐鳥は即答した。その返答に、全員の視線が彼女に向く。
 その目はとても真剣で、しっかりとメンバーを吟味した上での答えだとわかった。
「なんでだ?」
「グラントリノのところで特訓して何も得られないはずがありません。緑谷さんは普段からたくさんのことを考えているタイプなので、絶対に成長は早いはずです。……なので、半分は希望です」
 半分は希望的観測。半分は友人としての応援。しかしその理由からは緑谷だけでなく、グラントリノへの絶対的な信頼も感じられた。
 轟はそんな彼女の横顔をじっと見つめ、無言でモニターへと視線を戻した。
 スタートの合図と共にブザーが鳴り響くと、真っ先にトップに躍り出たのは瀬呂だった。個性の『テープ』を使い、彼は器用に上空からオールマイトのいる方を目掛けて『個性』を駆使しながら飛んでいく。
「ほら見ろ!! こんなごちゃついたとこは上行くのが定石!」
「となると、滞空性能の高い瀬呂が有利か」
 予想通り、と喜ぶ切島に続いて障子がそう言った時だ。
 瀬呂の傍を素早くすり抜けていく一人の少年がいた。
「おおお緑谷!?」
「なんだその動きィ!?」
「すごい……! ピョンピョン……」
 まるで爆豪みたいだ、と驚きの声を上げる麗日やクラスメイト達。轟ですら少し驚いた表情を浮かべるのを見て、佐鳥も薄らと笑みを浮かべる。
 ──が、勝負というものは最後までわからないものである。
 右へ左へ、上へ下へ。
 そうやって身軽に建物を飛び移って緑谷だが、その調子はいつまでも続かなかったのである。


「緑谷さん、大丈夫ですか?」
「う、うん……なんとか……」
 肩を落としている彼に声をかけた佐鳥。
 レースの結果、最初の組のトップになったのは残念ながら佐鳥が予想した緑谷ではなく切島が予想した瀬呂だった。緑谷も以前より上手く『個性』を使いこなしていたが、建物を飛び移っている途中で足場を踏み外して落下してしまったのである。
「すぐに瀬呂さんが救けてくださって良かったです」
「いやー、あれは俺も流石にビビったわ」
「ご、ごめん……ありがとう、瀬呂君」
 緑谷のお礼に瀬呂は親指を立てて笑う。
「でも、デク君もすごかったよ! ぴょんぴょんしてた!」
「私、空ちゃんの予想通り緑谷ちゃんが一位になるかと思ったわ」
 麗日と蛙吹が佐鳥の後ろからそう声をかける。二人の励ましと佐鳥が自分の実力を評価してくれていた事実に、緑谷は照れくさそうに笑いながら再びお礼を口にした。
「おーい、佐鳥、蛙吹! お前らこの次だろ、早く行かねえと!」
「あ、はい。すみません」
 切島に声をかけられて、佐鳥と蛙吹は慌てて動き出す。
「ケロ……負けないわよ、空ちゃん」
「! ……はい。私も、全力でいきます!」
 頑張って、と送り出してくれる緑谷と麗日に手を振ったあと、蛙吹は真っ直ぐに佐鳥を見つめて宣戦布告する。
 それに、佐鳥も真剣な表情で頷いた。
 二組目は常闇、三組目は轟のトップで終わった。
 最終組は佐鳥、蛙吹、爆豪、八百万、青山の五人だ。
「最終組、位置についたかな?」
 オールマイトの放送を耳に入れながら、全員がごくりと唾を飲む。
「なんで佐鳥と爆豪がまた一緒なんだよ……」
「一番やっちゃいけねぇ組み合わせだろ……」
「でも、一位はわかんねえよな。梅雨ちゃんも身軽だし、ヤオモモは『個性』でどうにかなりそうだし」
「青山も飛ぶことはできるもんね」
 そんなクラスメイト達の言葉を聞きながら、緑谷も不安げな表情で佐鳥の映るモニターを見つめた。
「佐鳥さん……本当に大丈夫なのかな……」
「副作用のことか?」
「うん……本人は慣れたのか平気みたいだけど、やっぱり少し気になるというか……」
「確かに。マシになったとはいえ、顔色はまだ良くなかったが……」
 教室に入ってきたばかりは眠そうな顔をしていた。その後も、授業を終えるごとに眠気が酷くなっているようだった。動けば眠気も吹っ飛ぶようでヒーロー基礎学が始まる頃には普段通りになっていたが、それでも万全とは言い難い状態なのは言うまでもない。
「でも何より、かっちゃんと一緒というのが不安」
 わかる。
 言葉通り不安そうな緑谷の言葉に、全員が激しく心の中で同意する。
 しかし、そんな緑谷達の心配をよそに、最後のレース開幕のブザーが鳴り響いた。


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