image

28

 静かな病室でぼんやりと外を眺めるのは慣れた。
 考えなくてはならないこともあるし、意識していなくてもふと思い出してしまうことはたくさんある。ここ最近、そうした思考の中で良く思い出すのは、末の息子のことだ。
 入院して初めて顔を見せに来た息子が視線を逸らしながらもこれまでのことを謝ってくれた日のことを思い出すと、今も言葉にできない感情が込み上げてくる。
 そう言えば、今週は来られないかもしれないと言っていた。
 ぽつぽつと相変わらず視線は交わらないまま交わした会話の中で、「親父のとこに職場体験に行く」という話をしていた幼さの残る顔立ちを思い出し、ふと考える。
 夫と険悪な関係になっていることは察していた。甲斐甲斐しく見舞いに来てくれる娘からも話には聞いている。
 ──今頃、どうしているだろう。
 昔から夫のことを恐れて近づくことも嫌がっていた我が子が少し心配になった時、病室の扉が静かに開かれた。
「お母さん。洗濯物、持ってきたよ」
「いつもありがとう」
 自分と同じ真っ白な髪に、僅かに混じった赤。自分とは違って明るい印象を与える優しい笑顔の冬美に、この子も大きくなったものだ、と轟冷は小さく微笑み返した。
「何か他に足りない物とかある? 今日、焦凍が帰って来るからあまり長居できないけど……」
「ううん、大丈夫。……そう。焦凍、今日帰ってくるのね。ちょうど今、あの人の所へ行くと話していたのを思い出して心配していたの」
「あー……まあ、大丈夫だと思うよ」
 少し困ったように視線を逸らしたが、冬美は気を取り直して微笑んだ。
「友達も一緒らしいしね」
「友達?」
「そう! あ、焦凍からまだ聞いてない? 去年、私がひったくりに遭った時に助けてくれた女の子、焦凍と同じクラスなんだって。しかもお父さんの所に一緒に行ってるの、その子らしいの!」
「まあ! まるで運命みたいな出会いだわ……! あの子にもいいお友達ができたのね」
「でしょ? 最近、焦凍の口からよくその子や他のクラスメイトの話題が出るんだ」
「ふふ……あの子がそんなに話すなんて、いったいどんな子なのかしら……」
「見た目はおさげでちょっと大人しそうな印象の子かな……でもすごく強くて、笑うとお人形さんみたいに可愛い顔してたよ」
「そう……私も一度会ってみたいわ。お名前はなんていうの?」
「佐鳥さんっていうの。今度お見舞いに来たら焦凍に聞いてみなよ。口数が増えて面白いよ」
「佐鳥……?」
 冬美の言葉に、冷は目を瞬かせた。
「その子……もしかして、佐鳥空ちゃん……?」
「えっ!? お母さん、知ってるの!?」
 名前を言い当てた母に冬美は目を丸くする。
 対し、冷は冬美の反応から自分の知る人物であると確信し、静かに首を横に振った。
「いいえ……会ったことは一度も」
「え……じゃあ、なんで……」
「その子のお母さんと、友達なのよ。とても優しい人だったわ」
「『だった』?」
 冬美が気になって言及すると冷は寂しげな微笑を浮かべた。


 *** *** ***


「……お前達、今日もタップのアレに付き合ったのか」
「と……とても有意義な時間でした……」
 職場体験最終日。自分の仕事について回っていた轟と佐鳥を見たエンデヴァーは、そのボロボロになった姿を見てひょいと片方の眉を上げて怪訝な顔をした。
 疲れを滲ませた声音で答える佐鳥の隣で、轟も顔をしかめながら全身の筋肉痛に耐える。
 タップ本人が『地獄のトレーニング』というだけあって、その内容はとてつもなくハードなものだった。柔軟から始まり、筋トレ、走り込み、筋トレ、組手、筋トレ、筋トレ──思い出すだけで筋肉痛になりそうな内容だ。それが連日続き、加えて最後には様子を見に来たエンデヴァーから直々に指導が入ったのだが、それもまた追い打ちとなって二人の体に鞭を打つことになった。
 節々の痛みに耐える二人を見下ろしていたエンデヴァーは僅かに口角を上げ、まず佐鳥に目を向けた。
「……まあ、あの程度で一切弱音を口にしなかった根性は認めよう。これからも鍛錬に励め」
「! ……ありがとうございます。肝に銘じます」
 トレーニングの途中でさえ全く褒めることをしなかったエンデヴァーからの激励に、佐鳥は少し驚きながらも素直にお礼を伝える。
 そんな彼女に小さく頷き返すと、次にエンデヴァーの視線は自分の息子へと向けられた。
「焦凍! お前もまだまだ自己鍛錬が足りん! その調子ではオールマイトはおろかこの俺を超えることも──」
「言われなくてもわかってる」
「焦凍ぉおお!! 父の言葉は最後まで聞けェえ!!」
 目くじらを立てる父を前に、轟はぷいっと顔を背けた。
 いくら父親とはいえ、今はプロヒーローから指導を受ける立場だ。あまりに不愛想で礼儀の欠ける態度に、見かねた佐鳥が小声で窘める。
「……轟さん、流石にそれは駄目ですよ」
「いつも同じことしか言わねぇんだ。聞き飽きた」
 こればかりは佐鳥の言葉も聞き入れるつもりはないようで、轟はつんとした態度のままだった。
 あからさまなその様子に、佐鳥は少し困った顔をしてエンデヴァーに目を戻す。
 彼はそっけない息子の反応に慣れているのか、それとも慣れているのか、「まあいい」と話を流して佐鳥に視線を合わせた。
「少し予定より早いが、職場体験は終わりだ。センリ、俺はお前の今後に期待している。くれぐれも焦凍の足を引っ張ることだけはするなよ」
「はい。お世話になりました」
 その期待にどのような意味が込められているのか想像がつくので、佐鳥もそれについて追究することはなく、適当に聞き流してぺこりと頭を下げた。
 そんな彼女の隣で、しかめっ面の轟は最後まで父と目を合わせようとはしなかった。


 電車に乗り込んでからも、二人の間に会話はほとんどなかった。
 流れる景色を眺めていた轟は、ちらりと向かい側に座る佐鳥の顔を見る。
 行きと同じく、彼女は窓の外をぼんやりと見つめていた。その無表情からは何を考えているのかはわからないが、何度も開閉を繰り返す瞳は少し眠そうだ。連日の『個性』の使用やタップのトレーニングにより疲弊しているのだろう。
 話しかけるのはやめた方がいいか、と考えた轟は視線を逸らす。
 しかし、そんな彼の配慮に反して、佐鳥はぽつりと呟いた。
「タップさんにも、ちゃんと挨拶をしたかったですね……」
「! ……仕事が入ったなら仕方ないだろ」
 今でこそ『エンデヴァーの相棒』だが、タップ自身も昔は独立していたヒーローの一人だ。その伝手で出動要請がかかることも多いらしく、今日もトレーニングを終えてすぐに現地へと出かけて行った。
「そうですけど……ちょっと残念です。あとでメールを送っておきますが……」
「……いつの間に連絡先なんて聞いたんだ?」
「帰る前にエンデヴァーさんに教えて頂きました。あと、エンデヴァーさんの連絡先も……今後、必要になることもあるかと思いまして」
「それはないから消しとけ」
 すかさず眉根を寄せて否定した轟。職場体験の初日は父親に対する反抗期も落ち着いているかと思いきや、蓋を開けてみれば案外そうでもなかったようだ。
 クールを通り越して氷点下まで下がった冷たい言葉に、佐鳥はいよいよ呆れた声と視線を向けた。
「轟さん……流石にちょっと意地悪が過ぎませんか……」
 轟はまたもやぷいっと顔を背けた。
 佐鳥はそんな轟に苦笑いを浮かべる。
「『エンデヴァー』はそんなに悪い人ではないと思いますよ」
「……そうだな。少なくとも『ヒーローとして』は学べることはたくさんあった。あの実力は確かに本物だと思う」
 言外に『親として』は認めたくないと言う轟に、佐鳥は肩を竦めながら問いかける。
「では、今後もエンデヴァーさんのところで学ばれるのですか?」
「そのつもりだ。……佐鳥はどうだった?」
「実に有意義な一週間でした。エンデヴァーさんだけでなく、タップさんから学べることも多かったです。……トレーニングは……少しきつかったですが……」
「ああ……あのトレーニング量には驚いたな……『一芸だけじゃヒーローは務まらない』って相澤先生も言ってたけど、サポート系のヒーロー達はみんな体鍛えて人一倍努力してんだ、って痛感した」
「はい……もし私の個性がこの『目』だけだったら、きっとタップさんのように努力しなければ雄英には入れませんでしたね……」
 時間の許す限り最後まで自分達の指導にあたってくれたタップのことを思い出し、佐鳥は己の目元に触れながら言った。その表情がどこか思い耽るようなものだと気づくと、轟は無言で再び視線を逸らした。
 さっきから彼女が何について考えていたのか、ほんの少しだけわかった気がした。
 そして少し考え込んだあと、彼女はぽつぽつと言葉を紡いだ。
「……先日の、轟さん達の質問ですが」
「……おお」
 轟は静かに相槌を打った。
「正直、なんと言えばいいのか……まだわからないです。本当なら今頃、私は佐鳥家以上に厳しい監視下に置かれて過ごすはずでした。それでもこうして雄英に通って自由にしていられるのは、オールマイトや他にも協力してくれたヒーロー達のおかげなんです。今もまだ私は彼らに守られている未熟者で、堂々と『個性』を使って彼らの助けになることもできません」
「……おお」
「でも私は……こんな私を守ってくれる彼らに何らかの形で恩返しがしたいんです。それが例えみんなと違う道だとしても、理解し難いことだと言われても……『今』できることの中で最善を尽くしたいと思っています」
「……その言い方は、ヒーローを目指す以外の『理由』があるってことか?」
「……はい」
 静かに、それでいてはっきりとした口調で、佐鳥は頷いた。だが、その理由については語ろうとせずに口を閉ざしている。
 轟はそんな彼女の顔をじっと見つめ、少し思案するように窓の外に目を向けた。
 そこでふと、彼は自分のポケットの中で震えるスマホに気づいた。
「……佐鳥、このあと予定あるか?」
「? いえ、家に帰ってレポートを済ませるぐらいですが……」
 スマホを見ながら話す轟に首を傾げながら答える佐鳥。
 何度か画面をタップしたあと、轟はいつもと変わらない無表情で告げた。
「それなら、俺と一緒に来てくれないか」
 唐突な誘いに佐鳥はきょとんとした。夜を象る瞳が「いったいどこへ?」と視線で問いかけてくる。
 その目を真っ直ぐに見つめ、轟はおもむろに口を開いた。
「……母と、会って欲しい」


 *** *** ***


 ──彼女の面影がある。
 その少女を一目見た瞬間、冷はそう思った。
 艶やかなおさげの黒髪と、日焼けを知らない白い肌。長く伸びた前髪の間から覗く大きな黒真珠は夜の海を連想させるような輝きを潜め、少し小さめの唇は表情の強張りを隠すようにきゅっと引き結ばれている。
 それは無表情ながら緊張している様子だ。それでも彼女は冷と視線が交わると小さな微笑を浮かべ、恭しくぺこりと頭を下げた。
「初めまして。突然の訪問、失礼いたします。雄英高校一年A組、佐鳥空と申します。クラスメイトの焦凍さんにはいつも大変お世話になっております」
 玲瓏な声が、とても高校生とは思えない丁寧な挨拶を述べた。
 あまりにも年不相応な口上に思わず冷はぽかんとしたが、すぐに柔らかい微笑みを浮かべて応対する。
「初めまして、焦凍の母の冷です。……空ちゃん、と呼んでもいいかしら?」
「どうぞ。お好きにお呼びください」
 淡々とした堅苦しい口調だが、その表情は冬美の言う通り愛らしいものだ。
 冷は友人である女の面影を重ねながら懐かしむように目を細め、二人を椅子に座るよう促した。
「お客様が来るとは思わなくて、飲み物とかなくて……ごめんなさいね」
「いえ……どうか、お気になさらないでください」
 やんわりとした微笑で首を横に振るが、強張った雰囲気は変わらずだった。
 轟がチラリと佐鳥の顔を見て、視線を下に向ける。
「まさか焦凍がお友達を連れて来てくれるだなんて思わなかったわ」
「冬姉から……お母さんも佐鳥に会いたがってるって聞いて……知り合い、なんだって? こいつの母親と……」
「ええ、そう。そうなの」
 息子の質問に、冷は朗らかに微笑んで佐鳥に目を向ける。
「実は私、空ちゃんのお母さんとお友達なの。冬美からあなたの名前を聞いて、もしかして、と思って……」
「! 母と……友達だった……?」
「知らなくても仕方ないわ。お互い結婚してからはほとんど手紙のやり取りしかしなかったから……でも、彼女から何度かあなたの写真が送られてくることはあったのよ」
 冷の言葉に佐鳥の目が見開き、揺らぐ。
 そして、それは戸惑うように視線を落とした。
「すみません……母は……もう……」
「ええ……夫から聞いているわ。『個性の副作用で、いつ目覚めるかもわからない』って……」
 ばっと轟と佐鳥が同時に顔を上げる。
 その目は驚きに見開かれており、冷は息子達の反応に首を傾げた。
「? どうかした……?」
「いや……その……」
「……すみません。エンデヴァーさんが、母のことを冷さんに伝えているとは……思ってもいなかったので」
 言い淀む轟に代わり、佐鳥が平静を装いながら答える。
 相も変わらず戸惑いが滲むその瞳を不思議そうに見つめながら、冷は「そう」とまた微笑んだ。
「空ちゃんは顔立ちがお母さんによく似てるわ」
「……ありがとうございます」
「彼女ね、手紙ではいつもあなたのことを書いてたわ。とても可愛らしい自慢の子だって」
「……そう、だったんですね」
「ええ。佐鳥家のことは少しだけ聞いていたから心配だったのだけれど……空ちゃんのお父様はあなたを大切にしてくださっているのね。あの子の願い通り、今はもう家に縛られずに過ごせているようで安心したわ」
「……」
 いよいよ佐鳥は愛想笑いを浮かべることもできずに唇を引き結んだ。
 眉を寄せて言葉に詰まる佐鳥と、彼女とは対照的に嬉しそうに微笑んでいる冷を交互に見て、轟はただ沈黙に徹する。
 冷もまた、神妙な二人の表情に気づくと困ったように首を傾げ、佐鳥を見つめる。
「……空ちゃん?」
「……私は……」
 迷いながらも言葉を発した佐鳥の言葉を、大きなバイブ音が遮る。ハッとしてスマホの画面を確認した佐鳥は慌てて立ち上がった。
「すみません……家の人から連絡が……」
「いいの、気にしないで。行ってらっしゃい」
「ありがとうござます。少し、失礼します」
 足早に病室を出て行く佐鳥を見送り、冷は静かに話を聞いていた自分の息子へと目を向ける。
「とても礼儀正しい子ね」
「……うん。すごく、いい奴だよ。……優しくて、強い奴だと思う」
「そう……まさか二人が出会うなんて思わなかったけれど、仲良くなってくれたならお母さんも嬉しいわ」
「……あいつ、知らない所でいつも無理するから……誰かが見てねぇと……」
「……そう。そういうところも、お母さんにそっくりなのね……」
「……お母さん。佐鳥のお母さん、俺は会ったことあるか?」
「え?」
「小さい頃……一度だけ知らない人がお母さんに会いに来ていた記憶がある……もう、顔もはっきり思い出せないぐらいおぼろげになってるけど……」
「そう……そうね。そう言えば、一度だけあったかしら……」
 懐かしむように当時のことを思い出しながら、窓の向こうを見た冷は寂しげに頷いた。
「思い返してみれば……あの時の彼女も、ずっと思い悩んでいたのね……」
 轟は視線を落とした。
 その涼しげな顔が気難しい表情を浮かべて考え込んでいることに、窓を見つめている母が気づくことはなかった。


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -