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Prologue

 その日の天気は快晴。雲一つない晴れだった。布団を干すには絶好の日和である。
 家族数人分の布団を竿にかけた女は、青々と広がる空を見上げながら「よし」と笑みを浮かべた。
 今日の情報番組の星座占いで、女は最下位だった。しかし、女はそういったものに興味を示すものの、本気で信じているわけではなかった。例えそれが巷で『悪い結果だけが当たる占い』だなんて言われていても気にしていない彼女は、時計を確認してからスマホを手に取る。
『今日、夕飯は外で食べよっか』
 挨拶もなくそのメッセージを送信した相手は、女より七、八歳年下の弟である。ちなみに、今日は推薦入試があるとのことで朝早くから家を出ている。彼が出かけてからすでに二時間は過ぎているので、おそらく試験も始まっているだろう。返事は特に期待していないし、あるとしても返信が来るまであと数時間かかる。
 そう判断した女は思い立った様子で部屋に戻る。テキパキと服を着替え、そこそこ名のあるブランドの鞄を手に持った。
 この日、女は仕事が休みだった。だが、仕事が休みだったとしても女には家事がある。今も病院で過ごしている母親の代わりに家族の世話をするのは、女の役目だったからだ。
 だが、今日は家に誰もいない。他の兄弟も出かけているし、父親は仕事で朝からいないので、家にずっといる必要もない。
 それなら、折角の貴重な自由時間を有意義に過ごすべきだろう。そう考え、弟の入試が終わるまでショッピングでも楽しもうと、浮き立つ思いで女は家を出た。

 ──この時、女はまだ何も知らなかった。
 ──『悪い結果だけが当たる占い』が、事実だったということを。

 一通りショッピングモールの中を歩き回り、小休憩のためにカフェで寛いでいた女はふと、テーブルの上に置いたスマホがブルブルと音を鳴らしたことに気づいた。
 もしや、と思って画面を確認してみると、彼女の想像した通り弟からの返信だった。
『今終わった。どこ行けば良い?』
 クールな性格だが、誘いを断らないところが弟らしい。簡潔なその文章に笑みを零しながら、女は『お疲れ様』という猫のスタンプを送り、自分が入試会場の近くにあるショッピングモールにいることを伝える。続けて出入り口付近で待っていると送れば、間を置かず弟からは『すぐに行く』と短い返事があった。
 入試会場の近くと言っても、場所は駅一つ分離れた隣町である。弟が到着するまでに二十分はかかるだろう。
 女はのんびりと残っていた紅茶を飲み干してから席を立った。
 会計を済ませてモールの出入り口へと足を向けると、案内板の前に何人か人が集まっていた。自分達と同じくモールの中にある飲食店で夕飯を食べようと思っているのだろう。全員の視線が飲食店のある階に注目していた。
 自動扉越しにそれをぼうっと眺めながら店の前に立っていると、またスマホが震える。
 弟からの着信だった。
『わりぃ。着いたけど、どこにいるかわかんねぇ』
「え? 店の前に立ってるけど……」
『……今、案内板見てる。もしかして、姉さんとは反対側の入り口に来たかもしんねぇ』
「あ、ごめん。それじゃあ私がそっちに行──」
 ──行くね。
 踵を返しながらそう言葉を続けようとした、矢先だった。
 背後から誰かに突撃され、女は体勢を崩した。膝を着いた拍子に手から買い物袋とスマホが離れ、地面に落ちた衝撃音を耳に入れた弟が『姉さん? どうかしたのか?』と電話越しに気遣うような声をかけてくるのが聞こえた。
 ──大丈夫。周りが見えてなくて、ただ人とぶつかっただけ。
 そう伝えようと、女は慌ててスマホと紙袋を拾い上げるために手を伸ばす。
 しかしそこで、彼女は自分の体がさっきより身軽であることに気づいた。
 スマホを手に取りながら周辺を見渡すと、ワニの頭をした男が路上を駆け抜けて行く姿が目に入る。その手に握られているのは、さっきまで自分が手に持っていたブランドの鞄だった。
「や、やられた……!」
『何があった』
「ひったくりーっ! 私の鞄を返してーっ!」
 無意識に声を上げたそれが弟の質問に答えてしまったが、女は通話を切ることも忘れて「誰かその人を止めて!」と叫んだ。
 しかし、相手はひったくり犯で、かつ自分の身を守るために己の爪を振り回している。近づこうとした人は簡単に引っかかれて腕や顔から血を流していた。
 ──これはまずい。
 女は弟との通話をそのままに足を動かした。今日は動きやすい靴を履いていたので、すぐに走り出すことができた。
 男の姿はまだ見失っていない。捕まえられる術はないが、自分が追いかける方が早いだろう。犯人に間に合うかどうかも分からないが、それでもここで何もしない訳にはいかない。
 咄嗟にそう考えて女が犯人を追いかけた時だった。
「危ない!」
 焦燥と緊張を滲ませた誰かの声が聞こえ、女は犯人の向こう側に意識を向ける。
 いつの間にか、制服を着た一人の女子学生が犯人を見据えて静かに佇んでいた。長い髪をおさげにした、弟と同じ年頃の地味な印象の少女である。
 今日は休日だ。学生姿は限られているので、おそらく弟と同じで推薦入試を受けていた生徒なのかもしれない。
 ──迎え撃つつもりなのか。
 少女の考えを察し、女は唇を噛みしめた。
 犯人から逃げないということは、それに対抗する『術』があるということだ。
 だが、それは決して許してはならない行為である。
 女は、小学校教諭だ。教師として、『国が認めていないこと』をにさせるわけにはいかない。ただ通りすがりの無関係の少女に、そんな選択肢を与えてはならなかった。
「逃げて!」
 女はあらん限りの声を上げた。
 けれど、それは間に合わなかった。
 犯人が、目の前の少女を自分と対峙する敵であると判断したからである。
「邪魔だ小娘!」

 通常の人間では想像もできないほど、大きな手が振り上げられる。
 鋭く研がれた長い爪が、太陽に照らされて光る。

 ──そして。

「……え」
 女は、目を見開いた。
 犯人の手が振り下ろされたその時、少女の口角が僅かに上がり、黒真珠の瞳が一瞬だけ金色に光った。
 刹那、風が路上を吹き抜け、少女の姿が消える。

 ──否。
 消えたのではなく、少女は犯人の頭上を跳躍していた。
 ふわりと長いおさげとスカートを靡かせて、少女は宙に浮いている。
 物憂げな無感情の眼差しは、真っ直ぐに犯人を見つめたまま。

 ──小さな唇が、僅かに開いた。

「沈んで」

 玲瓏な声は、はっきりと女の耳に届いた。
 空中で一回転。その勢いで落ちた少女の踵が犯人の頭に直撃する。小柄な体躯からは想像もできない、犯人の鋭い爪の恐ろしささえ覆すほどの威力で、その技は見事に決まった。
 脳天に一撃を受けた犯人の体がぐらりと傾き、地面に落ちる。
 それを見届け、難なく地面に着地した少女は男の手から女のバッグをゆっくり引き抜いた。

 少女が、振り返る。
 自分を見つめるその瞳と視線が交わり、女は動きを止めた。

 少女は、微笑った。
 優しい、温かさの感じられる笑みだ。
 けれど、それはどこかわざとらしく作られているようにも思えた。

 少女が、女に向き直る。
 背筋を伸ばし、堂々たる歩みで近づき、悠然とした態度で、その手にある物を差し出した。

「どうぞ」

 女は呆然としながら、それを受け取った。
 目の前の少女は、どこからどう見ても『普通』だった。つい今し方、狂暴なひったくり犯を地面に沈めたとは思えないほど。
 なのに──否、違う──だからこそ一瞬、女は彼女を人形のようだと感じた。
 少女の瞳には、今起こった一瞬の出来事に何の感情も抱いていない。命を脅かされた恐怖も、敵を倒した高揚感も、何もないのである。まるで『そうあるべき』だとプログラムされているかのように、そう対処するべきだと刷り込まれているかのように、彼女はさも当然のように自分の敵を排除しただけだった。
 女が自分の鞄を手にすると、少女は微笑んだまま頭を下げて顔を背けた。

 遠くで、パトカーの音が聞こえる。

「姉さん、怪我はしてないか?」
 聞き慣れた弟の声が聞こえた時、彼女はようやく我に返った。
 赤と白のツートンカラーの髪。左右で色の違う目の周りに残った火傷の痕。それが視界に入った時、女はしまったと辺りを見渡した。
 やはり、あの少女の姿はもうどこにもない。
「姉さん?」
「あ、うん……ごめんね、心配かけちゃった」
 女は頷いて、気遣うような眼差しを向けてくる弟に微笑んだ。
「何があったんだ?」
「ぶつかった直後に鞄を取られちゃって……でも、通りすがりの女の子が取り返してくれたから、大丈夫」
「女の子?」
「制服を着ていたから、推薦入試を受けていた子かも……分かる? 黒髪の、おさげの女の子だったんだけど……」
「……他の奴の顔なんて、いちいち見てねぇよ」
 言いながら、弟は少し申し訳なさそうに視線を落とした。すると、そこで彼は視線の先に落ちている物を見つけ、拾い上げる。
「これ……」
「ハンカチ……? もしかしたら、さっきの女の子の……?」
「かもな。名前、書いてある」
「うそ!? 見せて!」
 女が過敏に反応したのは、助けてもらっておきながらお礼を伝えていないことに気づいたからだ。
 無言でハンカチを差し出す弟からそれを受け取り、女は名前を読み上げた。
「佐鳥、空……」
「……警察の人に渡せば、本人と連絡が取れるんじゃないか?」
「ううん」
 しばらく考える素振りを見せてから、女は静かに首を横に振った。
「あの子、『個性』を使ってたかもしれないし、バレたら面倒なことになるでしょ」
「そんなのは本人の自己責任だろ」
「入試を受けてた子なら、それを理由に不合格にされるかもしれないじゃない」
 言って、女はそっとハンカチを鞄の中に仕舞い込んだ。
「名前は、内緒にしててね」
「……分かった」
 納得できなかったのか、弟はほんの少しだけ眉を潜めながらも渋々と頷いた。
 そんな弟に女は笑い返し、近づいてくる警察官に事情を説明するべく、彼らの方へと足を動かしたのだった。

 この時、彼女は気づかなかった。
 地面に倒れている犯人を弟がじっと見つめていたことを。
 その小さな口が、どこか懐かしむように再びその名を紡いだことも。


 *** *** ***


 事件現場から離れた数十メートル先。ビルの間の細い路地から、一人の男が姿を現す。
 眼鏡をかけたサラリーマン風の長身の男は、真っ直ぐに駅へと向かって歩いていた。
 そんな男に、事件の渦中にいた少女が無言のまま歩み寄っていく。
 眼鏡のブリッジを押さえ、男は鋭い眼差しのまま少女を横目で見下ろした。
「個性を使うなと言ったはずだ」
「相手には使っていません」
「そういう問題ではない。いつ、どこで、誰が見ているか分からないのだから目立つような真似をしないようにしろ、と言っている」
「すみません……でも、困っている人がそこにいたので、つい」
 淡々とした口調で無表情の少女がそう答えると、男は眉間に皺を寄せて無言になった。
「それに、『ヒーロー』というのは、考えるよりも先に体が勝手に動くものなんでしょう?」
「空」
 ちょうど赤信号で足を止めた男が、咎めるように少女の名を呼んだ。
 少女は隣に立つ男をチラリと見上げ、その表情を確認してから視線を前に向ける。
「……すみません」
「忘れるな。どんな境遇で育とうと、どれだけ自分の『個性』を使いこなそうと、お前は周りの子供達と同じ『資格』を持っていない未成年だ」
 それがこの国の『ルール』である──そう、男は叱責する。
 少女は素直に「はい」と頷いた。表情は相変わらずだが、下を向いた姿はどこか気落ちしたらしい。
 男は彼女の目を確認し、ようやくそこに反省の色が浮かんだと知ると、青色の信号に合わせて再び足を動かした。
「……『バブルガール』が待っている。早く帰るぞ」
 静かに告げた男の言葉に、少女はただ黙って頷いた。


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