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09

 そこは窓のない、箱のような檻だった。
 深い海の中にいるように暗く、雪の降る寒い冬のように冷たい場所。
 朝の陽射しも分からず、昼の喧騒も聞こえない。
 そんな闇に響いてくるのは、この部屋から連れ出された子どもの悲痛な叫び声だけだ。
 今も時折聞こえる大きな絶叫に、身を寄せ合っていた子ども達は肩を震わせて体を小さく丸めた。
「……なあ」
 ふと、掠れた声が真横から聞こえた。
 すすり泣く子ども達の声に耳を澄ましながらぼんやりと虚空を見つめていた佐鳥は、その声に反応して首を動かした。
「見せてくれよ……お前の個性」
 自分の隣で膝を抱えながら座っていた少年が、力なく微笑んでいた。
 痩せこけているせいか、その笑顔がとても痛々しく見えた。
「……どうして」
 今この状況で、そんなことをして、一体何の意味があるのか。
 不思議に思った佐鳥は抑揚のない声で尋ねた。
「最後に見ておきたいんだ。……きっともう、次は戻れないから」
 冷たい反応だったにも拘わらず、少年は笑みを崩さずに答えた。
 佐鳥は口を閉ざし、暗闇の中に薄らと浮かび上がる落ち窪んだ目をじっと見つめた。諦念を感じさせる少年の言葉を自分なりに噛み砕き、彼が言わんとしていることを理解して、しばらく思案する。
 そして彼女は数回の瞬きのあと、ゆっくりと瞳を閉じた。

 闇に溶けていた黒髪が、白銀へと変わる。
 長い前髪の間から二本の小さな角が生え、爪は獣のように伸びる。

 そして、二つの満月がゆらりと暗闇に煌めいた。

 変貌した佐鳥の容姿を見て、少年は嬉しそうに口元を綻ばせた。
「……何ができる?」
「……とりあえず、君が何をしたいのかはわかる」
 佐鳥の答えに噴き出した少年は、堪えきれなくなったようにそのまま笑い声を上げた──かと思えばふらりと立ち上がり、躊躇いもなく自分の手に噛みつく。
 ぶつりと音と共に破れた皮膚からボタボタと血が流れ落ち、やがてそれは地面に着く前に赤い刃の小刀へと姿を変えた。
 カラン、と小さな音が部屋に響き、子ども達が顔を上げる。
 戸惑いの眼差しを向ける彼らの視線を無視して、少年は手慣れた様子で腕に巻いていた包帯を手の噛み傷に巻き直すと、自らの血で作り上げた赤い小刀を拾い上げ、やんわりと微笑みながら振り返る。


「じゃあ、一緒にやろうぜ。今から俺達が『ヒーロー』になるんだ」
 痩せ細った手が佐鳥に差し伸べられ、砂嵐のようなノイズと共に世界が暗転した。


 スー、と音を立てて吸い込んだ空気を吐き出すと、ゴポリと音がした。
 浮かび上がった水泡が横顔を撫でる感覚に、ようやく自分が目覚めたのだと自覚する。
「素晴らしい……なんという美しいバケモノだ!」
 暗く冷たい水槽の中に響いたその歓喜の声は狂っていた。
 煩わしいと思いながら目を開けば、自分の呼吸に合わせて装置から漏れ出る水泡の向こう側に白衣を身に纏った男の姿があった。
 男はこちらを見つめながら笑っていた。楽しそうに、嬉しそうに、それでいて異形のモノと出会ったような畏怖さえ感じさせる恍惚とした表情で、男は笑っていた。
「思わぬ掘り出し物だ……! まさか『無個性』のゴミの中にこんなにも相性の良い『個性』が紛れ込んでいたなんて!」
 ごみ。その言葉を聞いた途端、僅かに佐鳥の表情が歪んだ。
 自分がどうしてこんな目に遭っているのか、しっかりと記憶に残っている。
 彼がその『ごみ』と呼んだ者達をどう扱っているのかも、彼の背後にある水槽の中身が全てを物語っている。
 だから、なおさら自分を見つめるその愉悦を浮かべた顔が不愉快だった。
 眼鏡のレンズ越しに見える爛々と輝く、狂気に満ちた瞳。
 自分こそが正しいと信じて疑わない、研究者の目。
 悪と分かっていながら、その手を血で赤く染める犯罪者。

 ──敵(ヴィラン)。
 佐鳥を、子ども達をここに閉じ込める、絶対的な悪。
 この世に生み出してはいけない『バケモノ』を完成させた、排除すべき存在。

「間違いない! 僕の可愛い『ドール』……君は僕の……いや、人類の最高傑作だ! 君を産み落としたご両親に感謝するよ! おかげで最高の『殺戮兵器』が誕生した!!」

 ──殺戮兵器。
 ──そうか、それが『私』なんだ。
 ──言われるがままに人を欺き、殺すことしかできない。

 ──でも。

 黒の目が閉ざされ、金色の目が開いた。

 薄暗い水槽の中で煌めき輝く梔子色の瞳が、周囲へと向けられる。
 いくつも並んだ水槽の中には、あの部屋にいた子ども達の姿があった。
 だが、自分と同じように閉じ込められている彼らは、もうすでに人としての原型を留めていない。
 腕のない子。
 足のない子。
 顔の半分を失った子。
 首だけの子。
 見るに耐えない光景が広がっており、自然と涙が溢れた。

「……空」

 その中に一人、意識のある子どもがいた。
 自分の向かい側にある水槽。
 そこにいたのは、あの部屋で佐鳥に手を差し伸べた少年だった。
 両腕と両足を失った状態で命を繋ぎ止められている彼は、虚ろな瞳をこちらに向けたまま唇を動かす。
 痛い。苦しい。救けて。
 そう心の中で叫びながら、その少年はただ一言、自分達を救う唯一の術を口にしたのだ。

「殺してくれ、僕のヒーロー」

 言い表すことのできない悲しみから涙が溢れ、こぽりと口元から零れた空気が水泡となって昇っていく。
 透明の硝子にはヒビが入り、爆発音と共に世界がまた暗転する。



「大丈夫。それは君を守るための『まじない』だ」



 見知らぬ声に導かれるように、黒曜の目が開いた。
 真っ白な天井と、細長い蛍光灯が視界に入る。続けて嗅ぎ慣れた消毒液の臭いが鼻腔を擽り、柔らかな枕の感触と体を包み込む布団の温もりを感じた。
 ──病院だ。
 敵との交戦中に意識を失い、そのまま搬送されたのだとすぐに理解した。
 どれぐらい眠っていたのだろうか。横たわったまま首を動かしてみると、たくさんの果物が乗った籠が目に入る。
 どうやら『家族』が見舞いにきてくれたらしい。籠の傍には丁寧な字で書かれた「起きたら連絡するように」というメッセージが添えられていた。
 備えつけられたデジタル時計で、日付と時刻を確認する。
 ──金曜日。時刻は朝の八時を過ぎている。
 むくりと体を起こす。
 左腕が痛んで動かしにくいが、問題ない。
 ベッドからするりと抜け出してみる。
 眠り過ぎたせいで思考がぼんやりしているが、これも問題ない。
 おぼつかない足取りでロッカーの中を開き、中を確認する。
 学校に置きっ放しにしていたはずの鞄と制服がそこに入っていた。
 わざわざ学校に置いてあった物を誰かがここまで持ってきてくれたらしい。
「……」
 迷ったが、躊躇いを捨ててそれを手に取った。
 もたつきながらスカートを履き、シャツに腕を通す。ネクタイは面倒なので無造作に羽織ったブレザーのポケットに突っ込んだ。手がこんな状態では髪は結べないので下ろしたままだ。
 それでもなんとか身支度を整え、ベッドの上に置いたスマホに手を伸ばす。手慣れた手つきで画面に指を這わせたあと、メッセージを送信した佐鳥は次にテーブルの上に書き置きを残した。
 そして、鞄を手に持って病室の窓枠に足をかける。
「失礼します。佐鳥さん、起きてますか? 朝ご飯は──……えっ!? 何してるんですか!?」
 タイミング悪く病室に入ってきた看護師の驚く声がした。
 佐鳥は窓枠に乗ったまま肩越しに背後を振り返り、平然と答えた。
「すみません。今から学校に行ってきます」
「いや学校って、まだ先生の許可が……! っていうか、ここ四階!! 落ちたら死にますから!!」
「大丈夫です、お構いなく」
「いやいや構う! 普通に構うから!! 全然大丈夫じゃな──……ああ〜〜っ!?」
 佐鳥の『個性』を知らない者からすれば、彼女の行動は今すぐ飛び降り自殺を図っているようにしか見えない。
 しかし、今の佐鳥にはそんなことを考えている余裕はなかった。
 必死に引き留めようとする看護師から顔を背け、佐鳥は躊躇うことなく窓の外へと跳躍する。
 その時、病室の窓から看護師の悲鳴が響いたのは、聞こえなかったことにした。


 *** *** ***


 臨時休校が明けた翌朝。
 HRが始まる前ということもあって、A組の生徒達は自分の席に着席していた。その中には残念ながら佐鳥の姿はなく、彼女の席を振り返っていた上鳴がぽつりと呟いた。
「佐鳥、やっぱ今日は来てないんだな……」
「仕方ないよ、あの状態じゃ……骨折だけじゃなくて、副作用のせいでしばらく目を覚まさないかもって言われてたし」
「めちゃめちゃ強ぇー個性だけど、反動がヤバすぎんだよな……爆豪や轟はそんなことねーのにな」
「だよな……みんなのとこに戻った時なんて顔色ちょーやばかったし、流石にあのまま死んじまうんじゃねーかってマジビビった」
 続けて芦戸と切島が会話に混ざり、彼らの話に耳を傾けていた蛙吹は顎に指を添えながら静かに視線を下げた。
「それだけ扱いづらい力だから、空ちゃんも自分の個性については話そうとしなかったのかしら……」
「んー……かもね。佐鳥ってあーみえて意外と付き合いやすいけど、かなり周りのこと気にしてるっぽいし……実は自分の個性にトラウマとかあるのかも」
「そうかぁ? 俺はどっちかっつーといつもマイペースな感じに見えるけど?」
「アホの上鳴にはそー見えるだけでしょ」
「おい耳郎、聞こえてんぞ!」
 反対側の席から飛んできた辛辣な言葉にすかさず上鳴が振り向いて威嚇した。しかし、耳郎は自身の耳から垂れ下がっているイヤホンジャックを弄りながらどこ吹く風で明後日の方を向いており、知らんぷりである。
 するとそこで教室の扉が開き、飯田が姿を現した。
「みんな──っ! 朝のHRが始まる、席につけ──!!」
「ついてるよ」
「ついてねーのお前だけだ」
 ツカツカと教室に入ってくるなり教卓の前で声を張り上げた委員長に、切島と瀬呂範太が冷静に言葉を返した。
 手本であらなければならない自分が最後に取り残されていることに気づき、飯田は悔しさを噛みしめながら着席する。
 そんな飯田の後ろに座っている麗日が「どんまい」と慰めるべく声をかけていると、続けてまた誰かが教室の扉を開いた。
 そこから現れたのは顔が見えなくなるまで全身に包帯を巻いた男──A組の担任である相澤だった。

「おはよう」

「「「相澤先生復帰早ぇええ!!」」」

 両腕粉砕骨折と顔面骨折。加えて眼窩低骨まで粉々になるという大怪我を負ったにも関わらず、よろけながらも休むことなく担任として教壇に立つ相澤のプロ意識に、全員が目を剥いて驚愕の声を上げた。
「先生! 無事だったのですね!!」
「無事言うんかなぁ、アレ……」
「俺の安否はどうでもいい。何より、まだ戦いは終わってねぇ」
 飯田と麗日の心配を余所に、相澤が話を切り出した。
 その不穏な言葉に、爆豪が真っ先に反応する。
「戦い……?」
「まさか、また敵が──!?」
 峰田が青褪めながら頭を抱えた。
 敵という言葉にクラス全体に緊張が走る。
 しかし、相澤の口から飛び出したのは、これから数週間後に控えているビッグイベントのことだった。

「雄英体育祭が迫ってる!」

「「「クソ学校っぽいの来たあああ!!」」」

 様々な意味で再び衝撃が走り、生徒達は声を上げた。
 そして同時に、学校側の判断に一抹の不安を覚える。
「待って待って! 敵に襲撃されたばっかなのに大丈夫なんですか!?」
「逆に開催することで雄英の危機管理体制が盤石だと示す……って考えらしい。警備は例年の五倍にするそうだ。何より……雄英の体育祭は『最大のチャンス』。敵ごときで中止していい催しじゃねぇ」
「いや、そこは中止しよう?」
 冷静な耳郎の質問に答えた相澤に、その返答を黙って聞いていた峰田が青褪めたまま本音をぽつりと零した。
 峰田の前に座っていた緑谷があり得ないと言わんばかりの表情で振り返る。
「峰田君……雄英体育祭見たことないの!?」
「あるに決まってんだろ! そうじゃなくてよー……」
「ウチの体育祭は日本のビッグイベントの一つ! かつてはオリンピックがスポーツの祭典と呼ばれ全国が熱狂した。今は知っての通り規模も人口も縮小し形骸化した……そして日本において今、『かつてのオリンピック』に代わるのが『雄英体育祭』だ!!」
「当然、全国のトップヒーローも観ますのよ。スカウト目的でね!」
「知ってるってば……」
 自分が言いたいのはそういうことじゃない。そう言いたげに峰田はもごもごと口を動かした。
 そんな彼を横目に、上鳴が少し期待に胸を躍らせながら口を開く。
「資格習得後はプロ事務所にサイドキック入りが定石だもんな」
「そっから独立しそびれて万年サイドキックってのも多いんだよね。……上鳴、あんたそーなりそう。アホだし」
 またしても容赦のない耳郎の言葉に、「くっ」と上鳴が言葉を呑み込んで悔しそうに奥歯を噛む。残念なことに、耳郎の言う未来は自分でも否定できないらしい。
「当然、名のあるヒーロー事務所に入った方が経験値も話題性も高くなる」
 相澤の言葉に、生徒達がまた口を閉ざして耳を傾ける。
「時間は有限。プロに見込まれれば、その場で将来が拓けるわけだ」
 年に一回、高校にいる間の計三回だけのチャンス。
 ヒーローを志すなら絶対に外せないイベントである。
 その貴重な一回目のチャンスを逃さないよう、各々が静かに意気込んだ。
 ──と、その時だ。
 再び誰かが教室の扉を開き、全員の視線がそちらに向いた。

「すみません、遅刻しました」

「「「今度は佐鳥来たぁぁあああ!?」」」

 やって来たのは佐鳥だった。
 相澤ほど大袈裟ではないが、彼と同じく頭と左腕に包帯を巻いた状態で姿を現した彼女に教室にいた全員がぎょっとした。
 当然、教室に入るなり大声が飛んできた佐鳥もびっくりである。無表情のまま体を震わせていた。
「おまっ……入院してたんじゃなかったのか!?」
「怪我は? 動いて大丈夫なの?」
 比較的扉に近い位置にいる切島と芦戸が真っ先に尋ねると、佐鳥は自分の腕を見下ろしながら「問題ありません」と答えた。
「運よく先ほど目が覚めたので……流石に一週間足らずで休むと勉強に支障が出るかと思い、急いで来ました」
「急いで来ました、じゃねぇだろ。佐鳥……お前、それちゃんとドクターの了解は得たんだろうな?」
 嫌な予感がして唸るような声で確認した相澤に、佐鳥は素早く視線を逸らした。
「大丈夫です。書き置きを残して、ちゃんと家族に連絡もしました」
「全然大丈夫じゃねぇよ、大問題だ。あとで職員室に来い」
 案の定である。馬鹿正直に答える彼女に、相澤はすぐさま厳しい声で言葉を返した。
 佐鳥はあからさまに「え」と驚きの声を漏らしているが、教室にいた全員が「当たり前だ」と心の中でツッコミを入れた。むしろ病院から脱走して怒られない方が問題である。どうしてそんな無茶苦茶なことをして怒られないと考えられるのか、誰もが不思議に思った。
 そんなクラスメイト達の心の声は余所に、佐鳥はぱちぱちと瞬きを繰り返したあと、再び視線を下げてから渋々と頷いた。
「……了解しました」
「なんて分かりやすい……」
「まあ、来ちゃったもんはしょーがないよね」
 呆れる瀬呂に対し、芦戸はけらけらと明るく笑い飛ばした。
「佐鳥ってさ……大人しい見た目に反してなんか、アレだよな……」
「ああ……っつーか、あの状態で学校来るとかホント根性あるぜ……」
 感心するところではないが、切島の言葉にも同意できる。上鳴と、その周りにいた何人かが深く頷いた。
 きっと病院では今頃大騒ぎになっていることだろう。話を聞いて彼女の家族もびっくりして腰を抜かしているかもしれない。
 しかし、それでも痛々しい姿で佐鳥がそこに立っている事実に安心したのも事実だ。
 自分の席へと向かう彼女にほっとした表情を浮かべる生徒達を前に、相澤もまた小さなその背を見て人知れず息を吐き出すのだった。


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