ヒーローにすくわれた少女

 父と、義理の母が死んだ。真夜中の心中だった。
 理由は分からない。何か事件に巻き込まれたのか、それとも自ら犯罪に手を染めてしまったのか。あとで警察から聞いた話では、彼らの遺体からは麻薬の成分が検出されていたそうだ。麻薬取締官という男達も事情聴取にやってきたが、何一つ自分が説明できることはなかった。
 粛々と執り行われた葬儀場で、イノリは呆然と中央に設置された二つの棺桶を見つめていた。あの中に、それぞれ二人の遺体が入っている。あまりに惨い状態になってしまったので蓋を開けることはできないが、イノリが見つけた時と同じ、彼らは穏やかな顔で眠っているのだろう。
 何故死んでしまったのか、何故麻薬に手を出したのか、誰にも説明しないまま、彼らは先に逝ったのだ。
 ──残された自分は、どうすればいいのだろう。
「ねえ、これからどうするのよ、あの子達……」
 ふと声が聞こえ、イノリは息を呑んだ。
「どうするも何も、俺達が引き取るのは無理だろ。うちにも子供がいるんだし、あんな小さい子の面倒なんて無理だよ……」
「まあ! そんなの、あんたの所だけじゃないでしょ? うちだって上の子が今年受験を控えているのよ!」
「大体、下の子だけならまだしも上の方は──」
「しっ! お止めなさいな、こんな所で……誰かに聞かれたらどうするの、みっともない」
 そんな大人達の囁く不安と焦りの声を聞きながら、イノリは自分の腕に抱えた小さな子供を見下ろした。自分よりも一回りも歳の離れた、小さくてか弱い弟だ。歩けるようになって間もなく、言葉もまだたどたどしい。そんな小さな体の弟は自分に体を預けてぐっすりと眠っており、まだ目を覚ます様子がない。
「でもお義母さんだって、いくらお金が入ってくると言ってもあの子だけは引き取りたくないでしょう?」
 ちらちらと自分に向けられる視線に、憐みの色は少しも見えない。怪訝な顔をした大人達は誰もがイノリの存在が邪魔だと目で訴えていた。
 ──この子だけでも、助けてもらおうか。
 自分が彼らに歓迎されていないことなんて、最初から分かりきっていたことだ。イノリも彼らに期待なんてしていなかったし、手を差し伸べられても素直に助力を乞うつもりは毛頭なかった。
 しかし、だからと言って未成年のイノリが小さな赤子同然の子供を抱えて生きていけるわけがない。
 なら、弟にとって一番最適となる選択は何か。それは考えるまでもないことだ。
 ──けれど。
「なら、お金だけもらってあの子はどこかの施設に入れてしまえばいいじゃない」
 他人を見下し、嘲笑う。そんな声を聞いて、少女は弟を抱く腕にほんの少しだけ力を込めた。
 本当は嫌だ。あんな言葉を並べる大人達が、この小さな子を守る保証なんてどこにもない。もしかしたら、自分が手放すことで命の危険に晒されてしまうかもしれない。
 イノリには、安心して幼い子供を預けられるような人間がこの中にいるとは到底思えなかった。
(……誰でもいい)
 助けて欲しい。そう願っても誰も自分達を救ってはくれないと理解しているイノリは、静かに唇を噛みしめて俯いた。
 その時、ふと彼女は視界の端に喪服スーツの裾を捉えた。真っ白な靴下を履いた足が静かに自分達の方へ歩み寄って来るのが分かり、イノリはゆっくりと顔を上げて相手の顔を見た。
 自分の傍に立ったのは、切れ長の瞳に物憂げな色を浮かべた青年だ。その背後には、顔に傷のある金髪の大柄な男が控えている。どちらも女受けの良さそうな顔立ちではあるが、どこか軽々しく話しかけてはいけないような王者の風格を醸し出していた。
 少女は思わず口を噤んだ。
(……誰……?)
 記憶を辿っても、彼らに見覚えはない。両親の知り合いにこんな若い青年はいなかったはずだ。ならば、彼らは誰かの付き添いでやって来たのだろうか。
 困惑し、口を噤むイノリに、青年が静かに微笑みながら手を差し伸べた。
 え、とイノリは青年の顔と手を交互に見つめた。この手が何を意味するのか、理解できなかった。
 そして、青年は穏やかな口調で言った。
「……私のところへ来ないか?」
 それは待ち望んでいた救いの言葉だった。イノリは目を見開き、青年を凝視する。
 彼は本気だ。明らかに堅気とは言い難い雰囲気の二人だけれど、彼女は直感していた。
 ──自分達の未来を切り開くのは、この青年なのだと。


 九条家当主──九条壮馬。それがイノリと弟を助けた男の名前だった。
 九条は父よりも聡明で、厳格な男だ。イノリに救いの手を差し伸べこそしたが、彼は決して女子供である彼女に甘えを許さなかった。
「自分が選んだ道に弟を巻き込んだ。それは分かるか」
 九条の言葉を、イノリは痛いほど理解していた。
 あの時、他の誰でもなく九条の手を掴むと決めたのはイノリ本人だ。親族のもとに弟を置いて行くこともできたのに、自分は最初からその選択肢すら捨てていた。
 ならば、自分は責任を取らなくてはならない。親の代わりに、彼らが担うべき責務を果たさなくてはならない。そこに、自分達と関係のない九条家の人達を巻き込んではいけない。
 九条の言うことは最もである、とイノリは思った。
「だが、君に手を差し伸べたのは私だ。だから私からも一つ、提案がある。この条件を満たすことができたら、私は君達姉弟を全面的にサポートしよう」
 そう言って九条が提示した条件は『イノリが大学へ進学すること』だった。そして、それまでの間は自分が弟の世話をすることも条件に加えられた。
 イノリはその条件を二つ返事で了承した。そして数日の間にこの二年間通っていた学校を辞めて、彼女は新たに通信制の高校へ編入した。
 それからのイノリは、毎日奮闘する日々を送っていた。勉強ではなく、弟の世話に対してだ。
 弟は言葉を話せるといっても、全てを理解できるわけではない。とはいえ自分で考えて動き回ることもできるので、こっちの都合なんてお構いなしに好き放題にする。そんな自由奔放な子供の相手は勉強よりも骨が折れるわけで、義理の母がたまに癇癪を起こして弟に怒鳴っていた理由が今なら分かるとイノリは一人ごちた。
 加えて、自分達が居候の身であるという自覚から、イノリは率先して九条家の使用人である宮瀬の手伝いをしていた(これには九条も「そこまでしろとは言ってないぞ」と呆れていた)。
 そんな忙しい毎日に疲れを感じない日があるはずもない。──が、イノリは辛抱強く耐えた。
 たった一年。されど一年だ。短いようで長い期間、彼女は懸命に育児と家事の合間を縫って勉強に勤しみ、その結果、九条が提示した『大学への進学』という条件をクリアすることができた。
 これには九条家の男達だけでなく、イノリ自身も驚く結果だった。
「すげーじゃん、イノリ! 流石、九条さんが見込んだだけのことはある!」
 自分よりもはしゃぐ桐嶋に些か乱暴に頭を撫で回されながら、彼女はしばらく信じられない様子で合格通知を見つめて呆けていた。あまりに動かないので弟にツンツンと頬を突かれたぐらいだ。
「信じられない……」
「何言ってんの。イノリさん、毎日人一倍夜遅くまで頑張ってたんだし、合格できて当たり前でしょ」
 驚きで固まっている彼女に呆れながら、けれどおかしそうに笑って言ったのは山崎カナメだ。イノリ達と同時期に九条家を出入りするようになった彼もまた彼女のこの一年間を知る一人で、「合格オメデト」と素っ気ない祝いの言葉を述べた。
「今夜はご馳走ですね」
「やった! 肉だ!」
「にくーっ!」
 宮瀬の言葉に喜びの声を上げる桐嶋と、その真似をする弟の声を聞きながら、イノリはずっと黙ったままでいる九条の顔を見た。
 九条はいつかの時と同じく、静かに微笑んでいた。彼はこの一年間、イノリの頑張りに対して何も言わなかったが、その瞳に僅かな慈愛の色が浮かんでいるのが分かって、思わずイノリは涙ぐんでしまう。
 涙を見せまいと俯くイノリに九条はゆっくりと歩み寄ると、ぽんっと彼女の頭に手を置いた。
「よく頑張ったな」
 その言葉に彼女の涙腺が崩壊したのは、言わずもがなである。

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