One sceneShort story made with Word Palette

 あ、と声を上げようとした時には、すでに遅かった。
 どんっと誰かに肘をぶつけたことに気づいた山姥切国広は、手元に集中していた本から顔を上げ、ぶつかった人物へと視線を向けた。
 そこに立っていたのは自分と同じ年頃の女だった。今流行りのモガスタイルではなく、それなりに見栄えの良い上品な着物を身に纏う彼女は大きな瞳で国広の顔を見上げ、申し訳なさそうに睫毛を伏せた。
「すみません、余所見をしていたもので……」
「いや、今のはこちらが悪い。失礼した」
 言って、国広は目深に被っていた帽子を脱ぎ、頭を下げる。その時、彼はふと彼女の手の中にある一枚の紙に目を向けた。皺が出来ているところから察するに、彼女は随分と長い間その紙を握りしめていたのだろう。よく見れば、大きな鞄も持っていた。
 ──移住。
 その言葉が脳裏を過り、国広は一人納得した。
 江戸の倒幕から半世紀ほど経った今の日本ではたくさんの異国の文化が入り交じり、様々な分野において大きな発展を遂げている。
 その中で最も目立つのは女性の社会進出だ。
 少し前までは男が外で働き、女は家を守るのが当たり前だった。しかし、今は発展途上真っ只中でありながら不況な時世であることも一因して、その考えはもう古いと声を上げる者達が増えている。これにより、女が出稼ぎに行くことは決して珍しい光景ではなくなっていた。
 さらに都市部では働き口も多くあると考えられており、地方からの移住者も年々増加傾向にある。
 彼女もおそらくその一人なのだろう。目に見えて不安そうな面持ちではあるが、その瞳の奥に見慣れぬ都会への期待と憧れが潜んでいるように感じられた。
「……どこかへ向かうところか? それとも、ここで誰かと待ち合わせでもしてるのか?」
「え……?」
「ずっとその紙を握っていたようだからな。ぶつかった詫びだ、道案内させてくれ」
 懐の中に本を仕舞い、帽子を被り直した国広がそう言って手を差し伸べると、女は慌てた様子でぶんぶんと首を横に振った。
「い、いえ、そんな……! どうか、お気になさらないでくださいな。急ぎの用ではありませんので……」
「そうは言うが、手持ちの荷物から見てこちらに越して来たばかりだろう。道が分からないんじゃないのか?」
 本当に大丈夫なのか、と国広が首を傾げると、女はひどく困惑した様子で、けれど助けを求めるような目を向けてきた。
 一度は遠慮を見せたものの、国広が予想した通り彼女は困っていたようだ。自分を見つめる瞳は、見知らぬ男であるにも関わらずその善意に期待を抱き、今にも縋りたいと言わんばかりの眼差しだった。
 それにほんの少し脈拍が上がって心がきしむような感覚を味わったが、国広はすぐに頭の隅へと追いやった。
「……実は、その……父と待ち合わせをしているのですが、場所が分からず……」
 ここです、と差し出されたその紙に書かれた待ち合わせ場所を見て、国広はああ、とすぐに思い当たった。それは都内でも有名なカフェーの名前で、今から自分が向かおうとしていた図書館の近くだった。
「俺が向かう所と同じ方向じゃないか。なら問題ないな。あんたさえ良ければ一緒に行こう」
「本当ですか ありがとうございます! えっと……ああ、すみません。あなたのお名前は……?」
「山姥切国広だ」
「やまんば……え?」
 女は目を丸くして国広の顔を凝視した。
 その反応はすでに見慣れたもので、国広は自嘲気味に薄く笑ってみせる。
「なんだその目は。あんたも俺のナリが気になると? 言っておくが、これでも俺は生まれも育ちも日本だぞ」
 意地の悪い言い方だったが、別に気分を害した訳ではない。むしろ、女の反応は国広にとっては『いつものこと』で、全く気にも留めていなかった。
 しかし、彼の胸の内など知る由もない彼女は、ただただ申し訳なさそうに俯いて謝罪した。
「す、すみません……気になると言うより、綺麗なので見惚れてしまったと言いますか……」
 ──この女、堂々と恥ずかしげもなく……。
 包み隠すことのない素直な感想に思わず自分の顔が赤らむのを感じ、顔を背けた国広は小さな声で反論した。
「……綺麗とか、言うな」

袖振り合うも多生の縁




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