カフェ&ベーカリー『檸檬』には、イケメンの常連客がいるG


 デートであるかどうかはさておき、こんなイケメンと手を繋いでいたら後ろから刺されるんじゃないだろうか。
 そんな不安を抱いてはいたけれど、いつまでも起こるかどうか分からないことを気にしていても仕方ない。それに、これだけ薄暗い空間なら他人の顔なんていちいち見ていないだろう。
 そう考えて繋がれた手から意識を手放した自分の順応力は思っていたよりも高かったようで、私は目の前に広がる水槽を穏やかな気持ちで眺めていた。
 ふよふよ。ぷかぷか。水の中を漂う魚やクラゲを順番に見て回りながら、ふと視界に入った水槽に近づく。
 イソギンチャクに埋もれるようにして魚が隠れているのを見つけた。もぞもぞと動いたと思えば大人しくそこに収まってしまったそれに、私はふと呟いた。
「フィッシュサンド……」
 頭上で「ふはっ」と噴き出す声が聞こえた。
 しまった、と隣を確認した時にはすでに遅く、安室さんは私でも水槽でもなく、口を押さえたままあさっての方向を向いて肩を震わせていた。
 ──もう無理だ、弁明できそうにない。
 確実に笑いのツボに入ってしまったのであろう彼に、私は恥ずかしさから現実逃避したい気分だった。もうこうなったら自棄だ。どうとでも思ってくれればいい。
「どうぞ、笑いたければ笑ってください。どうせ情緒の欠片も持ってない食い意地の張った女ですよ」
「そ、そこまで思っていません……」
「笑いながら言われても信用ないです」
「笑いたければ笑っていいと言ったじゃないですか」
「ってことは、やっぱり笑っていたんですね」
 ぶすりと膨れっ面で水槽に視線を戻す。水槽の中にいた魚がまたもぞもぞと動いて泳ぎ出した。
 悠々と水の中を泳いでいる姿が憎たらしい。君のせいで私は笑われてしまったんだぞ。
 隣で未だに安室さんがクツクツと喉を鳴らすのを聞きながら、私は心の中で目の前の水槽にいる魚に八つ当たりの言葉を吐いて無言で次の水槽へと足を動かす。
「まさかイソギンチャクと魚を見てフィッシュサンドを連想するなんて思いませんでした」
「昔からおかしな発想すると家族によく言われます」
「おかしいとは思いませんが、ユニークだとは思いますね」
「人はそれを『おかしい』と言うんですよ」
「でも、僕は好きですよ。名前さんのそういうところ」
 だから! この人は! 全く! もうっ!
 そうやって煽てればいつでも私の機嫌が直ると思ったら大間違いだ。そう言い返してやろうと息を吸いこんだ。
 しかし、見上げた視界の先にあったのは生き生きと輝いた表情で会話を続ける彼の横顔で、その表情を見たら文句を言いたい気分も削がれてしまった。
(これだからイケメンは〜っ!)
 ずるい。顔で得するのは本当にずるい。こんな軽口のかけ合いでさえ楽しまれてしまったら怒るに怒れない。
 それ以上に、そんな彼に絆されている自分に気づいて私が私に呆れてしまった。
「前から思っていたんですけど……安室さん、物好きって言われませんか?」
「さぁ? どうでしょう?」
 本当に記憶にないのか知らないが、すっとぼけて答えた安室さん。
 私は軽く息を吐いて肩を竦める。気を取り直して「あっちに行きましょう」と手を引っ張って促すと、彼は大人しく私に手を引かれるまま歩いてくれた。
 そのあとも水槽の中をのんびりと見て回りながら歩いていると、おもむろに安室さんが口を開いた。
「そういえば、名前さんはいつからパン作りをしているんですか?」
「一人で作り始めたのは小学五年生の頃からだったらしいですよ」
「らしい……?」
 他人事のように話した私に、安室さんは首を傾げる。
 やっぱりそんな反応するよね、と私はチラリと彼を見上げて、すいすいと水中を駆け巡る魚を見つめながら笑みを浮かべる。ガラスに映った自分の顔は、苦笑いしていた。
「実はその頃に事故に遭って……そのショックで小学生だった頃の記憶が曖昧なんです。当時仲良くしていた友達のこともほとんど覚えてなくて」
「そう、だったんですか……」
「あっ、でも! ふとした時に記憶が戻ったりするんですよ。ついこの間も、初めてパンを作った時のことをちょっとだけ思い出したんです。作った時の記憶だけですけど……」
 どう受け答えすれば良いのか分からなかったのだろう。安室さんはしばらく押し黙り、水槽の中を眺めながら言葉を探しているようだった。
「あの、あまり気にしないでくださいね……? 子供の頃の記憶なんて、大したことじゃないと思いますし」
 私としては特に何も問題なく日常を過ごせているので構わないのだけれど、優しい彼のことだから気を遣ってくれているのかもしれない。
「……名前さんは、今でも失った記憶が気になるんですか?」
「え? うーん……そりゃあ、気になりますけど……怖い思いをして忘れてしまったのならそれでいいと思いますし、大事なことを忘れてしまっているのなら思い出したいです」
「思い出した時に、自分が悲しい思いをするとしても?」
 ふとトーンが低くなった声音に、私は目を丸くして安室さんを見上げた。
 真っ直ぐに私を見下ろす無感情の彼の目は、さっきまでの優しさは全く感じられなくて少し怖い雰囲気がある。でも、どこか寂しげな眼差しだとも感じた。
 急にどうしたんだろう。不思議に思ったけれど、私はとりあえず頷いて答えた。
「ええ……だって、私が悲しむだけでなくて、私に忘れられた誰かが悲しんでいたかもしれないじゃないですか」
 そう答えた時、安室さんはハッとしたように目を丸くして目を見開いていた。
 そして、静かに目を伏せる。
「あなたは……本当に……」
 この時、彼が何を言いたかったのかは分からない。
 じっくりと悩んで自分の中で何か答えを探している素振りを見せた安室さんは、やがて気を取り直したように再び目を開き、いつものように優しく微笑んでいた。
「前から思っていたんですけど、名前さんはお人好しにもほどがありますね」
「やだなぁ、安室さんほどじゃないですよ」
 どこか眩しい物を見るように細くなった青の瞳を見つめ返し、私も茶化すように言葉を返しながら微笑み返した。


「イルカショー、すごかったですね! 今まで見たどのショーよりも迫力が違いました!」
 水中を素早く動き、高くジャンプするイルカを思い出して私がそう言えば、安室さんもニコニコと笑いながら「そうですね」と相槌を打った。
「名前さん、ずっと目がキラキラしてましたね」
「だってイルカ、可愛いじゃないですか!」
 力強く可愛さを訴えると、安室さんは物言いたげに一度口を噤んでから視線を横へ動かした。
「名前さんが楽しそうで何よりです」
「……安室さんは何か言いたげとお見受けします」
「いえいえ、そんな。イルカを見ている名前さんのほうが可愛かったなあ、なんて恥ずかしくて言えません」
「大丈夫です、はっきり言ってます。少しは耐性がついてきましたけど、いきなりしれっと爆弾投下しないでください」
 今日の安室さんの言葉は、普段の安室さんの何十倍も威力があるのだ。多少は慣れてきたものの、やはり格好いい人から『可愛い』と言われてドキドキする気持ちは抑えられない。
 顔に熱を感じながら安室さんを睨みつけてみるが、さっからずっと微笑んでいる彼に反省している様子は全く見られなかった。
「……?」
 その時、ふと安室さんが足を止めて背後を振り返った。
「どうかしたんですか?」
「……いえ。僕の知り合いがいたのかと思ったんですが、気のせいでした」
 行きましょう、と言って私の手を引いて歩き出した彼に、私は首を傾げる。
「……本当に、気のせいだったんですか?」
「おや。嘘に聞こえましたか?」
「ん〜……なんとなく」
「へえ。名前さんは僕のことをよく見てくれているようだ。なんだか照れますね」
「今のそれも嘘っぽいって思います」
「名前さん、だんだん僕の扱いが梓さんに似てきましたね……」
「梓ちゃんからも注意されてますから。『安室さん、女性に思わせぶりなことばかり言うから気をつけて』って」
「こんなこと、名前さん以外に言ったりしませんよ」
「え〜? 本当かなぁ?」
「本当です。僕、嘘は嫌いなので」
 わざとらしく疑わしいと言わんばかりに安室さんの顔を覗きこむ。すると、安室さんもきりっと真面目な顔をして私に顔を近づけてきた。
 それに少し驚きはしたけれど、ちょっとムキになる安室さんが可愛くてつい笑ってしまった。そんな私につられて彼も頬を緩めて笑っていた。
「……っと、すみません。ちょっと電話が」
「あ、どうぞ。私、あっちのお土産コーナーを見て来ますので」
 近くのお土産屋さんを指し示せば、安室さんはコクンと大きく頷いてくれた。
 棚に並んだキーホルダーやぬいぐるみを見ながらこっそりと安室さんの方へ目を向ける。彼は私から背を向けて電話に出ていた。
(……忙しそう)
 探偵という職業がどういうものなのかほとんど想像でしか分からないけれど、あの様子だといつでも依頼人や毛利探偵と連絡が取れるようにしなくちゃいけないのだろう。気が休まらない日が多いのでは、と心配になる。
(今日も、本当はおばあちゃんに頼まれたんだろうな……)
 祖母のことだ。大方、最近元気がないまま働き詰めだった私を心配してくれていたのだろう。家にも引きこもりがちだったし、なおさら気がかりだったのかもしれない。
 お礼に何かお土産でも買って帰ろう。そう思って私がまた棚に目を向けた時だった。
「嘘つき」
 背後から聞こえた声に、ひんやりとする。誰だか分からないけれど、その言葉は明らかに自分に向けられた声だった。
 振り返るとそこには女子高生ぐらいの女の子が立っていて、目に涙を浮かべながら私を睨みつけていた。
「あ……」
 この子、店で私に話しかけてきた子だ。衝撃的だったのでよく覚えている。
 あの時と同じく綺麗にお団子にまとめて、女の子らしくフリルの服を着た彼女は若さ故かもしれないがとても可愛らしい。
 ──泣いていなければ、だけれど。
「え、と……?」
「恋人なんていないって……好きな人なんていないって言ったじゃない……! 嘘つき! 最低!!」
「え、えっと、ちょっと待って……何か勘違いされていると思うんですけど……」
 いきなり罵声を浴びせられている私に奇異の目が向けられる。なんだなんだ、と面白がっている野次馬達の中にはきっと驚いた顔をしている彼もいることだろう。
 怖くてそちらには振り向けないけれど、とりあえず彼女を落ち着かせないと。そう思って誤解を解こうと口を開いたのだが、言葉のチョイスを間違えたらしい。
 涙が浮かぶ目に角を立てながら、彼女は声を荒げた。
「何が間違いなの!? お兄ちゃんをフッて、自分はあの男と仲良くデートしていたくせにっ……!! こんなことなら、もっとあの手紙でアンタを追いつめてやればよかった!!」
「お、お兄ちゃん? ……え、まさか」
 私は首を捻る。最近の出来事で『フッた』と言われたら思いつくのは一人しかいないわけで、私は目を丸くして彼女を見た。
 猫のようなアーモンド型の大きな瞳はどこからどう見てもあの常連客の彼とは似ても似つかない。けれど、彼女の言葉から察するに、思い当たる人物はその人しかいなかった。
 そして、『あの手紙』というワード。それが何を意味しているのか理解できて、私はどこからともなくあの常連客の男性がこちらに駆け寄ってきて彼女を嗜めるのを聞きながら、突然現れた犯人に目を丸くするしかなかった。
「こら! やめるんだ!」
「でも、お兄ちゃんっ……!」
「でもじゃない!!」
「名前さん? どうしたんですか?」
「あ〜……」
 心配して電話を切り上げて傍に戻って来た彼に、私は指で頬をかきながらどう説明しようか迷う。
 何にせよ、こんな所でする話ではない。
「えっと……とりあえず、場所を移しませんか? 少なくとも、その話題でここで騒ぐのは間違ってるでしょう?」
 私がそう諭すと、彼女は不満げな表情で押し黙る。
 その隣で初めて申し訳なさそうな表情で頭を下げる男に、私は自分の隣で状況が飲みこめていないであろう彼を見上げた。
「すみません、少し別行動にさせていただいても?」
「いえ、心配なので一緒に行きます。どうやら僕も関係あるようですし、彼女の発言にも少し気になることがありました。……構いませんよね?」
 いつもの穏やかな雰囲気もないまま真剣な表情で向かいにいる二人に目を向けた安室さん。その若干強張った声音がどこか怒りを含んでいるようにも感じられて、目を向けられた二人だけでなく、私まで萎縮してしまった。
 しばらくの沈黙のあとに小さく頷いた男性が、なんだか不憫に思えた。
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