カフェ&ベーカリー『檸檬』には、イケメンの常連客がいるF


「名前ちゃん」
 売り切れたパンのトレーを片付けていると、祖母に声をかけられた。
 振り向けばニコニコと微笑んでいる祖母が立っていて、彼女の手には紅茶とコーヒーと手作りのシュガーラスクをのせたトレーがある。
「すまないけど、これを一番奥のテーブルに持っていってくれるかい? そのあとは少し休憩して構わないよ」
「うん、分かった。ありがとう」
 今日は珍しくお客さんが途絶えることなく来店していたので、十分な休憩時間がなかった。そういう時、祖母はおやつ時になると、よく短い休憩時間を入れてくれるのだ。
 特に怪しむことなくそれを受け取り、私は配膳の為にカフェスペースの一番奥のテーブルに向かった。
 しかし、そこに座っている人物を見て、私はこれが祖母の策略であったと気づく。
「安室さん……!」
 いつの間に来店していたんだろう。全く気づかなかった。
 そう思いながら声をかけると、テーブル席で読書をしていた安室さんは、顔を上げてにこやかに微笑んでくれた。
「ああ、名前さん。お疲れ様です。待ってましたよ」
「ええっ!? お、お待たせして申し訳ありません! こちら、ご注文のコーヒーになります……!」
「いえ、コーヒーのことではなく」
 慌てて彼の前にコーヒーを置くと、安室さんがすかさず訂正を入れた。
「名前さんを待っていたんです」
「へ? 私、ですか……?」
 名指しされて、ドキリとする。
 意図せず赤くなっていく頬の熱を感じながら聞き返すと、私の動揺に気づいたのか安室さんが笑みを深くした。
「ええ。お祖母様にはちゃんとお許しをいただいてますので、ご安心を」
 そう言って私のトレーの上を指した安室さん。
 ああ、なるほど。それで紅茶とラスクが一緒にあったのか。つまり、祖母はこれを食べ終えるまで仕事に戻って来なくて良いと言いたいんだな。
 私は納得して、心の中で祖母にこっそりお礼を呟いた。エプロンと頭に付けていたバンダナを外して安室さんの向かいに腰かけ、平然を装いながら用件を尋ねる。
「おばあちゃんにお願いしてまで、私に何かお話でもあったんですか?」
 安室さんが私を仕事中に誘い出すなんて珍しいことだった。
 彼は会計の時に声をかけてくることはあるが、仕事中であることを配慮してか、カフェスペースを利用している間に声をかけてくることは全くしなかったのだ。
 ──何か、今話しておかなければならない大事な話でもあるんだろうか。
 そう思って身構えたのだけれど、彼は飄々とした様子でさらりと否定した。
「いいえ? ただ単純に、名前さんと一緒にお茶がしたいなぁ、と思って」
「はい?」
 返ってきた言葉に、私は肩透かしを食わされた気分になった。
 ──お茶が、したい? 私と?
 どうして突然そんなことを、と考えても理由が分かるはずもなく、優雅にコーヒーに口をつける安室さんを見つめる。
 すると、私の目を見た安室さんがからかうような含み笑いを浮かべ、首を傾げた。
「……なんて言ったら、勘違いしてくれますか?」
「すみません。私まだ仕事があるので、これで失礼しますね」
「冗談ですよ。嬉しくてついおふざけが過ぎました。あなたとお茶がしたかったのは本当なんです」
 満面の営業スマイルを返して席を立とうと腰を浮かせた私に、すかさず手を伸ばして阻止した安室さん。
 この人は、また。そんな調子の良いことを言って。
 じとりと疑わしい目を向けたら、彼は両手で私の手を握りしめ、いつか見た時と同じく眉尻を下げて困ったような表情で微笑んでいた。
「ね? 許してください」
「ぐっ……」
 文句を言いたいのに。こんな顔をされたら言葉を呑みこむしかない。
 ポアロに顔を出してからは梓ちゃんと仲良くなれただけでなく、安室さんともこうして軽口を言い合えるぐらい距離が縮まったと思う。
 しかし、同時に彼は今みたいに言葉で翻弄してきたかと思ったら、分が悪くなると顔の良さを武器にしてくるようになった。
 察しの良い安室さんのことだ。きっと私がその表情に弱いと見抜いているに違いない。
「……分かりましたから、手を離してください。誰かに見られたら困るので」
 捨てられた子犬のような寂しげな目に耐えきれなくて顔を背けると、安室さんは自分の押し勝ちを感じ取ったのか「僕は困らないですよ」と言った。その声はどこか楽しんでいるように聞こえた。
 これは、また懲りずに人を弄んでいるらしい。
「それとも、名前さんには見られて困る相手がいるんですか?」
「い、いえ。いない、ですけど……」
 ──いや、いる。
 自分に送られてきた嫌がらせの手紙を思い出し、私は今この瞬間もどこかであの送り主に見られていたら、と考えてぞっとした。
「と、とにかく! おばあちゃんは気を遣ってくれたみたいですが、私はこれを飲んだらすぐ仕事に戻りますので」
 そっとさり気なく安室さんの手から自分の手を引き抜き、紅茶に手を伸ばす。
 一口飲んでみると、いつもより熱かった。猫舌の私にはなかなかすぐに飲みきれそうにはない。
(おばあちゃん、絶対わざとだな〜っ!)
 いつもなら少し飲みやすくなるまで冷ましておいてくれるのに。きっと、こうすれば私が時間をかけて飲むと分かっていたに違いない。
 仕方ない、と諦めて息を吹きかけながらちびちびと一口ずつ飲んでいると、安室さんがしみじみと感心した様子で言った。
「名前さんは、本当にお仕事に熱心ですね」
「そうでもないと思いますけど……普通じゃないですか?」
「『最近は仕事に夢中になりすぎて心配になる』とお祖母様が仰っていましたよ。……そこで、そんな働き者の名前さんに提案があります」
「? なんですか?」
 紅茶の合間に食べようとラスクに伸ばした手がピタリと止まる。
 目の前に座る安室さんを凝視すれば、彼は私と目が合うとニコリと笑みを深くした。
「たまには羽目を外して、遊びに行きましょう。……僕と一緒に」
 安室さんと一緒に、という言葉にまた心臓がドキリと大きく高鳴った。
 どういうこと、と驚いて安室さんを凝視すれば、彼は自分がさっきまで読んでいた本の表紙を開き、ピラリと二枚のチケットを取り出した。
 あ、と私は目を瞬く。
(これ、もしかして、この前の買い物帰りに梓ちゃんからもらってた……?)
 あの時は離れていたので何のチケットか分からなかったが、どうやら差し出された物は東都水族館のチケットのようだった。
「実は少し前に『他に予定が入って行けなくなったから』と、梓さんからここの割引チケットを貰ったんです。期限が今月までのようでして……ちょうど二人分ありますし、良ければ息抜きに一緒に行きませんか?」
「それなら、私なんかよりも他の……ご友人とご一緒したほうがいいんじゃないですか? 安室さんも、親しい相手と一緒にいるほうが息抜きになるんじゃ……」
「んー……分かりました、言葉を換えます。いつも美味しいパンを作ってくれるあなたに何かお礼がしたい、という理由もありますが……僕はあなたと一緒に遊びに行きたいんです。どうか、一日だけ僕にお時間をくれませんか?」
「それは、その……うぅん、ずるい言い方しますね……」
 パンを作っているのは仕事なので当然のことだし、それに対してお礼なんて必要ない。自分がやりたいことをしているだけだし、私が作ったパンを美味しいと言って買ってくれるだけで十分なお礼なのだ。
 なのに、安室さんはそんな言い訳じみた理由だけでなく、はっきりと『私と一緒に行きたい』と言ってくれた。
 親しい友人よりも私を誘ってくれたことに嬉しさは感じるけれど、例の手紙のこともあって素直に喜べない私はどう返事をしたら良いのか迷ってしまう。
「でも、あの……ほら、仕事がありますし」
「あ、そこは大丈夫ですよ。先にお祖母様にもご相談済みなので」
(おばあちゃぁああん……!?)
 何から何まで祖母が絡んでいて、ついに私は他のお客さんとお喋りしている祖母を振り返った。
 私の視線に気づいた祖母は微笑ましそうに私達を見て笑うと、ひらひらと軽く手を振っていた。
 違う、そうじゃない。私は頭を抱えた。
「それで、他に心配事は?」
 あるにはあるが、それを彼に伝えることはできない。
 どうやら今の私に、この誘いから逃げる道はないらしい。無言でふるふると首を横に振って答えると、安室さんは「良かった」と安心したように頬を緩ませて目を細くした。
 この時の彼の澄んだ青い目がどこかほんの少しだけ熱がこもっているように見えたけれど、私は気づかないフリをしてラスクに手を伸ばした。
 そして、ぼりぼりとかみ砕きながら手元の紅茶に視線を落とす。
 子供の頃から食べ慣れていた祖母お手製のシュガーラスクは、いつもより甘く感じた。


(──で、結局断りきれずに来てしまった……)
 東都水族館の入り口の前に立っている私は、手の中にあるチケットを見下ろして深い溜め息を吐いた。
(これ……デート、になるのかな……?)
 朝から私より浮かれていた母に「そんな地味な格好でデートに行くの!?」「化粧もするならもっとしっかりしなさい!」「ああ、髪もこんな適当にまとめて……!!」等々あれこれと言われながら、なんとか待ち合わせの時間に間に合うように身支度を調えたけど、ひらひらと風に揺れるお気に入りのスカートの裾を見て思う。
 ──これ、ちょっと気合い入れすぎなのでは?
 家を出る前に私を見てそわそわとしていた父が「ね、ちょっと気合いが入りすぎてない……?」と耳打ちしてきて、その直後に隣にいた母から満面の笑顔で肘鉄を食らっていたのを思い出す。
 私はまた溜め息が溢れた。
 父の言う通り、やっぱりこれは気合いを入れすぎかもしれない。
 今日はただ遊びに行くだけだ。
 安室さんだって今回は『デート』だなんて思っていないだろう。
(一人で浮かれて痛い女だとか思われたら、どうしよう……)
 優しい人だから流石にそこまで言わないかもしれないけれど、こちらの勘違いで引かれてしまったら、きっと私はショックで立ち直れなくなる。
(まだ時間あるし……化粧だけでも軽く落としてしまおうかな……)
 そう考えて緊張と不安を抱えながらお手洗いの場所を探してキョロキョロと辺りを見渡した時だった。
「名前さん?」
「わっ!?」
 気配も感じないまま近づかれて、突然ぽんっと肩に手を置かれた私は盛大に飛び上がった。
 振り返るとそこには私服姿の安室さんがいて、彼は驚いた声を上げる私を見下ろして目を丸くしていた。
「す、すみません。そんなに驚くとは……」
「こちらこそ、その、大声ですみません……! えっと、おはようございます……」
「はい、おはようございます」
 挨拶を交わしてから、安室さんは真面目な顔になってじっと私を凝視する。
(うっ……やっぱり、めちゃめちゃ見られてる……)
 安室さんなら、すぐに普段と化粧が違うことだって気づくだろう。彼の視線から逃げるように私は顔を俯かせた。
「もしかして……お洒落、してくれたんですか?」
「ま、まぁ……成り行きですけど」
 否定したところでこんな格好では説得力もないので、ゴニョゴニョと声を潜めて肯定する。目を逸らしたままなのはどうか許してほしい。穴があったら入りたい気分だ。私だけ変に張り切っているみたいで恥ずかしくて仕方ない。
 やるせない思いでふよふよと靡くスカートを見下ろしていると、視界の端にあった安室さんの腕が不自然に持ち上がったのが分かった。
 しかし、その手はすぐ定位置に戻る。
「……似合ってますよ、すごく」
 ぽつりと静かに呟かれた言葉に、やっぱり社交辞令でもそう言うよね、と思いながらそっと顔を上げる。
 見上げた先には、日焼けしたような色黒の肌でも分かるぐらい目元を赤くして微笑んでいる安室さんがいた。
「うん、すごく……嬉しいな」
 呆れるでもなく、困った様子でもなく、予想外にも無邪気に喜ばれてしまった。
(その反応は、反則なのでは……!?)
 なんだか余計に恥ずかしさが増してしまって、真正面から安室さんの顔を見れない。
 ぼふんっ、と顔が赤くなるのを抑えきれず私は背を向けようとしたが、それは安室さんに手を握られたことで阻止される。
 そして、私が手に持っていたチケットはあっさりと彼に抜き取られてしまった。
「それじゃあ、行きましょうか」
「え」
 ──どうして手を握る必要が?
 握られた手と、安室さんの顔を交互に見たけど、そのまま当たり前のように私の手を引いて歩き出す安室さん。
(え、このまま行くの……!?)
 入り口のゲートに立つお姉さんにチケットを渡してゲートを通り過ぎたあとも手は繋がれたまま。
 私は意を決して戸惑いながら彼に声をかけた。
「あの、安室さん。手を──」
「ここの水族館、意外と見応えあるらしいですよ」
「え? あ、はい、楽しみですね。それで、手を──」
「名前さん、気になる所はありますか?」
 あ、あれれ〜? 安室さん、全然人の話を聞いてくれないぞ……? わざと? わざとなの?
 パンフレットを片手に持って私に見せながら楽しげに尋ねてくる安室さん。その横顔を見上げながら、私は混乱するしかなかった。
「い、イルカがみたいです……」
 とりあえず東都水族館一押しのイベントであるイルカショーを挙げると、彼は「ええ、ぜひ見に行きましょう」と言いながら再び私の手を引いて歩き出す。
 そのあと何度かさりげなく手を引き抜こうとしたけれど、がっしりと大きな手で握られた私の手は全く引き抜けず、やっとのことで「手を離してほしい」と告げたら「せっかくのデートなので、手は繋いだままにしましょう」と満面の笑みで断られた。
 ──あれ? これ、デートだったんですか?
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