カフェ&ベーカリー『檸檬』には、イケメンの常連客がいるE


 あれから、嫌がらせのような手紙はぷつりと止まった。私が安室さんとあまり接触しなくなったからなのかもしれない。
 彼のことを考えると未だに気分はもやもやするが、不安要素がなくなったことに一安心した。どんなに無関係だったとしても、あんな手紙はもらいたくないものだ。
(このまま、何事もないまま終わってくれればいいな……)
 と、無事に平穏が戻ってきたことに安堵しながら店の前を掃除していると、店の中からひょっこりと父が顔を出した。
「名前」
 チョイチョイと手招きされて、私は呼ばれるままそちらに近づく。
「すまないが、配達を頼まれてくれないかな?」
「配達?」
「実は、以前からうちのバターロールを買ってくれているお店があってね。父さんの大学時代の先輩がやっている店なんだけど……今日はいつも受け取りに来てくれるその先輩がお昼から用事が入って取りに来れなくなったらしくて」
「へえ、そうなんだ」
 知らなかった。確かに祖父と父は毎日朝と昼の時間になると他より多めにバターロールを作っていたけれど、まさかどこかのお店に提供していただなんて。
「お祖父ちゃんと話し合って、そろそろ名前にもそのお店のことを伝えておこう、ってなったんだ。ちょうど昼時だし、お祖母ちゃんと母さんも戻ってきたから、配達のついでに息抜きにそこでランチでも食べておいで。最近、腕のいいウェイターが入ったって噂になってるんだよ」
 地図はこれね、と言って差し出されたメモを見る。丁寧に手書きされた見やすい地図には『喫茶ポアロ』の名前が書かれている。
「え、ポアロ? 毛利探偵事務所の下の?」
「あ、もう知ってた?」
「うん、友達から聞いてたの。今、すっごく格好いいウェイターがいるって」
「あはははっ。女の子はそういう話がすぐ広まるなぁ」
 感心するよ、と父は朗らかに笑った。
「それじゃあ、早く準備しておいで。お店の人には、先輩のほうから伝えてくれてるらしいから」
 これは思わぬ幸運だ。前に行きそびれてからタイミングを逃してばかりいたので、是非ともこの機会に噂のサンドイッチを食べてみたい。
 私は大きく頷いて、急いで出かける準備を整えた。


 人通りがそれなりに多い通りに沿って並ぶ店やビルの中にある喫茶店。
 窓ガラスにポアロと大きく書かれたその店の扉の前で、私はドキドキと音を立てる胸を押さえて突っ立っていた。
 客として行くのならまだしも、父の知り合いも不在の中で『檸檬』の看板を背負って店に入るのはなかなか緊張するものだ。
 店を出る直前に「これも渡してくれるかい?」と父から託された便箋をぎゅっと握る。
(そ、粗相のないようにしなければ……)
 そう自分に言い聞かせながら、そっと扉を開く。
 カランコロン。うちの店と同じくドアに取り付けられたベルが小さく音を立て、中にいた従業員が振り向いた。
「いらっしゃいませ──……あ」
「え」
 入り口から見える真正面のカウンター。その中にいる従業員の顔を見て、私は目を丸くした。
 イケメンのハーフ。確かにそうだ。誰だってこんな人を見たらそう言いたくなるだろう。
「あ、安室さん……!?」
 ポアロのエプロンをつけた彼の姿に、私は驚きのあまり固まってしまった。
 なんで、どうして。この人営業サラリーマンじゃなかったのか。じゃあ、あのスーツはなんなのだ。
 湧き出るように浮かんだ疑問があからさまに顔に出てしまったのか、安室さんは苦笑いを浮かべていた。
 そんな彼の後ろからまたひょっこりと顔を出す人物が一人。
「安室さんのお知り合いですか?」
「……あっ」
 その顔は嫌でも記憶に残っている。
 安室さんと同じ買い物袋を持って歩いていた、あの時の女性だ。近くで見ると目が大きくて肌も綺麗でさらに美人に見える。
(彼女さんも、同じ店の従業員さんだったんだ……)
 なるほど、それなら付き合っていてもおかしくないな。こんな美男美女と一緒に働いていたら、ふとした時にときめきを感じてしまったり、恋心を抱いてしまうのも無理はない。
「ええ。今日店長が話していたパン屋さんの娘さんですよ」
「えっ、じゃあ、あなたが噂のレモンちゃん!?」
「れ、レモンちゃん……!?」
 レモンちゃんって、まさかとは思うがレモンパンを指しているんだろうか。人の知らない所で一体どんな会話の流れでそんなあだ名がついたのか。
 何について噂をしていたのか知らないが、この原因を作ったのが間違いなく安室さんにある気がして、私は思わず彼に疑わしい目を向けてしまった。
 目が合った安室さんは指で頬をかき、誤魔化したい様子で視線を泳がせていた。
「す、すみません……まだ名前を知らなかった時期に話題になって、呼びやすいあだ名をつけよう、ってことで……梓さんが」
「え〜っ! 安室さんだって、結局ここでは気安くレモンちゃんって呼んでたじゃないですか!」
「梓さん、お願いですから今はその話は内緒にしてください……!」
 いや、別にどんな呼ばれ方をしていても良いんですけど。なんだこの二人。目の前でいきなり痴話喧嘩を始めたぞ。それも人のあだ名が原因で。仲良しアピールですか、そーですか。
 仲の良い二人の姿を見てショックを受けるよりも先にちょっとムカッとしたけれど、それでも相手がうちの店のお得意様であることを思い出し、私はすぐに営業スマイルに切り替えた。
「あの、苗字名前です。カフェ&ベーカリー『檸檬』のオーナーの孫になります。いつもうちの店をご贔屓にありがとうございます。こちらがご注文の品と、父から預かった手紙になります」
 兎にも角にも、まず優先するべきはこのパンと便箋だ。大きな袋をレジカウンター越しに差し出すと、安室さんがにこやかな笑みを浮かべて受け取ってくれた。
「はい、こちらこそ。いつも美味しいパンをありがとうございます。お昼、まだなんですよね? 良かったらカウンター席へどうぞ」
「あ……」
 忘れていた。驚きの連続ですっかり頭から抜けていたが、ここには噂の美味しいサンドイッチを食べに来たんだった。
(けど、この二人がいる空間で食べるのかぁ……)
 それは少し、ううん、かなり心が重い。でも、サンドイッチは食べたい。お腹も空いた。
「名前さん……?」
 帰りたいが、食べたい。そうやって一人ぐずぐずと悩んで動かない私に、安室さんは首を傾げる。
「いえ、あの………………それじゃあ、お言葉に甘えて……」
 花より団子。
 色欲より食欲。
 私のくだらない意地は、念願のサンドイッチの誘惑には勝てなかった。
 控えめな声で頷いたら、私の返事を待っていた安室さんは嬉しそうに頬を緩ませた。


 他のお客さんがいなくなった空間で、安室さんと、その彼女さんらしき女性──榎本梓さんと、私の三人。一瞬でも沈黙になれば重苦しい空気が私に漂うと思われたのに、その心配は必要なかった。
 安室さんはもちろんだが、榎本さん──梓さん(名前で呼べと押し切られた)も人とコミュニケーションを取るのが上手なようで、彼らはずっと作業をしながら私とお話を続けてくれたのだ。
 二人の積極的な態度には劣るけれど、同じく接客を生業としている私も人と話すことは好きだ。二人の邪魔をしてしまうことに気後れしつつも、厚意に甘えて会話に混ぜてもらった。
 ここでまた一つ驚いたのだが、実は安室さんは『私立探偵』だったらしく、このポアロの上にある毛利探偵事務所を営む毛利さんのお弟子さんでもあったらしい。
「黙っていてすみません」
「いえいえ、気にしないでください。むしろ、色々と納得できました。安室さん、よく人を見ているから」
 職業柄であるなら、彼のずば抜けた洞察力にも頷ける。スーツ姿なのも、毛利小五郎がいつもスーツなのに合わせているのかもしれない。
 ふむふむと納得する私に安室さんは「そんなことないですよ」と謙遜しながら、どこか決まりの悪そうで曖昧な笑みを浮かべていた。
「お待たせしました」
 そう言ってカウンターから手を伸ばして私の前に置かれたそれは、ぱっと見た限りではハムとレタスの普通のサンドイッチだった。四等分に切られており、綺麗に盛り付けられている。
「安室さんお手製のハムサンド、すごく美味しいんですよ。うちでも人気のメニューなんです」
「みたいですね。噂で何度か話は聞いてました」
 言いながら、サンドイッチをつまみ上げる。
 ここで、私はすぐに気づいた。
 パンがふわふわしているのだ。スーパーで売っている市販のパンや、そこらのチェーン店のパン屋で売っているサンドイッチは手に持った時にここまでふわふわとしていない。行儀悪くもくにくにと軽く押し潰して感触を確認してしまった。
「名前さんのお口に合えばいいんですが」
 口を入れる前からしげしげと吟味している私に、紅茶を入れながら安室さんはニコニコと笑っている。
 いけない。人様の前で祖父みたいなことをしてしまった。
 慌てて居住まいを正し、ぽつりと呟く。
「……いただきます」
 ぱくりとかぶりついた。指で感じた時と同じふわふわとしたパンの感触と、シャキシャキ、と音を立てたレタスの噛み応え。口内に広がるマヨネーズの味。
 ──これは。
「お、美味しい……! これ、すっごく美味しいです! ふわふわのパンに、マヨネーズ……に、何か混ぜてますよね? これ、マヨネーズを使ったソースなんですか? 発想が天才すぎる……」
 最早文句のつけようがない。これは確かに美味しいサンドイッチだ。祖父が作った物よりも美味しいと言われたら反論できそうにない。
 ただ、好みは人それぞれなのでそこまで気にはしていないが、パン屋ではなくただの喫茶店の従業員が作った物と比べられるのは、少し凹んでしまう。
「本当ですか!? 嬉しいなぁ。名前さんにそこまで褒めてもらえて」
 こっちは全力で悔しがっているというのに、私の褒め言葉にぱぁっといつも以上に華やいだ笑顔を浮かべた安室さん。
 その細くなった青い目にとろりとどこか甘い色を含んだものが見えて、ドキリとした。
「というか……一口で隠し味に気づく名前さんも、十分にすごいと思うんですけど……」
「いえ、私なんて全然ですよ。結局なんの味か分からないですし……ん、ちょっとしょっぱい……? からい……? 何これ……絶対食べたことあるのに全然分からない……これ、何を混ぜたんですか?」
 彼の隣で呆然と私を見つめる梓さんに、私はぐぬぅ、と悔しさを噛み締めながらモグモグと咀嚼を続ける。
 安室さんは嬉々とした様子で笑みを浮かべ、私の前に淹れたての紅茶を置いてくれた。
「ふふ……企業秘密にしておきましょうか。名前さんのために愛情たっぷり込めて作っているので、たくさん召し上がってくださいね」
「んぐっ!?」
 さらりと言われた台詞に、私はうっかり飲みこもうとしたサンドイッチを喉に詰まらせてしまいそうになった。
 ごくんと口の中の物をなんとか胃に押しこんで、私は安室さんを凝視する。
 愛情たっぷりって、それは私に言ったら駄目なやつなのでは。
 そりゃあ、私だって料理に愛情は必要だと思うけど。自分が作るパンにもたくさん愛情を込めてますけど。でも、どう考えても彼女の前で言う台詞ではない。
 ひやりとしながら私はチラリと梓さんを横目で見た。じとーっと半目で安室さんを見ている彼女は、どこか呆れているように見えた。
 前から思わせぶりな発言が多いと思っていたけれど、まさか安室さん、普段からこの調子なのかな。彼女の苦労を知って、ちょっぴり同情した。
「……安室さん、そういうのは良くないです」
「え?」
 私の言葉の意味が理解できなかったのか、きょとんとする安室さん。無自覚なのか、それとも天然の女誑しなのか。彼の反応に私はますます困ってしまう。
「それ、恋人が聞いたらあまりいい気がしないと思うんですけど……」
「……恋人?」
「ええっ!? 安室さん、恋人がいたんですか!?」
 さらにこてん、と首を傾げる安室さんに、驚きの声を上げたのは予想外なことに梓さんのほうだった。
 大袈裟に後退りして信じられないものを見るような目を向けている彼女に、今度は私が首を捻った。
(あれ? どうして梓さんが驚くの……?)
 彼女が恋人なら、そんな驚く必要はないはず。もしかして、二人は付き合っていないのだろうか。
 それなら、どうして二人で買い物に──あれ、待てよ。この小さな喫茶店で働いているなら、買い物だって普通に自分達でするよね。重い物を買うなら男手が欲しいのも分かる。
 そこまで考えて、私はサーッと青褪めた。
 カウンター越しにいる安室さんがまた苦笑いしていた。
「あの、すみません、名前さん……僕、まだ独り身なんですが……」
 なんという失礼な話だ。私はとんでもない勘違いをしていたらしい。勝手に勘違いして気まずくなっていただんて恥ずかし過ぎる。
「し、失礼しました……てっきり梓さんと恋人なのかと……!」
「ええーっ! ちょっ、名前さん、それ絶対ありえませんからね!? JKの前で言っちゃ駄目ですよ!?」
 本人を前にして「ありえない」とか言っちゃう梓さん、思ったより結構辛辣だな。それであんな目を向けていたのか。
 安室さんも少しだけ遠い目になっているけれど、ここで彼が梓さんにどんな扱いを受けているのかほんの少しだけ垣間見た気がする。
(でも、そっか……恋人じゃ、なかったんだ……)
 安室さんの口からフリーだと聞かされた途端、胸の中でずっと渦巻いていた靄はスッキリと晴れてしまった。
 安心したら、今まで抑えつけていた感情がむくりと頭をもたげ始める。
 そんな期待に胸を膨らませようとする浅ましい自分を、咄嗟に頭を振って振り払った。
 ──ところで。
「なんで、JK……?」
 疑問になって梓さんを見る。
 すると彼女は無言で自分のスマホを取り出し、素早い動作で今流行りのSNSを起動させて私に画面を向けた。
 どれどれ、と興味本位で彼女が見せてくれたそのページをスクロールさせてみれば、出てくるのは私に送られてくる手紙なんかよりも酷い罵詈雑言の文字ばかり。
 梓さんの言いたいことをすぐに理解し、私はその画面を見たことを後悔した。
 これは思ったより深刻な問題なのでは。
「……梓さん。心中お察しします。今度うちに来てください。うちのパンで良ければご馳走します」
「ありがとう、名前さん……!」
 がっしりと手を握り合った私達になんとも言えない顔で閉口した安室さんが空気になっていたけれど、そんなこともお構いなしに私達はそのまま二人で女子トークに花を咲かせた。
 だから、梓さんとお喋りしている間に安室さんが何度か窓の外を見ていたことも、ポアロの窓ガラスから自分を見つめる誰かがいたことも、私は気がつかなかった。
 そしてこの時、私がつい夢中になって時間を忘れて話しこんでしまい、その日の夜に祖父のお小言という名の説教を受けたわけだが、まあ、その話は割愛しておこうと思う。
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