カフェ&ベーカリー『檸檬』には、イケメンの常連客がいるD


 ぱちぱちぱち。軒に当たる雨音で目を覚ました。
 閉ざされたカーテンをそっと開くと、窓から見える空はまるで私の心の中を映し出したようにどんよりと曇っている。
(あんまり、寝た気がしないな……)
 ここ数日、ずっとそうだ。
 安室さんとその彼女さんらしき女性を見てから、私の心はずっと重石がぶら下がっているように重たい。
 何度も自分には関係ない、忘れたいと思っているのに、目に焼きつけてしまったあの二人の姿はなかなか消えてくれなくて、町で見かけたあの光景を思い出す度に気分が沈んでしまう。
 つい先日も、暗い顔をしていたのか家族だけでなくお客さんにまで心配されてしまった。
 ──このままでは、いけない。
 幸いにも、安室さんはここしばらく店には来ていない。
 この間に気持ちを切り替えておかなくては、顔を合わせた時に彼にも気づかれてしまうだろう。
(……ううん。そもそも、会わないほうがいいんだよね)
 彼と話すことがなくなれば、あんな嫌がらせのような手紙だってなくなるに違いない。
 そうであってほしい、と小さく心の中で願った。


 しばらくの間、私は厨房の仕事も手伝うことにした。
 パン作りの仕事も少しずつやっていきたい、と家族に相談すれば、意外にも私の話に祖父が賛成してくれたのだ。
 前々から手が足りない時は私が中の仕事を手伝っていたので、手伝いの合間に売り切れになりやすいレモンパンを追加で作っていきたいのだと話せば、誰も私の提案を訝しむことはなかった。ただ、母は少しだけ不思議そうにしていたけれど。
 私が厨房にこもっている間、接客はほとんど祖母と母が担ってくれている。
 あの大柄の男性も相変わらず大量にパンを買っていくそうだが、私が相手でなければ無言で帰っていくので何も問題はなかった。
(やっぱり、私にはこっちのほうが合ってるのかも……)
 パンを作るのは大変だけれど、苦ではない。小さい頃から当たり前のようにやっていたことだし、趣味にしてしまうほど楽しかったりする。
 パン生地を伸ばしながら、まだ子供だからと店のお手伝いを許されなかった懐かしい幼少期をふと思い出す。
 あの頃は確か、祖父にどうにか店を手伝うことを認めてもらいたくて、こっそり家のキッチンでパンを作っていた。
(……あれ?)
 パンを作って、それからはどうしたんだっけ?
 初めて一人で作ったパンは、確か──。
「名前、安室さんが来てるわよ」
 ひょっこりと厨房に顔を出した母に声をかけられて、ばくん、と心臓が跳ねる。何か思い出しそうだった記憶はすぐに心の奥底にぼちゃんと沈んでしまった。
 作業していた手を止めて視線を上げれば、ガラス越しにやんわりと笑みを浮かべながらレジの向こう側に立つ安室さんが見えた。
 それに愛想笑いでペコリと会釈を返し、すぐに視線を手元に落とす。
「え? それだけ……?」
 彼への対応に違和感を抱いたらしい。母が怪訝な表情で私を見る。
 確かに、いつもの私なら仕事の手を一旦止めて厨房から顔を出して挨拶をするぐらいはしたかもしれない。母が怪しむのも仕方ないとは思う。
「……お母さん、いいから仕事してきて」
 目を向けることもなく素っ気ない口調で告げると、母は唇を尖らせながらレジの方へと戻っていく。
「ごめんなさいね、安室さん。あの子、なんだか最近おかしくって……」
 黙々とパン作りに没頭している私に、祖父と父がチラリと目を向けてくることも、ガラス越しにいる安室さんがじっとこちらを見ていることも分かっている。
 それでも私は、申し訳なさそうに謝る母の声を遠くに聞きながら、ただただ手を動かすことに集中していた。
「もうっ! どうしちゃったの、名前ったら……せっかく安室さんが名前を気にかけてくれてたのに」
「……お前より名前のほうがしっかりしとるというだけだ。遊びじゃないんだぞ、真面目に働きなさい」
「それは分かってるけど……はぁ」
 安室さんが帰ってしまったらしく、厨房に再び顔を出してぷりぷりと怒る母の言葉を、私に代わって祖父が一蹴した。
 母はまだ納得いかない様子だったけれど、全く反応を示さない私に諦めたのだろう。
 深い溜め息を吐いて渋々と自分の仕事に戻っていった。


 今週は、やけに雨の日が多かった。
 そんな悪天候でも、比較的この日は特にお客さんが多かった。
 テスト期間中なのだろうか。雨宿りに訪れる社会人に混ざってカフェで勉強する学生も少なからずいて、カフェスペースは常に満席の状態になっている。
 そんな中レジの前にも会計を待っている人が数人いて、私達はパタパタと少し慌ただしくお客さんを捌いていた。
「お待たせしました、お次の方どうぞ」
 そう言って顔を向けた先にいたのは、可愛らしく髪をお団子にまとめた女子高生だった。
 トレーの上には日替わりで売り出しているシナモンロールがぽつんと置かれている。
「お持ち帰りでよろしいですか?」
「……」
 無言のまま、彼女はコクンと頷いた。
 猫のようなアーモンド形の目が何か言いたげにこちらを見つめていたので、もしかしたら店員と余計な口を利きたくないタイプなのかもしれない。
 私はさっさと袋に詰めてレジを打ち、会計を済ませようとした。
「……あの」
 声をかけられて、私は手を止める。
 レジの前に立つ彼女は私と目が合うと、少しだけ怯んだように口を噤んでしまった。しかし、数秒の間を置いてからすぐに意を決したように口を開く。
「恋人とか、いるんですか?」
「……はい?」
 まさか女子高生からそんな質問を受ける日が来るとは思わず、つい素っ頓狂な声で聞き返してしまった。
 目を丸くする私に対し、彼女は至って真剣な表情で「どうなんですか?」と質問を繰り返した。
 やけに詮索してくる子だな、と心の中で疑問を抱きつつ、けれど女子高生らしい話題の質問に私は笑いながら会計の手を再び動かした。
「いませんよ、恋人なんて」
「本当に?」
「はい。こんなことで嘘なんて吐きません」
「じゃあ、好きな人は?」
 その言葉にぴくりと反応して、手が震えた。
 一瞬だけ脳裏を過った人物がいたけれど、すぐに追い払う。
「……残念ながら」
 それだけ言ってニコリと笑みを深くし、会計を済ませておつりとレシートを返し、シナモンロールの入った袋を差し出す。
「お手拭きも一緒にお入れしておきますね。ありがとうございました。またのお越しを、お待ちしております」
 暗に話はこれでお終いだ、と告げると、女子高生もそれ以上は何も言わなかった。やや不服そうではあったが、渋々と袋を受け取ってくれたことに私はそっと息を吐いた。
 一体、今の子はどういうつもりだったのか。
 彼女の質問の意図が分からなくて不思議だったけれど、そんなことを考えている間にもお客さんは途切れることなく訪れるわけで、疑問を残しながら私は彼女のことを頭の片隅に追いやった。
「こんな天気だと、カフェで休もうと思ってるお客さんが来てくれるから、ありがたい話よね」
「そうねぇ。おかげさまで、今日の売り上げは今月一番の成績だろうねぇ」
 ようやくお客さんが減って一段落がついた。母と私がぐったりと疲れた顔をしている横で、のんびりとした様子で祖母は笑っていた。
「おばあちゃん、疲れないの?」
「私は慣れているからねぇ。もう何十年と経験していることだもの」
 伊達にパン屋の嫁はやっていないのよ、と微笑む祖母に、私もつられて笑顔になる。
「でも、流石に今日は疲れたでしょ? お母さんと一緒に先に休んできなよ。会計は私がやっておくから」
「おや、そうかい? じゃあ、お願いしようかね」
 早めに戻るからね、と言いながら休憩に入っていく二人を見送って、私は「すみません」と声をかけてきたお客さんに目を向けた。
 見るからに真面目そうな印象の眼鏡をかけたスーツ姿の男性がレジカウンターにトレーを置く。
 私はあっ、と気づいた。彼もまた、この店で何度か見かけたことがある人だった。
「いらっしゃいませ。お手拭きは何枚ご入り用ですか?」
「二つ、お願いします」
 二つ。今日は二人分なのかな。
 名前は知らないが、いつも数人分のパンを持ち買って帰ってくれるこの人は、今日もいくつかのパンを購入していた。祖母特製のカツを挟んだサンドイッチが二つと、それからカレーパンが一つ。
「あの……レモンパンって、今日はもう売り切れたんでしょうか?」
「レモンパンですか? 生憎、只今焼いているところでして、あと十分ほどで焼き上がるかと思うのですが……」
「それなら待ちます。上司がどうしてもここのレモンパンが食べたいと言っていたので」
「えっ、そうなんですか!? わぁ〜、ありがとうございます!」
 ──この人の上司さんもレモンパンを買ってくれていたんだ。嬉しいなぁ。
 心の中で呟いた喜びは隠しきれず、頬を緩めながらパンを持ち帰り用の袋に詰め、レジを打つ。会計をさっと済ませ、おつりとレシートを渡してから「良ければ、あちらの席でお待ちください」とカフェスペースを手で示した。
 ペコリと黙礼してカフェスペースへと向かう男性を見送り、残っていた会計待ちのお客さんを数人対応してから厨房に戻る。
 ちょうどタイミング良く祖父がオーブンからレモンパンを取り出してくれたところで、私は焼き上がったばかりのそれを一つ袋に詰めて、急いでカフェスペースにいる男性の所へと近づいた。
 スマホを触っていた彼は、私の気配にすぐ気づくとさっと立ち上がる。
「大変お待たせいたしました。焼きたてになりますので、こちらの袋に入れさせていただいております」
 ありがとうございました、と言ってパンの入った袋を手渡すと、彼は薄く微笑みながら「こちらこそ」と軽く会釈を返してくれた。真面目な顔をしていると近寄りがたい雰囲気があるけれど、この男性は笑うと少し可愛らしい。「ギャップがあっていいわよねぇ」と言っていた母の言葉を思い出し、私も心の中でこっそりと同意した。
(……でも)
 ──安室さんの笑顔のほうが、私は好きだな。
 ただ純粋に、そう思った。


 次の日は、ここ最近の悪天候が嘘のように雲一つ見当たらない快晴だった。
 一日の中でも特に混雑することのない朝の時間。
 水やりをしたばかりの花壇に咲く花と一緒に暖かい太陽の日差しを浴びながら、私は爽やかな気分で店の前の掃除に勤しんでいた。 
 店の前を通り過ぎる近所の人や常連のお客さんに「おはよう」と声をかけられ、その人達と挨拶を交わすのは幼い頃からの私の日課でもあるのだ。
 私がここで働きだしてからは登校中の学生達も顔見知りが増えて挨拶をしてくれる。元気な「おはようございま〜す!」という声を聞く度に朝からほっこりとした気分になれた。
 そんな中、私はふと、どこからか視線を感じて目を向けた。
 そこにはレモンパンを大量に購入していくあの常連客の男性がいた。
 彼を視界に捉えた瞬間に自分の意思に関係なく箒を握る手に力が入ったのが分かる。頬が引きつってしまいそうになるのを必死に堪えながら、私は口角を上げてぺこりと頭を下げた。
 彼がこんなにも早い時間に店に現れるのは初めてだ。
(どうしてこんな朝早くに……!?)
 考えたところで答えが分かるはずもなく、そして私が混乱していることなんて知る由もない彼は、のしのしと歩み寄って来た。
「……」
「? お、おはようございます……?」
 目の前まで歩いてきた彼は沈黙したまま口を開かない。今度は何を言い出すのだろう、と思いながら無表情のまま自分を見下ろして立ち尽くす彼に挨拶をしてみたが、彼は私をじっと見つめたまま微動だにしない。
「えっと……」
 どうしよう。この人が何をしたいのか分からない。
 困惑しながら見上げると、やはりあの鋭い三白眼が自分を見下ろしていて、私は得体の知れない恐怖で緊張してしまう。
「……もう、気づいていると思うけど」
 喋った! いや、前から喋っていたけれど!
 ボソボソと少し聞き取りづらい声量で話す彼に、今度は何を言われるんだ、と警戒心を抱えて私は耳を澄ました。
「俺は、君が好きだ。付き合ってほしい」
「……えーと」
 あ、うん。そうなんだろうな、って思ってた。
 浮かんだのはその言葉だけで、彼からの告白にときめきも何も感じない。
 そりゃあ、あれだけあからさまに声をかけられていたら嫌でも感づくだろう。本気だったのかどうかまでは分からなかったけれど。
 きっと、今の私は乾いた笑みを浮かべているに違いない。
 少し考える素振りをみせてしまったが、答えは最初から決まっていた。
「……お気持ちは嬉しいのですが、ごめんなさい。今は誰ともお付き合いする気はないです」
 どう言えば相手が傷つかないのか、と頭の中でぐるぐる言葉を浮かべて悩んではみたものの、最終的には相手の望む答えはあげられない。だから、素直な気持ちのまま答えた。
 すると私の返事を聞いた彼はポツリと「そうか」と呟き、僅かに肩を落としながら今までずっと無表情でいた表情を少しずつ変えてニタリと笑う。
(ひぃぃいいいい! だから、その顔が怖いんだってば〜〜っ!!)
 失礼なのは分かっている。彼も悪気はないと思う。それでも、怖いものは怖いのだ。
「気にしないでくれ」
「は、はひ……しっ、失礼します……!」
 ──いやいや、普通に気にするから!
 流石にこれ以上顔を合わせるのは気まずいものがあって、早々に掃除を切り上げることにした私は勢いよくお辞儀をすると、逃げるように店の中に飛びこんだ。
 中からは祖母と母が私達に気づいて様子を見ていたらしい。「大丈夫?」と声をかけてくれた。それに「大丈夫」と笑顔で頷いてみたけれど、彼から離れて安心した途端にどっと肩に重みを感じた。
 そのあとに口から漏れた大きな溜め息は、どうしても疲れを隠せなかった。
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